第三話 邪悪、産まれた日
三つの勢力による、ナイド内乱は終息を見た。
首謀者たるふたりの侯爵は処断され、白兎王もこの世を去った。
被害は色濃く、しかし内乱は終結したのだ。
だが、魔族の冬は、始まったばかりだった。
ナーヤ王女の処刑……そしてギーアニア第二王女の国王就任を翌日に控えたその日、ナイドに激震が走った。
ついに。
あるいはとうとう。
もしくは、ようやく。
人類連合軍が、魔族に対する休戦の破棄を宣言したのである。
残機を削った僕は、人類側の食糧の備蓄が、もはや略奪以外では賄えないほど
戦争のきっかけは、いつだって貧しさだ。
いつだって、正義だ。
『人類側はこう宣言したみたいだよ、マスター。肥えた土地を、豊かな実りを独占する魔族から、神の恵みを取り戻そうと。邪悪なる魔族に、鉄槌を下し、すべてを奪い返そうと』
こうなれば、邪悪などという言葉はプロバガンダ以上の意味合いはない。
力を行使する者はみな正義であり。
それによって流される血は、仕方のない犠牲なのだ。
反吐が出る理屈だが、
害虫駆除か、悪魔でも殺すつもりか。
人類軍は宣戦布告と同時に、電撃的に進撃した。
敵は100万の大軍勢。
ノーザンクロス辺境伯は、これを事前に察知していたのだろう、ギリギリの瀬戸際で受け止めて見せる。
だが、彼が送ってきた伝令は、数日としないうちに前線が崩壊することを示唆していた。
当然だ。
魔族は疲弊に疲弊を重ねている。
内乱の傷はいまだ癒えていない。
それどころか、一つにまとまれてすらいない。
外交など無意味で。
指導者は不在。
ギーアニア王女が即位すれば、あるいは事態も動いたのかもしれない。
だが、第二王女が内乱で巡らせた策謀は、多くのものを不安にするには十分だった。
彼女が秘める不穏を見抜くものもいたが、ほとんどのものはその権力の前に跪いた。魔族のおきては、弱肉強食である。
だけれど、僕は死にたくない。
死にたくないのだから、行動するしかない。
僕たちに残された選択肢は、戦って死ぬか、戦わずして蹂躙されるかのみ。
そして彼女は──もう誰も、無為に死なせたくなどなかったのである。
§§
みなが寝静まった真夜中のこと。
降りしきる真っ白な雪の中を、黒塗りの馬車が数台、荷物を満載してナイド城から抜け出していく。
姫様の軟禁に伴い、宝物庫に居場所を移していた僕もまた、運び出され、その馬車に積載されていた。
僕は、ある者の手の中で、一部始終を見届ける。
馬車はそのまま、城下町を走り抜け、森へと向かった。
馬車が走る。
まるで沈む前の泥船から、鼠がこぞって逃げ出すように。
走る。
走る。
──いかずちが、夜の闇を焼いて走った。
馬が
恐慌をきたし、馬車の隊列が乱れ、さらなる雷光が閃いた。
「なにをしているのですかも!? 駆け抜けるのですかもー!」
そんな号令を引き裂いて、三度、雷光が迸った。
御者たちは逃げ出した。
そして彼女は置き去りにされた。
馬車から投げ出され、雪でぬかるんだ泥に突っ伏した女性──ギーアニアは、僕を胸に抱きながら、その〝赤〟を見たのだ。
闇夜の中に君臨する白銀。
銀糸の髪は輝かんばかりに逆立ち、紫電を帯びて凄烈に発光する。
体躯は儚げで、しかしその総身から、抑えきれない激情がほとばしる。
その目は赤く、燃えている。リンゴのように、宝石のように、これまで流された血のように。
瞳孔だけが蜥蜴のように細まって、苛烈なる黄金に滾っている。
「そ──」
ギーアニアが、その名を呼んだ。
「ソフィア、ちゃん……?」
「ちゃんは無用なの、姉上」
低く抑えられた声音に、ギーアニアの背筋が粟立つのがわかった。
姫様が一歩、こちらへと踏み出す。
間もななく王になるはずだった悪女が、引きつった悲鳴をあげた。
「か、勘違いしているかも、ソフィアちゃん? これは、ちょっと……そう! わたくし、ちょっとお出かけをしようとしていただけなのですかも!」
「明日は戴冠式なのに、なの?」
「その準備のためかも! ソフィアちゃんには難しいと思うけれど、王になるためにはお話をしなければいけない相手がいるかもよ! そのかたに会いに行くところで──」
「ロジニア皇帝と、いつからこの国を売る話を進めていたのです?」
「──な、にを言ってるのかちっとも」
「内乱を始める前から打ち合わせていたの? 直情的なナーヤ姉上を唆して国を割ったのもこのため? 取り引き材料は無条件降伏。手土産は、ナイドまでの侵攻手順。攻城戦、奇襲のための非常通路の情報。たくさんなの。それを材料に、姉上は自分だけ助かろうとしたの? どこかの領地を手に入れて、ひとりで安全に暮らすつもりだったのです? その──」
彼女が、ギーアニアの背後を指さした。
横転した馬車の荷台から零れ落ちる、無数の財宝を。
金、銀、宝石、絵画、魔力を増幅する宝珠、その他もろもろ。
「ナイドの秘宝を売り払って?」
「そ、そうですかも! 独り占めはいけなかったですかもかも!」
ギーアニアが後ずさる。
姫様が一歩進む。
