第11話 ひとりぼっち
「え?」
「だから……好きな人いるかどうかは、自分で聞いて欲しいの」
にぎやかな昼休みの教室。優衣の前で、千夏が驚いた顔をしている。まわりの女の子たちの視線が、自分に突き刺さっているのがわかる。
だけど優衣は決めていた。もう自分の気持ちに嘘はつきたくない。
「でもあんた、聞いてくれるって言ったじゃん?」
「ごめん……やっぱり聞けない」
「どうして!」
千夏の声が少しうわずる。
「だってそういうことは、自分で聞いたほうがいいと思うから……」
優衣はそう言ってちらりと美咲のことを見た。美咲は顔を赤くして、優衣からすっと目をそらす。
――あたし、意地悪かな……こんなこと言って。
かすかに痛んだ優衣の胸に、千夏の冷たい声が響いた。
「わかった。もういいよ。七瀬さんには頼まないから」
そして「行こっ」と、軽く美咲の手を引き、教室を出て行った。
優衣は小さくため息をついて、自分の席に向かう。そのとき、じっと優衣のことを見つめている恵美と目があった。
「恵美ちゃ……」
声をかけようとした優衣をさけるように、恵美が席を立つ。
「ちょっとぉ、千夏ー」
恵美はそう言って、千夏のあとを追っていく。そんな恵美の背中を、優衣はぼんやりと見送った。
音楽室の窓から夕日が差し込んでくる。部員たちが吹いているバラバラの楽器の音が、なぜか心地よく耳に響く。窓の下の校庭を見下ろすと、運動部員の走り回る小さな姿。優衣は放課後のこの時間が一番落ち着いた。
『好きなやつ、いるよ』
窓の外を見つめながら、銀色に光るフルートに唇をつけたら、なぜだか裕也の声が浮かんできた。
――好きなやつって……誰なんだろう。
そう言えば昨日から、ずっと裕也のことを考えている自分に気づく。
「七瀬さん」
突然、優衣の背中に先輩の声がかかった。優衣はあわてて後ろを振り向く。
「今日、青木さんは休み?」
先輩はちょっと不機嫌そうな顔をしている。
「あ、いえ、学校には来てましたけど……」
「また遅刻ー?」
「あたしすぐ呼んできます」
優衣は楽器を置くと、教室に向かって走った。
校庭から、野球部の掛け声が聞こえてくる。廊下を走る優衣の背中を押すように、楽器の音が流れてくる。
――たぶんまだ教室にいるはず。
優衣は教室のドアを開けようとして手を止める。
「七瀬ってウザくない?」
耳に響いたその声に、心臓がドクンと音を立てる。
「あの子、三浦と付き合ってんの?」
「さあ? でもふたりきりで会ったりしてるらしいじゃん?」
「ああ、一緒に歩いてるとこ、井上が見たって」
「美咲の気持ち知ってて、よくそういうことできるよね?」
ドアにかかった手が、じんわりと熱くなる。それとは反対に、背筋がすうっと寒くなる。そんな優衣の耳に、信じがたい声が聞こえてきた。
「恵美ー、あんたなんでいつも、七瀬と一緒にいるわけ?」
「だってあの子、頭いいじゃん? テスト前にノート貸してくれるしぃ」
「げー、それだけでぇ?」
「バカじゃね?」
「バカじゃないって! つか、そこ大事だっての!」
女の子たちの笑い声の中に、聞き慣れた恵美の笑い声が混じる。優衣はぎゅっと目を閉じたあと、思い切ってドアを開いた。
「恵美ちゃん! 先輩が呼んでたよ!」
彼女たちの視線が優衣に集まる。恵美が驚いた顔をして優衣を見ている。
「早く来てね」
できそこないの笑顔を作り、それだけ言ってドアを閉めた。そして音楽室への廊下をまた戻る。
足ががくがくと震えていた。立ち止まって息を吐く。ぎゅっと目を閉じ、裕也の声を思い出す。
『俺はひとりなんて全然平気』
――あたしだって……ひとりなんて平気。
吹奏楽の楽器の音が、耳に聞こえた。優衣は目を開け、また歩き出す。
涙がこぼれ落ちないよう、必死にこらえながら。
部活が終わって家へ帰る。今日もきっとキッチンには、五百円玉が置いてあるのだろう。
――なんにも食べたくないな……今日は……。
「ただいま……」
いつものように玄関でつぶやく。
「お帰り」
「お父さん?」
優衣の前に父が立っていた。こんな時間にどうして? いつも帰りは遅いくせに。
「お、お母さんは?」
「いないよ」
「いない?」
「出て行った。麻衣を連れてな」
父はそれだけ言うと、深いため息だけ残し、優衣に背中を向ける。
――お母さんが……出て行った。
だけど今の優衣にはなんの感情もわかなかった。父への憎しみも、母に置いていかれた悲しみも……。
キッチンへ入ると、床にガラスの破片がちらばっていた。何があったか知らないけど、なんとなく想像はつく。前に父と口論になったとき、母がグラスを投げつける姿を見たことがあったから。
優衣はその場にしゃがみこみ、破片を集めた。粉々になったグラスは、自分の家族みたいだ。ばらばらに壊れて、もう元に戻ることはない。
気づくと指先から赤い血がにじんでいて、優衣はそれをぼんやりと、他人事のようにながめていた。
数日後、家に荷物を取りに来た母から、父と離婚することになったと告げられた。
「今は麻衣と、山崎のおばさんちにいるの。お母さんの知り合いの。しばらくはそこでお世話になるから、何かあったらここに……」
母は一枚のメモを優衣に渡した。いま母がいる場所の住所が書いてあるメモだ。けれど優衣に「一緒に行こう」とは言ってくれなかった。
「でも優衣は大丈夫よね。しっかりしてるから」
母がそう言って力なく微笑む。
違う。そうじゃない。しっかりなんかしていない。本当はそう言いたかったのに、母のひどく疲れた表情を見たら、何も言えなかった。
家族四人で暮らしていた家から、出て行く母の背中を見送った。
――そうか……あたし捨てられたんだ。
涙なんか出なかった。いつかこの日が来ることを、優衣はずっと感じていたから。
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