第2話 雨に濡れて
優衣の家は四人家族だ。会社員の父にパート勤めの母、それから一年生の妹、麻衣。
駅から歩いて二十分くらいの住宅街に建つ、一戸建ての家に住んでいる。
「お母さん、これお手紙」
「はいはい」
キッチンで皿に料理を盛り付けている母に、優衣がプリントを差し出す。母は濡れた手をエプロンで拭きながら、優衣の手からプリントを受け取る。
「お、今夜はハンバーグか?」
風呂上りの父がキッチンへやってきた。途端に麻衣の甲高い声が響く。
「パパ、見て! このハンバーグ麻衣が作ったんだよ!」
「ほんとか? すごいな、麻衣は」
皿に盛りつけられたハンバーグを、麻衣が自慢げに父に見せている。
――うそばっかり。ほとんどお母さんが作ったんじゃない。
父に頭をなでられながら、にこにこと嬉しそうな麻衣。甘え上手な麻衣は、いつもこの家族の主人公に見える。
「あら、授業参観あるのねぇ」
「お母さん、来る?」
優衣は母に振り返って聞いた。
「行くわよ。お仕事お休み取ってこなくちゃ」
「ママー、麻衣のところにも来るー?」
「もちろんよ。麻衣は初めての授業参観だもんねぇ」
「じゃあパパも有給とって行くかなー?」
「え? ほんとに! ほんとにパパも来てくれるの!」
麻衣が喜んではしゃいでいる。父も母もそんな麻衣を見て微笑んでいる。優衣は母の手に揺れるプリントを見つめながら、ぼんやりと裕也のことを思い出した。
『学校なんて行かなくてもいいじゃん』
――やっぱりヘンだ。あいつも、あいつの家も……。
優衣は家族の笑い声を聞きながら、「いただきます」と言って、ハンバーグを口に入れた。
「あ、優衣おはよー!」
「おはよ、亜紀ちゃん」
優衣が教室に入ると、いつものように飯島亜紀が声をかけてきた。亜紀とは一年生のときからずっと同じクラスで、優衣の一番の仲良しだ。
「ねえねえ、昨日の新番組見たー?」
「見たよー! おもしろかったよねー」
優衣がランドセルを置いて、亜紀のいる机に近寄る。そのとき優衣は気がついた。窓際の席で頬杖をつきながら、ぼうっと外を眺めている裕也の姿に。
「どうしたの? 優衣」
「来てる……三浦裕也」
亜紀が優衣の視線の先を追いかける。
「ああ、めずらしいね。あいついっつも学校さぼってるもんね」
――学校、来たんだ……弟の病気治ったのかな?
「それより優衣さー」
亜紀が優衣の腕をひっぱった。裕也はクラスの誰とも話すことなく、ただどんよりと曇った空を見つめている。優衣はそんな裕也からそっと視線をはずし、亜紀に笑顔を向けた。
学校の授業が終わる頃には、雨が降り出した。昇降口から色とりどりの傘の花が開き、ばらばらと散らばっていく。
「じゃあね、優衣」
「ばいばい、亜紀ちゃん」
校門の前で亜紀と別れた。亜紀の家は反対方向だから、一緒に帰ることはできない。だから優衣はいつもひとりで帰る。
同じ方向の女の子たちと一緒に帰ったこともあるけれど、なんとなく居心地が悪かった。よく考えると、自分と気の合う友達って亜紀しかいないのかな? なんて、思ったりもする。
学校の先生は、「友達をたくさん作りましょう」と言うから、きっと友達の少ない自分は駄目な子なのだろう。
ピンク色の傘をゆらゆら揺らしながら、学校から続く歩道を歩く。下級生の男の子たちがふざけあい、優衣の脇を追い抜かしていく。
やがて優衣は、川に架かる橋を渡ろうとして立ち止まった。橋の手前の空き地で退屈そうに水たまりを蹴飛ばしている、見覚えのある横顔を見つけたからだ。
「なにやってるの?」
優衣の声に裕也が顔を上げる。濡れた前髪がぺったりと額に張り付いている。
「傘持ってないの?」
「いらねーよ、傘なんか」
裕也はそう言って小さく笑うと、またうつむいて水たまりを蹴飛ばした。服も靴もランドセルもびしょ濡れなのに気にしていない。
「帰らないの?」
優衣の靴にも雨水が染み込み始めている。じっとりとして気持ちが悪い。
「今日はあの人がいるから」
「あの人?」
裕也がうつむいたまま、口元をふっとゆるませる。優衣はそんな裕也の横顔に、昨日はなかった小さなあざがあることに気がついた。
「それ、どうしたの?」
裕也がゆっくりと顔を上げる。
「怪我……したの?」
優衣が裕也の頬を指さす。
「殴られたんだ」
優衣にとって聞きなれない言葉が、胸にズキンと響く。
「だ、誰に?」
「お母さんに」
その言葉はさっきよりももっと強く胸に響いた。ズキンズキンと……。
「あ、あたしのお母さんはぶったりしないよ?」
「それは本当のお母さんだからだろ?」
裕也がちらっと優衣を見る。
「うちのお母さんは、本当のお母さんじゃないから」
そしてぼんやりと突っ立っている優衣に向かって、思いきり泥水を蹴飛ばした。
「きゃっ、なにすんのよ!」
「さっさと帰れっ」
「あんたは? いつまでここにいるつもり?」
傘を握りしめて後ずさりする優衣に、裕也が答える。
「ずっといる。帰ったらまたあの人に殴られるから」
優衣は何も言わず……いや、何も言えずに、裕也のことを見つめた。裕也はそんな優衣に小さく笑いかけると、もう一度足元の水を優衣に向かって蹴飛ばした。
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