第10話 ふたりで歩く帰り道

「おはよー、優衣」

「おはよ、恵美ちゃん」

 朝、昇降口で恵美と出会って、一緒に廊下を歩く。窓からは、朝の日差しが射し込んでいる。

「だるー、今日の体育、長距離だってー」

「え? ほんとに?」

「もうさぼるしかないよねー」

 恵美がふてくされた顔で、面倒くさそうにバッグを振っている。優衣はそんな恵美の隣を歩きながら、ふと窓際に立つ、ふたりの生徒の姿を見た。恵美もそれに気づき、優衣の腕をつんつんと突付く。

「あれ、篠田香織と三浦じゃん?」

 シャンプーのCMのような、さらさらした長い髪をさりげなく耳にかけ、香織が裕也に話しかけている。にこにこと、嬉しそうな顔をして。

 ――なに、あれ……。

 優衣は心の中でつぶやく。

 ――裕也のこと、嫌いって言ったくせに。


 沸き上がった想いを隠しながら、ふたりの脇を通り過ぎる。香織がちらりと自分のことを見たのがわかる。そのとき優衣の耳にあの声が聞こえた。

「なーなせ!」

 優衣が驚いて振り返る。目が合った裕也の手から何かが投げられる。それは朝の光に反射して銀色に輝き、優衣の差し出した手のひらにぽとんと落ちた。

「昨日の菓子代。払ってくれたんだろ?」

 裕也が小さく笑って背中を向ける。

「あ、ちょっと、裕也ぁ」

 甘えた声を出し、香織がその後を追っていく。

 優衣はぼんやりと手のひらを見つめる。そこには一枚の五百円玉が、大事な宝物のように眩しく光っていた。



「七瀬さん」

 千夏に声をかけられたのは、その日の昼休みだった。

「聞いてくれた? この前言ったこと」

 顔を上げた優衣は、席に座ったまま千夏に答える。

「ごめん……まだ……」

 優衣の前で千夏がわざとらしくため息をつく。

「あんた今朝、三浦に何かもらってたよね? そんなことしてる暇があったら、早く聞いてよ!」

 千夏が大きな声をあげたので、何人かの生徒がこちらを振り向いた。

 ――だったら自分で聞けば?

 つい口に出しそうになったその言葉を、優衣は必死に飲み込む。

「ねえ、わかったの?」

「……うん」

「じゃ、お願いね」

 千夏が短めのスカートをひるがえして、こちらをうかがっている女子生徒たちの中へ入っていった。

 ――断ればいいのに。

 優衣は机の上で両手を握る。

 ――そんなの聞きたくないって、断ればいいのに。

 千夏たちのグループが笑い声をあげる。

 断る勇気なんてなかった。断ったらきっと、この教室に居づらくなる。あの子たちのこと、友達だなんて思ってないけど……やっぱり嫌われるのが怖かった。



「ただいま……」

 家の中は今日も薄暗かった。テーブルの上に五百円玉がひとつ置いてある。

「お母さん……」

 呼んでみたけれど、返事はない。

 優衣は五百円玉をポケットに入れると、いつものように自転車に乗った。


 夜の始まりの風を受けながら、優衣は自転車をこぐ。煌々と灯りの灯る、いくつかのコンビニを通り過ぎると、あの日裕也の弟と出会った店が見えた。入るのにほんの少しためらったけど、優衣は思い切って店のドアを開く。「いらっしゃいませぇ」と言う、アルバイト店員のだるそうな声が耳に聞こえた。

 ――なんであたし、またこの店に来たんだろう。

 弁当を選びながらぼんやりと考える。するとそんな優衣の背中を、誰かがぽんと叩いた。

「よく会うな、俺たち。すごくね?」

 優衣がゆっくりと振り返る。私服に着替えた裕也が、優衣の前で笑っている。

 ――ほんとに、会えた。

 優衣は弁当を持つ手に力をこめた。


 自転車を押しながら裕也と歩く。裕也はコンビニで買ったスポーツドリンクを開けて、それを一気に飲んだ。

「それ、夕めし?」

 自転車のかごに乗せてある弁当を見て、裕也がつぶやく。

「うん。裕也も?」

「そう」

 裕也はぶら下げていたコンビニの袋を、目の高さに持ち上げてガサっと揺らす。だけどその中には、おにぎりがひとつ入っているだけなのを、優衣は知っている。

 ――足りるのかな? 男の子なのに。

 優衣の耳に、あの夏の日に聞いた「腹減ったぁ」と言う声が聞こえてきそうだ。でも今の優衣のポケットに、チョコレートは入っていない。


「裕也……」

 優衣が消えそうな声でつぶやく。

「裕也は……好きな人、いるの?」

「なんで?」

 裕也の声に、胸がきゅっと詰まりそうになる。

「だ、だって、あんたモテるくせに彼女とかいないみたいだし」

「好きなやつ、いるよ」

 その言葉に弾かれるように、優衣は裕也の顔を見た。

「香織じゃないけど」

 裕也がいたずらっぽく笑う。

「美咲でもないけど」

「なんで美咲のこと……」

 優衣がつい声をあげる。

「だってあいつらいっつも集団でこそこそしてさ。俺と美咲をくっつけようとしてるのバレバレだし……そういうの、ウザいっての」

 裕也はふっと笑うと、優衣を見た。


「言いたいことあるなら自分で言えよ。なぁ? お前もそう思わね?」

 ――うん、思った。

「いつもつるんで、自分の意思で動けないやつって、バカじゃんって思わね?」

 ――うん、でも……それを言ったらあたし、きっとひとりになる。

「俺はひとりなんて全然平気」

 優衣がはっと顔を上げる。

「いつもずっとひとりだったから」

 思い出すのは小学校の教室。ベランダで振り返った裕也が、優衣に言った言葉。

 あの頃から裕也は、なにも変わってない。

 裕也が優衣を見て小さく笑う。優衣の胸がぎゅっと痛む。


「ほら、お前のうちだろ?」

「あ……」

 気がつくと、優衣の家の前まで来ていた。

「じゃあな」

 裕也が軽く手を振り背中を向ける。今までなんとなく歩いてきたけど……裕也の家はまったく反対方向だ。

 ――もしかしてあいつ……あたしを送ってくれたの?

 裕也はコンビニの袋をぶらぶらと振りながら、今来た道を引き返していった。

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