ギーアニアの背が、馬車にぶつかった。
逃げ場は──もうない。
泥と脂汗にまみれながら、ギーアニアは必死に叫んだ。
「ソフィアちゃんも一緒に行くかも! それがいいかも! だって、そうしたらすべて解決しますもの! ソフィアちゃんはわたくしの下僕として、末永く贅沢に暮らすかも! 大丈夫、人間のことはわたくしがしっかり教えてあげますわ! ……いいえ、あなたには不要かも?」
「どういう意味なの」
「だってぇ」
ギーアニア第二王女は。
この期に及んで醜悪に嗤い。
こう、言い放った。
「あなたには、ゲスな人間の血が流れているんですかも」
「──」
姫様が瞑目する。
売国奴が叫んだ。
「いまかも、アトラナート!!」
倒れ伏していた馬車から飛び出す、巨大な影。
八本の脚と、二本の手を持つ蜘蛛の魔族──アトラナートさんは、
「──御意、ですだ」
その強靭な脚で。
王女の腹部を、貫いた。
ギーアニア王女の、腹を。
「え──?」
理解できないという顔で、目を見開くギーアニア。
その手がアトラさんの身体を掴もうとして。
しかし蜘蛛のメイドは、軽く飛び退り、姫様の横に控えた。
その光景を見て、第二王女は滑稽に首を傾げる。
「どうして、かも……?」
「彼女の故郷で蔓延していた病は、私の命令でアーロン先生に治療させたの」
「あれは、治療法できないはず……の!?」
ああ、やはりマッチポンプだったのか。
アトラさんは、哀れにもギーアニアの手の平の上だったわけだ。
それは少しばかり可哀想で。
だから、僕は意趣返しをすることにした。
ほら、僕メガネっ子メイド、大好きだから。
「知らなかったんですか王女様? ホムンクルスは──万物全知なんですよ?」
「人造生命! フィロ・ソフィアアア!!!」
怨嗟に吠える彼女は、僕を姫様へと投げつける。
姫様は、たやすくそれをキャッチする。
同時に放たれたギーアニアの魔術も、姫様が恒常的に展開する防御魔術に阻まれる。
この防御を貫けるのは、完全詠唱の戦略魔術ぐらいだ。
「経験が生きたの。無事受け取ることができたの」
「高い高いしましたからね」
じゃあ次は、他界他界の番だ。
「おのれ……おのれおのれおのれおのれぇ……! おまえのような呪われた魔族になにができるというかも……混ざりもの如きになにが……」
「…………」
「わたくしが死したところで、王になるのはナーヤですわ! あれが王になれば、確実にこの国は滅ぶですかも!? だったら、わたくしが有効活用したほうが──」
「ああ、それなら、なの」
ポイっと。
ひどく気軽に。
姫様は左手にずっと持っていたそれを。
ギーアニアに、投げつけて見せた。
目と目が合う。
「ひぃっ!?」
「ナーヤ姉上には、国の礎になってもらったの。〝まばゆきもの〟はすべてを巡るの。無駄な犠牲ではないの」
「いしづえ……?」
「私はこれから、魔族を治める王になるの。まず手始めに、姉上の領地をすべて焼き払うの」
「──ッ」
「そして人間から、魔族のすべてを、守ってみせるの」
「くるって……狂っているかも、あなた。やっぱり、その血は呪われて」
「だから、姉上も気兼ねなく、礎になるの」
姫様はゆっくりと、右手をかざした。
そこに生じる術式は、戦場にてあまたの殺戮を生む戦略級魔術。
完全なる詠唱の一撃は、1000の兵士を消し去る。
──
「やめ、やめるかも、ソフィアちゃん」
「『旧き盟約の手にありし征伐の杖よ。その偉大なる光の矢よ』」
「やめて……やめろ……」
「『叡智となって、武威となって、我が対敵を滅ぼす銀雷として降れ』」
「やめろおおお! ふぃろそふぃああああああ!!!」
「『神罰実行──万物を灰燼と帰すイカズチ』──オヤスミナサイなの、姉上」
「ああああああああああああああ──」
「『ゼタサンガ』」
空が割れる。
暗雲が裂ける。
粉雪が蒸発する。
天井より降り注いだ極大の光の柱は、かつて第二王女だったものの遺骸を、この世から完全に抹消した。
姫様が、小さく口を開く。
「──父上、母さま。どうか姉上たちを導いてほしいのです。私は、それを礎に」
切り裂かれた雲の合間から、月光が降りしきる。
積もった雪と月の光に照らし出された姫様は、空を見上げ、その銀糸の髪から、しずくを滴らせる。
小さな、しかし確かな声で、彼女は誓いを立てた。
「私は、人類を滅ぼす魔王になるの」
しずくは彼女の頬を滑り落ちる。
赤い涙が、いつまでも滴り落ちる。
姫様の口元に刻まれていたのは、いびつにゆがんだ笑みだった。
経験に学ぶものは愚者である。
歴史に学ぶものは賢者である。
全知に学んだ彼女は、きっと──
§§
その日、魔族に絶対的な指導者が生まれた。
雪原を、狂気の赤に染めあげる、凄烈なる
白兎王の後継者。
彼女の名は、フィロ・ソフィア・フォン・ナイド=ネイド。
後に歴史へと名を刻む邪悪は、この瞬間、世界へと生まれ落ちたのだった──
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