カッコウの飛び立つ日

水瀬さら

第1話 お化け屋敷

 あたしたちの世界は狭い。


 家庭と学校、家族と友人、それがすべて。

 毎日同じメンバーと、同じ生活を繰り返し、そこから出ることを恐れていた。

 多少の息苦しさを抱えていても――。


 いつもと違う道を歩き、ちょっと立ち止まって顔を上げれば、どこまでも続く空が広がっていたというのに。

 あの頃のあたしたちは、大空への羽ばたき方を、まだ知らなかったのだ。


 ***


「あ、七瀬さん」

 昨日母親に買ってもらったばかりの、水色のパーカーをはおった七瀬優衣に、担任の教師が声をかける。

「このお手紙、また三浦くんのおうちに届けてくれる?」

 そう言って、教職二年目の若い女性教師が、学校からのプリントを優衣に見せた。

 優衣は少し顔をしかめて、後ろを振り向く。思ったとおり、黒いランドセルを背負ったクラスの男子たちが、優衣のことをニヤニヤ笑いながら見ている。

「お願いね、七瀬さん」

 一枚のプリントが優衣の手に渡された。じっと手元を見つめる優衣を残し、担任教師は忙しそうに教室を出て行く。

「七瀬ー、お前また、あのお化け屋敷に行くのかよー」

「お化け屋敷ー、お化け屋敷ー」

 優衣は何も言わずにランドセルを背負った。ワインレッドのランドセルの中で、筆箱の音がカタンと鳴る。

 ――べつにあたしだって、行きたくて行くんじゃないもん。

 教室を飛び出した優衣の耳に、男子たちの冷やかし声が聞こえてくる。

 靴を履き替え校舎の外へ出た。六月の少しべたつく風が、肩にかかる髪を揺らす。

 優衣は手のひらで、プリントをぐしゃっと握りしめると、前を向いて思いっきり走り出した。


 学校の前の道路を住宅街へ向かって真っ直ぐ進み、コンビニを通り過ぎて橋を渡る。優衣の家はそのまま直進だったが、三浦裕也の家へ行くには右に曲がって、急な坂道を上らなければならない。

 裕也は小学四年生の二学期に転校してきたそうだ。ちょっとかっこいいけど生意気な子が来たと、一部の女の子たちの間では噂だったらしい。だけどクラスの違った優衣はそれを知らなかった。

 でも五年生になって同じクラスになると、一番家の近い優衣が、裕也の家に学校からの手紙を届けることが多くなった。

 ――もう、なんで学校来ないのよ。

 そう、裕也は学校を休んでばかりなのだ。だから優衣はいつも、先生から届け物を頼まれてしまう。

 坂道を駆け上がると、裕也の家が見えてきた。

 緑のつたが複雑に絡まりあう、古い洋風の建物。花でも植えれば綺麗なはずの広い庭は、雑草がぼうぼうと生えていて、うっそうとした木々がそれを覆っている。

 だから小学生の間でこの家は、『お化け屋敷』と呼ばれていた。


 優衣はいつものように門を開き庭へ入る。ギイイっという錆びた音が薄気味悪く響き、茶色い柴犬のような犬が、優衣に向かってワンワンと吠え立てる。だけどこれもいつものこと。そして、家のチャイムを鳴らそうと玄関の前に立ったとき、優衣の頭上から声がした。

「うるせーぞ、シロ!」

 ドキッとして顔を上げる。すると、ベランダから身を乗り出して、こちらを覗いている裕也と目が合った。


「これ。お手紙」

 ぶっきらぼうにそう言って、右手でプリントを差し出す。『授業参観のお知らせ』と書かれてあるそのプリントは、優衣の手の中でしわくしゃになっていた。

「こんなの持ってこなくていいのに」

 優衣の耳に裕也の声が聞こえる。ちょっとかすれた特徴のある声。優衣は手を伸ばしたまま、目の前に立つ裕也を見る。裕也は黒くて長い前髪に隠れた目で、ちらっと優衣の顔を見た。

「そんなこと言ったって……先生に頼まれたんだもん」

 優衣はそう言うと、無理やりプリントを裕也の胸に押し付けた。裕也は面倒くさそうにそのプリントを受け取る。

 ――わざわざ遠回りして届けてやったのに。「ありがとう」の一言ぐらい言ったらどうなのよ。


「なんで学校来ないの?」

 優衣が怒った声で裕也に聞いた。どう見ても具合が悪いようには見えない。絶対学校をさぼったのだ。これからもずっとこの家に、いや、こいつにプリントを届けるなんて……勘弁してほしい。

 すると優衣の前で裕也が答えた。

「弟が病気だから」

 意味がわからない。どうして弟が病気だと、学校を休まなければならないのか?

「お母さんうちにいないの?」

「いない」

「弟が病気なのに?」

「そうだよ」

「あたしが病気になったら、お母さんお仕事休んでずっと一緒にいてくれるよ?」

 優衣の言葉に裕也がふっと笑った。まるで優衣のことを馬鹿にしているかのように。

「な、なんで笑うの?」

「べつに」

 その時部屋の奥から小さい男の子が顔を出した。


「ゆうちゃーん、お腹すいたー」

 優衣は思わず部屋の中をのぞきこむ。靴が散らかっている玄関と同じように、部屋の中もおもちゃや服など、たくさんの物が散乱していた。

「あれ、俺の弟。まだ三歳なんだ」

「あんたが面倒みてるの?」

「そう。病気が治ったら保育園行けるけど、病気が治るまでは俺が面倒みてる」

「じゃあ学校来れないの?」

「学校なんて行かなくてもいいじゃん」

 裕也はそう言うと、優衣に背中を向けて歩き出す。

 ――そんなのへん。学校は行かなきゃいけないんだよ?


「あ、お前」

 突然裕也が振り返って優衣を見た。優衣の心臓がなぜかドキンと跳ねる。

「お前、なんて名前だっけ?」

「七瀬……優衣」

 つぶやくように答えると、裕也がほんの少し笑って言った。

「ありがとな、七瀬」

 優衣は黙ってそんな裕也の顔を見つめる。

 裕也はプリントをひらひらと振って、玄関に立つ優衣を残し、部屋の奥へ入っていった。

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