プロローグ

 乗り合い馬車がゴトゴトと、心地よく小屋を揺らしている。みぞを踏み、小石を弾く車輪。僕は小屋の窓から顔を出し、海を眺めていた。吹き込む潮風に目を細め、前髪を指先で整える。風が落ち着いたら目を開き、また海を眺める。その繰り返し。

 パパパッと短く、甲高い音が耳を貫き、僕はとっさに窓から首を引っ込めた。目の前を鉄の塊が通り過ぎる。ツンと鼻を刺す排気ガスと、叫び声を置き土産にして……ゴホゴホ。

 ここは馬車道なのに……顔の前で手を振りながら、僕はむっとする。大通りが混んでいるせいだろう。何せ、十年に一度の博覧会だ。港町エクスト・シティには、世界中から観光客が押し寄せているらしい。僕らもシティ行きのバスに乗るはずだったけれど、土壇場どたんばでリューネがしぶった。人混みが嫌いだという気持ちは、分からなくもない。待合室や停留所は人だらけで、老若男女、様々な種族が入り乱れる「人間の博覧会」だったから……。

「でも、せっかくチケットをもらったのに……」

「馬車から見る景色は、それはそれは絶景じゃぞ?」

 ……そう言われると、つい気になってしまうのが僕の性分しょうぶんだ。実際、景色は最高だったし、潮風だって気持ちがいい。リューネのままもたまには……そう思いつつ、僕は振り返った。

 薄暗い小屋の中は、十人程なら楽に乗れる広さ。四隅にベンチが並び、小屋の中央は空いている。そこにマントを広げて寝ているのは……リューネだった。他の客がいないのをいいことに、出発してから数時間、ずっとこのままだ。バスだったらこうはいかないわけで、これが馬車を選んだ本当の理由だろう……やれやれ。

 白い髪に、白い肌。リューネの無邪気な寝顔を見ていると、とても千歳を越える老竜だとは思えない。僕は今年で十五歳だけれど、伸びない身長のおかげで年齢より若く見られることがほとんどだ。リューネはそんな僕よりも幼く見えるし、背だって低い。だから、旅先では僕の妹だと思われることもある。妙な口調も、背伸びしたい年頃なのだと微笑ほほえましく思われているようだ。僕の妹だなんて、リューネもさぞご不満だろう……と思いきや、僕を「お兄様」と呼んでからかう始末。女心……もとい、竜心は分からないと首を振る僕に、姉さんはこう言ったものだ。「女はいつだって、若くありたいものなのよ」……と。

 リューネは「うーん」と小声で唸り、寝返りを打った。……日差しが眩しいのだろう。僕は窓のカーテンを閉ざした。小屋の中が一段と暗くなる。僕はよしと頷くと、ベンチに座り直した。


 ――あの日。リューネの封印を解いてしまった時のことは、忘れられない。遙か昔から、僕の生まれ故郷で語り継がれている伝説。絶対に封印を解いてはならない、白竜の物語。でも、僕は冒険に飢えていた。図書館にある小説は、とっくに読み尽くしていたのだから……。

 そして、僕は向かった。行き先は洞窟でもなければ、神殿でもない。町外れにある、幾重にもつたが絡まった、古い屋敷だ。錆びた錠前を手頃な石で叩き壊し、中に踏み込む。天窓の光が、舞い上がる埃をちらちらと照らした。

 中央の階段を上がり、あてもなく通路を進む。やがて、僕は扉の前に行きついた。ドアノブに手を伸ばす……がちゃり。鍵はかかっていなかった。

 部屋の大部分を占めるベッド。その上で横たわるドレス姿の少女に、僕は息を呑んだ。その全身は埃におおわれ、胸元も上下することなく息吹を感じられない。精巧な人形なのだろうか……僕はそっと手を伸ばし、少女の顔の埃を払った。舞い上がった埃で鼻がむず痒くなり、くしゃみを一つ。

「誰じゃ、お前は?」

 僕は鼻筋を擦りながら、声の主に顔を向けた。深紅の宝石……少女の双眸そうぼうが僕を見つめている。僕はぼうっと見惚れてしまい……それが、リューネとの出会いだった。


 後で分かったことだけれど、リューネの封印はいつ解けてもおかしくない状態だったらしい。だから、僕のくしゃみはあくまでそのきっかけだった……はずなのに、僕はその責任を取るという名目で、リューネの望みを叶えなければならなくなった。リューネの望み。それは、再び封印されること。

