第九章 3000と1命の犠牲
第一話 賢きうつけもの
永世中立国という概念は、この世界にはまだない。
それでもいくつかの理由から、お互いが手を出せない場所というのは存在する。
この大陸の武器庫、バルカン半島のようなそこは、多くの脅威が蠢く場所だった。
魔獣。
そう呼ばれる種族がいる。
人でもなく、魔族でもない。
ただ、ほかの命を無作為に食い散らかし、いたずらに奪う化け物。
その大部分が生息するのが、大陸の西部に位置するシヤトラの森であった。
この森は、南北に長く伸びており、一部はハイドリヒ伯の治めるエルフの森へと続いている。
また、神聖ロジニア帝国属領シュトーテンの近隣にも、この森のはしっこが存在する。
エルフの森からシュトーテンに向けて、ここ最近、大型の魔獣が出没しているという情報があり、一層近づく者はいない。
かつて姫様の母親は、魔獣を相手取って〝ともだち〟になって見せたというが、それはやはり異常なことで、ほとんどの者にとって魔獣は脅威でしかなかったからだ。
そんなシヤトラ大森林に面する小高い丘の上に、急遽その施設は建造された。
入り口は南北にひとつずつ。
中央には卓が設けられ、この大陸の地図が置かれている。
東西の位置には玉座が設置され、そして薄いベールが、お互いの顔をさらすことを阻んでいる。
人間、魔族を問わない数名の、屈強な兵士と魔術師たちが、施設の周囲を取り囲んでおり、一触即発の雰囲気を醸し出していた。
東側に座るのは、我らが姫様。
アトラナートさんとデーエルスイワさんが、従者としてそばに控えている。
そして、西側に座る人物──
神聖ロジニア帝国皇帝──ロジニア・ド・ヴィエトロ・ドノガ。
この会談の席において、最大の懸案事項そのもの。
ベールの外からうかがえるのは、その人物がそれほど大柄な体格ではないことと、異様な気配を有していること。
そして、美しい少年がひとり、こちらのメイドと同じように、ベールの外に控えているということだった。
はたして、先に口を開いたのはロジニア皇帝だった。
「さて──余をこんな
その言葉に、空気が一瞬で張り詰める。
デーエルスイワさんが警戒態勢を取り、アトラナートさんも身構える。
……このタイプの為政者を、僕は初めて見る。
第一王女、第二王女、姫様、そしてアルヴァ王。
そのどれとも違う──恐怖そのものを形どったような手触り。
それが、目の前の皇帝から放たれる威圧感の正体だ。
「そうであろう、リャンミル?」
「はっ、皇帝陛下のお考えのままに」
────待て。
なんだ、その声は?
「リャンミル。余は思うのだ、このような魔族とかいうわけのわからぬもの……その首魁、この場で駆逐すれば多少ましになるのではないかと」
「まし、でございますか」
「応。なんとも耐え難い、トカゲの糞のような、鼻のひん曲がりそうな臭いがしおってな!」
そういって、ロジニア皇帝はわざとらしく大声で笑う。
いや、嗤う。
姫様が嘲笑されている。
それが理解できても、僕は、なにも口にすることができなかった。
アトラナートさんなど、ギリギリと歯をかみしめているのに、僕はそれすらできなかった。
だって、その声は。
リャンミルと呼ばれる美少年の声音は──
「まったく、人が悪いの、ロジニア皇帝陛下。いえ──悪いのが人間なの、というべきなの?」
冷静さを失いかけていた僕の耳に、姫様の声が届く。
いつも通りの声音で、彼女はロジニア皇帝へと、応じる。
「お初にお目にかかるの。私はフィロ・ソフィア・フォン・ナイド=ネイド。いまのところ魔族を束ねている──あなたの言葉を借りれば首魁なの」
「……ほぅ。おまえがそうか、噂に名高い〝狂乱の赤雪姫〟。どれ、じっくりと顔を見せてみよ。その御簾を上げてみせよ」
「それには条件があるの」
「はっ! 余に条件であるか! この世界を治める余に! だが、格別に許すとしよう。王とは鷹揚でなくてはならぬ」
ありがたい話なの、と。
まったくありがたくなさそうに呟いて、姫様は条件を口にする。
「まず、私の話を聞くの」
「ほう、話とは? 寝物語であるか?」
「いいえ、目覚めのためのお話なの。ロジニア皇帝陛下、私はあなたに──ここで講和条約を結んでほしいと思っているの」
「はっ──」
ロジニア皇帝は。
「はっは──」
ロジニア・ド・ヴィエトロ・ドノガは。
「はーはっはっはっはっはっは!!!」
両手を叩きながら、大笑いをした。
「──そんなもの、ありえるものかよ、大うつけめ」
底冷えするような冷たい言葉が、会談の場を、凍てつかせる──
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