第二話 炎は消えた、人は地上にて溺れ死んだ
「押し寄せる敵の暴威におびえる必要もなく、勝手に死んでいくさまを安全地帯から拝める! これは戦争としては、最上級の展望じゃないかッ?」
『マスター、思っててもいいけど、それは口に出さないほうがいいやつだよ。ぼく知ってる。それ、マスターの世界でいうところのフラグだよね?』
やめてくれ。
たまには勝利の美酒に酔わせてくれ……
というわけで、僕のフラグ建築もあり、人類連合軍の第二回征伐は年の瀬も迫るころに行われた。
その目的はリヒハジャの奪還。
およびそれ以北の領地、つまり魔属領への侵攻だ。
というのも、豪雪地方であるナイドに雪が降ったため、炎の壁の火勢が、突破できるぐらい弱まってしまったのである。
「もちろんそれは織り込み済みなの。馬も食料も水も凍ってしまうぐらい寒いナイドなの。そんなところに冬季進軍するなんて、馬鹿がやることなの」
だが、人類はその愚策を敢行した。
食糧事情と、そして目の前に突破できる薄い壁しかないという事実が、人類軍の判断力をマヒさせたのだ。
「馬鹿なの。あっぱらぱーなの……そんな敵兵のために書類を書かなければいけない私は、哀れ極まるの」
しくしくと声に出しつつ、いつもの無表情で書類にサインをしていく姫様。
「レヴィ、もうすぐ書類の決裁が終わるの」
「決裁が終わるとどうなるんです?」
「知らないの? 人類が10万人減るのです」
そのとおりになった。
妨害らしい妨害も受けず、ふたたび西ナイドまで素通りした人類軍は、それを怪しむこともせずさらに北進した。
絶望的な兵力差に、魔族が諦めたのだと考えたらしい。
彼らがもう少し賢明だったら、あるいは死傷者の数は減ったかもしれない。
「という訳で王手なのです。今日はとてもよい風が吹くの」
清々しい表情とともに、姫様は書類の決裁を済ませる。
それが、人類軍がこれまで喫したことのない大敗へのゴーサインだった。
決済の数日後、
人類軍の先兵すべてが、溺れ死んだのである。
ナイド王国の背後にそびえる急峻な山脈。
そこから西ナイドへと向かって、強い風が吹き込んだとき、ほんのわずかな時間、彼らは腐った卵のような臭いに顔をしかめた。
だが、その臭気もすぐに薄れ、人類軍は気に留めることなく行軍を続けた。
前進し、前進し、前進し。
結果、先頭を進んでいた大隊が、ある瞬間一気に壊滅したのだ。
「なぅー、魔王様よー。なんでも人類は泡を吐いて、のどを押さえて、顔色を紫にして、溺れ死んだらしいじゃねーか。これ、どんな魔族のどんな魔術を使ったのか、わたしにも教えてくれよなー」
ちょうど書類を持ってきたハイドリヒ伯が、姫様にそんな問いかけをする。
姫様はいやそうな顔で書類を受け取りつつ、なにかを思いついたようにうなずく。
「そういえば、コレトーは別動隊だったの。わからなくて当然なの」
「だろー? 愚鈍な臣下にかみ砕いて説明するのも上に立つ者の仕事だぜー?」
これに対しては、アテンが楽しそうに笑っていた。
『魔族は嘘がつけないもんね、溺死だって言われたら信じちゃう。愚直だよねー』
確かに魔族は嘘がつけないし、愚直だ。
しかし、人類もまた、愚直だった。
魔族は嘘がつけないから、その力に任せ策など弄さない──などと、愚にもつかないことを本気で考えていたのだから。
「自分たちが不利なことを相手はやらないと考える……まったく、やれやれなの。レヴィから聞いていた通り、それは希望的観測の極致なの」
ふるふると首を振りながら、姫様はハイドリヒ伯に答える。
「私が使ったのは、水ではないの。この日のために大量の書類を書いて準備したのは──」
毒ガス。
それが、人類を溺死させた策略の正体だった。
「火山に棲む魔族たちがいるの。そこは、過酷な生息圏なの。ナイドには大きな火山がたくさんあって──そこには、有毒な煙が満ちているの」
硫化水素。
そして、火山ガスの中に含まれる塩化水素──いわゆる塩素ガス。
前世の第一次世界大戦において、核兵器に匹敵するとまで言われた猛毒だ。
ああ、なんたることだ。
僕は以前、たしかに悪名高きマスタードガスと、開発者たるフリッツ・ハーバー博士のことを姫様に語って聞かせた。
だが、それは偉大な学者としてであり、化学兵器の父としてではなかった。
だというのに、彼女は辿り着いてしまったのだ。
祖国の危機に対して、毒ガスを使用するという発想にだ。
「おお、神よ」
「レヴィ、魔族に神はいないの。神を信じるのは人間だけなの」
「ですよねー!」
僕は白目をむいた。
魔術によってかき集められた火山ガスは、意図的に濃度を増したうえで、平原へと放たれた。
毒ガスによって即死したものはよかった。
死にきれなかった者たちは、いつまでももがき苦しんだ。
彼らを救おうと、勇敢なる人類の兵士たちは次々に飛び込んでいったが……数十秒後には、同じように救いを求めるだけの人形と化した。
人類側の被害は恐ろしいほど膨れ上がり──西ナイドとナイド王国の先には、人間の肉壁──屍の山が築かれたのであった。
100000。
姫様の宣言通り10万の敵兵を、魔族は漸減することに成功したのだ。
当然、人類側は戦線が瓦解。
この好機を逃さずに投入されたハイドリヒ宮中伯の軍勢は、一気に戦場を駆け抜け、人類側の領地を接収する。
「火を放つの。また、領地を燃やすの。〝
姫様の命令によって、新たに得た人類の領地は、即座に炎によって蹂躙された。
そうして炎が消えた頃には、重篤な積雪により、人類側は年が明けるまで、魔族側に乗り込むことすらできなくなっていたのである。
わずかな安息と、次の戦いに備えるための時間。
それを魔族が、勝ち取った瞬間であった。
人類は震えあがったのだ。
寒さではなく、ナイドの狂気に。
赤雪姫という──歴代魔族で唯一、まっとうな戦略を用意しうる存在に。
そう、彼女は人と魔族のハーフ。
世界でただひとり、嘘をつくことができる魔族なのだから──
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