 不老長寿に金銀財宝、どんな望みも叶える力……どこで話を聞きつけたのか、空賊から帝国の特務部隊まで、リューネの力を狙う者は後を絶たなかった。リューネいわく、実際はそんな財宝も力もないとのことだけど、誰も聞く耳を持たなかった。

「長年語り継がれた嘘や噂は、真実と変わらんからの」

 ……と、まるで他人事のリューネも、度重なる狼藉ろうぜきには怒り心頭。竜の力を解放し、無礼者達を文字通りふっ飛ばした……僕の故郷も一緒に。

 だから、僕達は旅を続けている。リューネを封印する、その方法を探すために。

 

「……わしの顔に、何かついておるのか?」

 とろんとした目つき。僕は慌てて眼をらした。熱くなった頬を両手で擦る。

「ふぁぁ……そろそろ到着かのぉ、ソーマ?」

「まだ半分も行ってないよ。バスじゃないんだから」

 僕が呆れながら顔を向けると、リューネの目は再び閉じていた。

「寝てばかりいないで、少しは景色を見たらどう?」

「うーん、海なんぞ、見飽きたからのぉ」

 ……これだからなぁ。僕が溜息をつくと、リューネはもぞもぞと動き出した。僕の足下まで這い寄り、そのまま「よいしょ」とベンチをよじ登って両膝を乗せ、窓から顔を出す。

「おー絶景じゃのぉ! それに潮の香りがまた……ほら、ソーマ!」

 手招きするリューネ。何だかなぁ……小屋の窓は二人で顔を出すには狭かったけれど、襟首を掴まれてはかなわない。頬と頬とが触れ合いそうな距離で、景色を眺める。横目で見ると、リューネは空を見上げていた。

「飛空艇じゃな」

 雲間に見える、天駆ける船……空からの眺めはまた格別だろう。僕自身、空を飛んだことは二度ほどあるけれど、一度目は空賊団の飛空艇で、ずっと船倉に押し込められていたし、二度目は竜化したリューネの背中の上で、振り落とされないよう髪の毛(だと思う)に掴まっているのが精一杯で、いずれも景色を楽しむどころではなかった。だから、いつかきっと……。

 飛空艇は一隻だけではなく、いくつもの船影が青空に散らばっていたが、その中の一隻……高度を下げて飛んでいる飛空艇に、僕は目を留めた。ふらふらと落ち着かない動き。事故でも起きたのだろうか、船尾から黒い煙……って違う、あれはだ。

「あれ、黒猫号じゃない?」

「よくもまぁ、あれだけボロボロだったのにのぉ」

 なかば感心したように呟くリューネこそ、黒猫号を壊した張本人だ。

「今度は博覧会の出し物を狙っているのかな?」

「じゃろうな。やれやれ、また厄介事が起こらねばよいが……」

 リューネは騒動を好まない。安眠の妨げになるからだ。先日の黒猫空賊団との一件でも、リューネは幾度となく眠りを妨げられ、その怒りは黒猫号へと向けられた。リューネ曰く、軽く撫でただけ……それでも撃墜され、スクラップ同然となった黒猫号を前にして、黄昏たそがれていたクロ達。あれからどうなったのかと思っていたけれど……何とか直すことができたようで、良かった。

「……お主、随分ずいぶんと嬉しそうじゃなぁ」

「えっ、そうかな?」

 リューネの呆れたような声に、僕はとぼけてみせる。でも、僕の頬が緩んでいるのは、鏡を見なくたって分かる。黒猫空賊団が現れたからには、面白いことが起きるに違いない。リューネには悪いけれど、僕の心は期待にふくらんdねええええええええええええええええええええええ


 

「うひゃぁ!」

 急な冷たさに、私は思わず声を上げた。首筋を押さえて振り返ると、冬馬とうまが私を見下ろしている。……手にした缶ジュースが犯人だろう。

「もう、いきなり何すんのよ!」

「ほら、差し入れ」

 気勢をそがれた私は、大人しく缶ジュースを受け取った。ひんやりと冷たく、たっぷりと汗をかいている。描かれたオレンジがイラストなのは、果汁が少ない証拠……まぁ、いいけど。

