10


「結衣さんは、送り犬というアヤカシを知っていますか?」


「送り犬……?」


「夜中、山道を歩いていると後ろをついてくる犬。これを送り犬、または山犬、送り狼と呼びます」


「送り狼ってよく男の人が女の人を送るときに言う送り狼にはなるなよ〜っていうあの?」


「えぇ、その送り狼です。彼はいわゆるストーカーのプロですので、ストーカーのストーカーをするのもお手の物ですよ」


 土御門は、結衣の手のひらにアヤカシ缶をのせると「どうぞお開けください」そう言って少しばかり結衣から距離をとる。


「え、私が開けていいんですか?」


「はい。あなたが開けなければ意味がありませんから、どうぞ」


 結衣は、ジッと缶を見つめたあとおそるおそる、缶詰めのプルタブに指をかけた。プシュッと空気の抜ける音が聞こえ、ゆっくりとフタが開いていく。


 けれど、成美の瞳にはなにも写していなかった。


「……可愛い!」


 キラキラと結衣の瞳が輝く。どうやら彼女にはソコに何かが視えているらしいが、目を凝らしても成美には何も視えない。


「ねぇ、成美。可愛くない?」


 結衣はいるはずのアヤカシの顔が見えるように缶詰めを回してみせるが、成美にはわからず困ったように笑う。


「成美?」


「…………視えていらっしゃらないのですね?」


 蒼の言葉に成美はゆっくりと首を縦にふる。結衣は驚いたようにこちらを見た。


「私が小雪さんが見れないのと一緒?」


「佐々木さん、そうですけれど、違いますよ」


「どういう意味ですか?」


「たしかに、このアヤカシ缶は開けた本人または元々アヤカシが視える人にしか視えないように出来ています。しかし、彼女は本来なら視える人です。私が開けた小雪が視えていましたからね」


 ハッ、と小雪に視線をうつす。彼女は相変わらず蒼のもとにくっついて離れないでいるが、たしかに成美は彼女を視ることも会話もすることも、触ることだってできる。開けたのは土御門のはずなのに……。


「では、なぜ成美はこの子が視えないんですか?」


「それは、わかりません。ただ視ようとすれば視えるはずですよ」


 くるり、と土御門は成美を振り返る。今まで和やかな笑顔だった表情が、真剣な表情へと変わる。


「成美」


「はい?」


「いま、彼女のもつアヤカシ缶の中に送り犬は在る。そこに在ると思え、在ると思わなければ視れないのがあやかしだ」


「……在る」


——リィン、リィン


 まるで警鐘のようにあの鈴の音が頭に響く。目をつむり、その音を振り払うように首を横に振ってから、成美はゆっくりと目を開いた。

 ひょこり、とソレは缶の中から顔を出していた。黒い毛並み、長くふさふさとした尻尾に、丸々とした可愛いらしい瞳を輝かせながらこちらを見ている、手のひらサイズの小さな黒い犬がそこにいた。


「——視えた」


「ほんとに!?」


 結衣は、ずいっと黒い犬を成美に近づける。成美は、こくりと頷きながら黒い犬——送り犬の頭を撫でる。


「うん、可愛い」


 どこかのマスコットキャラにいそうなほど、ゆるっとして可愛いその犬は触れた毛も柔らかく、見ても触っても癒されるような容姿だった。


「犬だから喋られたりはしないのかな?」


「どうなんだろう……」


「西條さん、佐々木さん。この子が何のために呼ばれたのかお忘れですか?」


 本来の目的からズレた考えを話し合う彼女らに蒼が困ったように笑いながら話しかける。

 2人は、この犬のアヤカシがストーカーをやめさせることのために呼ばれたことを思い出し、もう一度黒い犬に視線をうつす。

 このたいへん可愛いらしい容姿で、はたしてストーカーが怯むのだろうか。あまりの可愛らしさに思わず触れたくなるとは思うが、怯みはしないだろう。それに……。


「あの、土御門さん。先程、アヤカシ缶を開けた人もしくは視える人でなければアヤカシは視えないとおっしゃいましたよね?」


「えぇ」


 結衣の質問に土御門は、笑みを崩さず答えた。


「この子が視えないのにどうやってストーカーをやめさせるのでしょうか?」


「…………夕暮れ時は黄昏時とも呼ぶのをご存知でしょうか?」


「…………一応、古典で習ったような気がする。ね、結衣」


「う、うん」


「黄昏時は逢魔時とも呼ばれ、古くから昼と夜の境が曖昧になるこの時間は、人と異なるモノとの境も曖昧になる時間と言われていました。さて、そんな曖昧な時間にコレを放したらどうなりましょう?」


「……まさか、視えるようになるとか?」


「半分正解、半分不正解と言ったところです。少しでも才あるものなら視えるようになるかもしれないが、才がなければ気配または聞くことだけは可能になると思います」


——まぁ、論外レベルのものならソレもできないかもしれないが……。



 ボソリと最後に小さく呟かれた言葉をかろうじて聞き取れた成美は、土御門をギロリと睨む。結衣を狙うストーカーが視えなかったらどうしてくれる、そんな成美の内心が伝わったか否か、土御門の瞳が一瞬だけ冷えきったものへと変わり、成美は肩を震わせた。


「それで、土御門さん。この子でどうやってストーカーを?」


 結衣が問いかけた瞬間、その瞳は瞼で隠され、ニコリと笑みが作られる。冷めた視線が消え、成美はホッと息をはく。

 いまだ震える肩をさすりながら、土御門という人間は得体が知れないうえにおそろしいのだと成美は感じた。いや、そもそも彼も人間ではないのかもしれない。


「簡単ですよ。ただ、佐々木さんがその子を連れて夕暮れ時の中を帰ればいいのです。もちろん、ひとりで」


「えっ!?」


「危ないっていうのに、ひとりで帰れっていうの!?」


「大丈夫です。連れて行くだけであとはストーカーのプロがなんとかしてくださいます。それに中途半端が1番怖いものです」


「それでも……!」


「さぁ、話は終わりです。蒼、帰ってもらえ」


「……はい」


 自動ドアが開き、蒼の手によって2人はあの真っ白な空間へと押されていく。成美の肩にはいつのまにか小雪が満足げな顔で乗っていて、土御門に文句を言いながら後ろを振り返れば申し訳なさそうな顔で蒼がいる。


「あぁ、そうだ。佐々木さんに、1つ2つアドバイスを————…………」


 土御門は、結衣の耳元でなにかを囁くと結衣は驚いたように土御門を振り返り、口を何回も開閉させていた。


「またのご来店お待ちしております」


 蒼の涼やかな声が耳に響き、次の瞬間には成美の地元にある唯一のコンビニの前に2人は立っていた。


「…………とりあえず、今日は兄貴にまた送ってもらう?」


「…………お願いします」


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