「ありがと」

「しっかしお前なぁ、こんな暑いのによく外で書く気になるなぁ」

 冬馬は旧校舎の屋上をぐるりと見渡した。夏の日差しに、コンクリートがじりじりと焼かれている。

「この時間なら日陰もあるし、背もたれもあるし、風が吹くと気持ちいいし……」

 私は背中の壁を撫でた。荒く塗られたペンキが、ざらざらとしている。旧校舎から屋上へと続く階段を、すっぽりと覆い隠す白い箱……そこが、私の特等席だった。

「それに、空も見えるしね」

 私は顔を上げた。雲一つ見当たらない、晴天。太陽は少し傾いているけれど、その色はまだ青い。私は空が好きだ。私は空の子……空子くうこだから。

「小林さんが探してたぞ」

智子ともこが? ……あっ! サッカー部の練習試合って、今日だっけ?」

「知るか。どうせまた、安請け合いしたんだろ?」

「参ったなぁ、今からじゃ間に合わないだろうし……うぅ、何て謝ろうかな……」

「気にすることないさ」

「何よ、他人事だと思って」

「どうせ忘れてるよって言ったら、小林さん、空子だもんねって笑っていたぞ?」

「……なんか引っ掛かる言い方だなぁ。でも、怒ってないなら、まぁいいか」

「その切り替えの早さには、感服するよ」

「もしかして、馬鹿にしてる?」

「人の言葉は素直に受け取るべきだぞ。……で、友人の頼みをすっぽかしての執筆は順調かね?」

 私は言い返したい気持ちをぐっとこらえ、冬馬にノートパソコンを差し出した。「どれどれ」と読み始めるその横顔を、私は固唾かたずを飲んで見守る。

 ……何度経験しても、このドキドキ感は変わらない。自分の小説を読んで貰うのは、裸を見られるより恥ずかしいことじゃないかな……なんて、見られたことがないので比ぶべくもない。まぁ、小さい頃は冬馬とお風呂に入ったこともあったけど……って、何を考えてるんだ、私は。

「どう?」

「んー……」

 冬馬はしきりに頷きながら、パソコンをひっくり返した。めつすがめつ、眺める。

「……また傷が増えてるな。もうちょっと、優しく扱ってやれよ」

「私が使うとすぐボロボロになるからって、頑丈に作ってくれたんじゃないの?」

「それにしたってなぁ……」

「それより冬馬、どうだった?」

「ん? いいんじゃないか。俺、このシリーズ、割と好きだし」

「本当っ!? 良かったぁ、正直、マンネリ気味かなぁとも思ってたから……」

「今度は港町が舞台か。それに博覧会とは、また大変そうなのを選んだなぁ」

「うん。ちょっと不安だけど、チャレンジしないと成長しないって言うし。だから、今回はいつものドタバタを抑えて、少しシリアス路線でいこうかなって。何て言うか、その、ソーマとリュ―ネの葛藤かっとうというか、悩みというか、そういうドロドロした、ええっと、何だ……」

「でもさ、最後はやっぱりハッピーエンドになるんだろ?」

 ――ぐさり。その何気ない一言が、私の心をえぐった。ハッピーエンド……まぁ、そうなんだけどさ、まだ何も始まっていないっていうのに、なんでそんなことを言うのかなぁ、もう……ぶつぶつ。

「で、締め切りはいつなんだ?」

「……今学期中」

「それ、間に合うのか? 来週からもう夏休みだぞ?」

「正直厳しいけど……出さないと退部だからなぁ」

「退部でもいいじゃないか。お前のこと、いろんな部が欲しがってるし。サッカー部だろ、バスケ部だろ、陸上部に剣道部……」と、指折り数え上げる冬馬。

「私は文芸部がいいの!」

「黒姫様がいるからか?」

「……悪いか!」

 私はそっぽを向く。どうも、冬馬は黒埼先輩のことが嫌いらしい。まぁ、誤解されやすい方ではあるんだけれど……。


 黒埼くろさき怜奈れいな晴嵐せいらん高校三年生。私の憧れの人で、現役の高校生ながらプロの作家だ。ペンネームは『黒姫くろひめ』。『姫』や『黒姫様』と呼ばれることもある、その名にたがわぬ美人さんだ。

 私が黒姫様を知ったのは二年前。読書家のお母さんが、彼女のデビュー作「うつわ」を買ってきたのだ。母さんは読み終えるやいなや、泣きながら私にこの本を勧めてきた。普段は本なんて読まない私だけれど、休日にたまたま、ほんの気まぐれ手に取ったところ、すっかりハマってしまったのである。

 人間として育てられたロボットの少女・みさおが、自分と人間の違いに思い悩みながらも、それでも人として生きていこうとする……私の下手な要約では作品の良さがちっとも伝わらなくて歯痒はがゆいけれど、だからこそ、私は小説の世界に魅力を感じてしまったのだ。

 一冊の本の中に、小説という形でしか表現できない「何か」が、確かに存在していた。テレビなりスポーツなり、きっとその「何か」を得る手段は他にもあって、結局は全部同じだろうと思っていた私にとって、この読書体験は衝撃だった。どんなテレビ番組を見ても、いくらボールを蹴っても、小説を読むことで感じた「何か」は、決して味わえなかったと思う。だから。

 私にもこんな物語が書けたらなぁ……ふと、そんなことを思ってしまったのだ。普段は運動ばかりで、漫画だってたまにしか読まない私が、何を血迷ったのか。……きっと、私より一年だけ早く生まれた女の子がこれだけの作品を書くことができたなら、私にだって書けるんじゃないかという、我ながら呆れるぐらいの気楽さが招いたことだったと思うし、それだけなら、気紛きまぐれや思いつきで終わっていたかもしれない。ただ、調べてみると……黒姫様は、近所の高校に通っているではないか! ……この時ほど、「運命」という言葉を強く意識したことはなかった。

 冬馬を巻き込んでの猛勉強の末、私は晴嵐高校に合格した。その年、文芸部は入部希望者が殺到していた。黒姫様こと黒埼先輩が、部長を務めることになったからだ。再三断られた挙句、「私の自由にさせてもらえるなら」という条件付きで、やっと引き受けてもらえたんだとか。

 黒埼先輩は、入部希望者に課題を与えた。作品の提出。締切は一ヶ月。それができなければ、入部を許可しないという。小説どころかお話だって書いたことのない私は、何とか読書感想文みたいなものを書き上げ、提出した。あの人気作家、黒姫様が作品を評価するとあって、多くの人が課題をクリアしていた。

 ――そして、一週間後。黒埼先輩は課題を提出した入部望者全員と、個人面談を実施した。みんなドキドキしていたんだろうなぁと、私は今更ながらに思う。「文章を書く」ということを全く理解していなかった私にとって、黒埼先輩は純粋に憧れの存在で、アイドルに会えるという高揚感はあったけれど、それは他のみんなの想いとは違っていた。プロの作家に自分の作品を見て貰える機会なんて、そうあるものではない。だからこそ、個人面談の効果は絶大だった。

 「面白くない」「才能がない」「止めた方がいい」……黒埼先輩の批評は短く、辛辣で、容赦がなかった。それでいて、作品に目を通さないと分からない細かい点にまで指摘は及び、逃げ場はどこにもなかった。泣きだしてしまう子も一人や二人ではなく、中には激昂して黒埼先輩に掴みかかった生徒もいたらしい。そして私の作品は……特に酷かったと思う。

 面談の時、間近で見る黒埼先輩は、ぼうっと見惚れてしまうほど綺麗きれいだった。つややかで長く伸びた黒髪は、私のぼさぼさなショートカットとは大違い。雪の様な白い肌も、北欧系の血が入っているのかしらんと思ってしまうほどで……こりゃ、マスコミも大騒ぎするわけである。

 私は黒埼先輩に会えたことで満足してしまい、自分の作品の評価なんて正直どうでもよくなってしまっていた。結果として、それが良かったのかもしれない。

「……初めて書いたの?」

 黒埼先輩は私にそう訊ねた。とても小さく、でもよく通る声で。

「はいっ!」

「これは小説じゃない」

 ――誤字脱字に人称の不一致、紋切り型の登場人物、起伏のない物語、言葉の使い方もめちゃくちゃで、何を言っているかが分からない……等々などなど。最初はふんふんと何となく頷いていた私にも、全然駄目だということはよく分かった。そして締めの一言は、「才能がない」だった。

 ……それでも、私は文芸部に入ることができた。面談の内容は入部の可否とは関係ないとのことだったので、これ幸いと私は入部届けを出したのである。その時点で、部員数はかなり減っていた。

 それからも、黒埼先輩は事あるごとに作品の提出を求めた。例え病気中だろうと、試験中だろうと、締切を破ったら最後、退部になるという厳しいルール。部員は一人減り、二人減り、今では黒埼先輩と私だけになってしまった。学校には生徒やその親御さんから何度も苦情が入っていたみたいだけれど、一度任せると言ってしまった手前、先生方が黒埼先輩に口出しすることはできなかった。

「……よく続いているね」

 ある日。あれは試験中だったかな、徹夜で仕上げた作品を提出しに行った時、私は黒埼先輩からそんなことを言われた。私が知る限り、黒埼先輩が褒めてくれたのはその一回きりだ。冬馬は「それ、褒められてないぞ」と言っていたけれど、どう思うかは私の勝手だ。

 改めて考えてみると、何事にも飽きっぽい性格の私が、よくも続けているものである。スポーツでも何でも、たまにやるのがいいのであって、毎日だとちょっとね。

 でも、小説は違った。それはきっと、物語を書く楽しさ知ってしまったから。そして、書き上げた作品を読んで貰うドキドキを知ってしまったから。もちろん、執筆中はもう嫌だと投げ出したくなる時もあるし、黒埼先輩のダメ出しはどんどん厳しくなっていくのだけれど……。


「冬馬はさぁ、どう思う?」

「何だよ、突然」

「私って、小説の才能ないのかなぁ?」

「そんなの、俺に分かるか。……まぁ、あるとも言えるし、ないとも言えるかな」

「曖昧だなぁ」

「少なくとも根性はあると思うし、それって、作家に必要なものじゃないか?」

 ……確かに、一理ある。うんうんと頷く私を屋上に残し、冬馬は帰っていった。コンピューターの師匠である伯父さんのラボに行くのだという。

 冬馬こそ、よく続いているなぁと思う。小さい頃は何をするのも一緒で、考えていることも似たりよったり、お互いに知らないことなんてないと思っていたのに。

 それが今では、私は小説、冬馬はコンピューターと興味の対象が変わったし、お互いに知らないことも増えてきた。例えば、好きな人のこととか。

 変化。それは当たり前のことなんだろうけど、ふとそれを意識して寂しくなることもある。しかも、それは意識しなければ気付かなかったのだから、知らぬ間に通り過ぎて行ったものがたくさんあるに違いない。そしてきっと、それは二度と取り戻せないものなのだ。それなら、もっと変化に目を凝らすべきだろう。決して、見逃してしまわないように。

 ……なーんて思っていても、ダメなんだろうなぁ。ずっとこのまま、平穏な日々が続いてくれればなんて、そう思ってしまう。そんな私は、きっと幸せなんだろう。

 ……っと、いかんいかん。私はぺしぺしと頬を叩いて気合いを入れると、すっかりぬるくなってしまったオレンジジュースを、一気に飲み干した。缶を置き、いそいそと座り直してから、膝の上にノートパソコンを乗せる。ずっしりとした重み。もう少し、頑張ってみますか!

 

 

「だいじょーぶっ! くーちゃん、才能あるよぉ!」

 私は画面に向かって叫ぶと、手にした缶ビールをぐいっと傾けた。画面の中でひたむきにキーボードを打つ少女がいとしくてたまらない。今すぐ抱き寄せて、頭をぐりぐりしてあげたい衝動にかられ、「出ておいで~!」と何度も画面を叩いてしまったぐらいだ。アルコール補正、恐るべし……そう思いながらも、新たな缶に手を伸ばす。

 仕事の後、家に帰ってからのビールとネスト鑑賞は、私の清涼剤だ。嫌なことがあっても、すぐに忘れることが――。

「できるかぁ!」

 私は缶ビールを握り潰した。溢れだす泡。慌てて口をつけ、濡れる手もそのままに、ごくごくと一気飲み。ぷふぁ~……私は胡坐あぐらを崩して、テーブルのティッシュに手を伸ばした。


「……宮内みやうち、何度言ったら分かるんや?」

 美樹本みきもと主任の呆れ顔に、私は言い返した。

「主任こそ、そのエセ関西弁はいつまで続けるんですか?」

「アホ。これはリスペクトや。俺の関西愛、分からんのか?」

 ……分かってたまるか、馬鹿。

「ったく、ことあるごとにビシビシ叩きおってからに」

「お言葉ですが、主任。私は何も間違ったことをしておりません」

「人様の頬を張り飛ばすのが、間違ったことじゃないと?」

「相手は痴漢という品性下劣な犯行を起こした極悪非道人ですよ?」

「だからってなぁ……第一、お前が胸なり尻なり触られたわけやないんやろ?」

「か弱い女子高生がですよ、自分の父親ぐらいの年代の成人男性に対して、そう簡単に仕返しできると思っているんですか?」

「だから、被害者の代わりに平手打ちを食らわしてやったと?」

「私は警察官ですから」

「お前なぁ、警察官なら逮捕優先、余計なことはするな。犯人から苦情が来とる。痴漢行為は認めるが、叩かれたのは納得いかんとさ。傷害罪だの、訴訟だの、吠えとるらしいで?」

「犯人の確保に必要な行為でした」

「……ということにするしかないやろ。全く、面倒事ばっか起こしやがって」

「私は職務をまっとうしただけです」

「職務、ねぇ。宮内、お前はどこの刑事や?」

「どこのって、警視庁生活安全局……」

「の?」

「情報技術犯罪対策課……」

「の?」

「仮想現実世界犯罪捜査係……って、だから何です? まさか、リアルな事件には手を出すなって言うんですか?」

「その通り。分かっとるやないか。俺達はネスト絡みの事件を扱っとればいいんや」

「ネストにはネストの刑事がいますけど?」

「せやな」

「せやなって……じゃあ、私達は何のためにいるんですか?」

「ネストの刑事じゃどーにもならん事件を解決するために決まっとるやろ?」

「何ですか、そのどーにもならん事件って」

「そんなん、俺が知るか」

「主任っ!」

「おー怖。何や、俺も殴るんか? そしたらお前、今度こそクビやぞ?」

「……そんなの、分かってます」

「なぁ、宮内。お前が今も警察官でいられるのは誰のおかげや? 柏崎かしわざきさんやろ? それがお前、クビにでもなってみろ、その柏崎さんの顔に泥を塗ることになるんやぞ? せやから、大人しくしてろって。それができないなら辞めろ。自分で辞める分には、柏崎さんも分かってくれるやろうからな。お前、黙ってれば美人なんやから、どこぞで男でも捕まえてやなぁ……」

「余計なお世話です!」

 主任はずるい。何かと柏崎さんを話に出すんだから。本当に、ほんとうに……。


「ほんっとにもーっ!」

 私は両手を広げて、布団の上にごろんと寝転んだ。右手を顔の前に上げ、眺める。平手打ちはね、女だけに許された神聖な武器なのよ……私の母さんは、そんなことを言っていた。でもさ、それで死んじゃったら……どうしようもないじゃないの。

 私は体を起こすと、再び画面に向かった。空子ちゃんはキーボードを打つ手を休めて、空を見上げていた。その姿をじっと見ていると、心が落ち着いていくのが分かる。我ながら、ここまでネストにはまってしまうと思わなかった。


 仮想現実世界犯罪捜査係……通称「仮捜かそう」に配属され、私はネストを始めることになった。話はよく聞いていたけれど、同僚の室井むろい君からネストについて教わった時は、世の中も進んだものだと思ったものだ。

 バーチャル・ワールド「ネスト」。そこは現実そっくりな世界で、その出来は実写と見分けがつかないほど。精巧なCG技術で表現されたキャラクター達には、細かくパラメーターが設定されており、その一人一人が独自の思考に基づいて行動している……らしい。

「どうやって動かすの?」と私が質問すると、室井君は首を横に振った。

「宮内さん、ネストはこちらからは何もできないんです。ただ、眺めるだけです」

 ネストの一般的な楽しみ方は、特定のネスト住人をクローズアップし、その生活を観察することだという。介入することはできなくても、それ以外なら何でもできるというのだ。たとえば録画……そう聞いて、私はすぐに嫌な使い道を思いついてしまった。職業病とは恐ろしい。

「確かにそういった使い方もできますし、使っている人もいます。でも、それは好ましいことではないというのが、運営会社とユーザー、双方の見解です」と、室井君も渋い顔。

 とはいえ、現実と遜色のないバーチャル・ワールドを、自由に観察できるのがネストの売りである。複雑なシステムも相まって、そこだけ自主規制……というわけにもいかないようだ。だから、ネストには大人しかアクセスできない。子供には刺激が強過ぎる……と、なるほど、簡単に「男女の営み」に遭遇してしまうようでは、良い子にはお勧めできないわけである。納得。

 室井君から色々な説明を受けても、私にはネストの楽しみ方がよく分からなかった。それでも物は試しと、勧められるまま住人を選ぶことになった。

 一人のユーザーが選べるのは一人の住人のみ……すでにユーザーがいる住人は、選ぶことができない。だから、有名人――ネスト上の――ユーザー権は、高額で取引されているらしい。アイドルの私生活を見放題……それは売れるだろうなぁと思っていると、権利ではなく映像を売って巨万の富を築いたユーザーもいるとか。……やれやれ、バーチャルな世界も世知辛いわねぇ。

 年齢、性別、出身地、血液型、誕生日、趣味、容姿。住民は様々なキーワードから、自由に検索することができる。私は適当に入力して検索、五十音順にずらっと並んだ名前をスクロールしている途中、ふと目に入ったのが「天野空子」だった。

 ――面白い名前。画面に指先で触れると、経歴が一覧で表示される。ネスト住人の人生は自動的にまとめられているのだ。家族構成はもちろん、生まれてから今までの出来事が年表としてまとめられている様は、まるでウィキペディアである。

 空子ちゃんはご両親に弟が一人の四人家族。年表には家族旅行など楽しい思い出がたくさん残っているので、幸せな家庭なのだろう。画像や動画にも笑顔がいっぱいだ。私もニコニコしながら画面を眺めていると、気になる情報が見つかった。空子ちゃんは、小説を書いているというのだ。

 私はをへぇと驚いた。そういうのって、人間の特権じゃなかったっけ? ……そんなことを考えながら、私は空子ちゃんの作品が読めないものかと室井君に聞いてみた。すると室井君は、「それなら簡単ですよ」とその方法を教えてくれた。ネストの情報は、基本的に取り出し自由らしい。

 そして私は空子ちゃんの小説と出会い、ファンになった。さらには、その日常を観察……もとい、有体ありていに言えば覗き見するのが私の日課となった。

 ちなみに、今見ているのは録画された映像だ。今はもう深夜である。空子ちゃんはもう寝ているのだろうか。それとも、執筆を続けているのだろうか。私が覗いているのは学校生活のみ。また、ある程度のプライバシーを守るためにフィルターをかけている。それが、覗き屋としては最低限のマナーだろう。本人は自分の生活が誰かに覗かれているなんて、夢にも思っていないはずだから。

 ――それでも、時にはその制約を破ってしまいたくなることもある。そんな時は、ストーカー気質があるのかしらん……と自分を疑ってしまうけれど、別に着替えとかお風呂シーンに興味があるわけじゃない。気になるのは、冬馬君との行く末である。

 この空子ちゃん、可愛い顔して恋愛沙汰にはうといのだ。身近に幼馴染の好青年――まぁ、ちょっとオタク系だけど――がいて、明らかに空子ちゃんを好きだというのに、全く気付いてないのだから恐れ入る。だからそっと背中を押してあげたくなる時もあるし、二人の仲が上手くいったらいったで、デートを覗いてしまいたいという欲求を、抑えることができるかどうか……。


 ――ガタガタとテーブルの上でスマホが震えだし、私は手を伸ばした。あら珍しい、室井君からだ。

「もしもし?」

「あっ、夜分遅くすいません! 室井です!」

「どうしたの? 何か事件でもあった?」

 室井君が随分と慌てた様子なので、私はからかうようにそう言った。今の職場で、緊急の事件なんて起こるはずがない。定時出社に定時帰宅……でも、返ってきた室井君の言葉は、意外なものだった。

「そう、そうなんです! ニュースを見てください!」

「ニュースって、ちょっと待って、今テレビを――」

「ネストのです!」

「ネストの?」

 私は画面に指を伸ばし、情報ウィンドウを引きだす。その間にも、室井君は慌ただしく言葉を続けた。

「殺人事件があったって、その地域が……」

 私は手を止めた。確かに殺人事件が起こっていた。それも、空子ちゃんの地元で。

「被害者は女子高生だって、まだその、詳しいことは分からないんですが……」

 私にはもう、室井君の声が聞こえていなかった。鼓動が激しく脈打っている。まさかという気持ちと、もしかしたらという気持ちがせめぎ合い、胸が苦しくなる。

 とにかく電話を……と思いついた自分に舌打ちする。バカ、画面の中の人間にどうやって電話するのよ! ……アルコールも手伝って、頭がぐるぐるしてくる。私は額の汗を手の平で拭うと、深い溜息をついた。

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