大川黒目

前編 押し波

 僕は絵を見上げた。


 僕は今、通学路の電車の乗り換えをする駅に立っている。今朝、学校に行ったは良いものの、近頃の寒波のあおりを受けたのか、病欠の生徒が多く学級閉鎖になった。そんな訳でこの朝とも昼ともつかない時間に、既に家路に就いている。


 数時間前にせかせかと歩いた通路をぼんやり歩くのは、なんだか変な気分だ。


 この駅には絵が飾ってある。とてもとても大きい絵だ。壁画といってもいい。なんでも昔、日本で万博をしたときに活躍した芸術家の作品らしいが、あまりよく知らない。だが、この絵をちらりと見上げることが、僕の小さな日課になっていた。


 絵の中心には火のついた骸骨のようなものが描かれていて、その周りには何かのモチーフがちりばめられ、どぎつい色が塗りたくられている。

 なんでも戦争をテーマにしているとか何とか聞いたことがある気がするが、芸術とか美術というものに全く興味のない僕には、よく分からない。


 僕がこの絵を毎日見る理由は別にあった。この絵には面白い特徴があるからだ。絵を見上げるたびに、僕は必ず違和感を覚える。

 気づいていなかったモチーフ、目に入っていなかった色など、日によって違和感を発しているものは様々で、原因が分からない日も多かった。

 それでも、まるで目を離した隙に絵が動いているのではないかと思ってしまうような自然さで、必ず新しい違和感が生まれていた。


 実際のところは、なんてことはないただの思い過ごしだ。こんなにデカい上に、様々な色やモチーフが節操無く描いてあるんだ。毎日新しい発見があってもおかしくない。

 考えてみれば、この絵をゆっくり眺めたことは今まで無かったかもしれない。朝はいつも電車の乗り換えと始業のベルの事で頭がいっぱいだし、帰りはヘトヘトに疲れて立ち止まる元気なんて無い。いつも横目に見るだけだから、正面に見上げるのも初めてかも。

 足を止めてはっきりと視ると、違和感の嵐に襲われた。もう何百回と見たことのある筈なのに、この絵を知っている自信がなくなってくる。この絵は一体いつからここに在ったんだ?


「四一七人」


 どこからか声が聞こえる。


「君が四一七人目だよ」


 あたりを見渡すまでもなく、一人の少年が隣に立っていた。年は僕より少し下だろうか。

「何が?」

 一応訊き返してみる。年下に遠慮は要らないだろう。

「それは何の人数なの?君が声を掛けた人の数?」

「日付が変わってから、この絵を一瞬でも見上げた人数さ」

 彼は言った。

 この中学生かそこらの少年は、深夜からずっとここに立っているというのだろうか。そんな馬鹿な。


「なに、じゃあ君はここでもう半日近く人を観察してるの?」

「そうだよ」

 まんまと言い切った。なかなかの食わせ者らしい。

「多いのか少ないのか分からない数だね。ここを通る人はもっと多いとは思うけど」

「ここを通る人の内の八人に一人位だね。絵を見るのは。そのうち足を止めるのは七人に一人位。もう少し遅くなったら来る観光の人たちが大半だけど。朝に立ち止まる人はほとんどいないよ」

「そんなことを言って、君は本当に人数を数えてるの?一日中?、」

「そうだってさっきから言ってるじゃないか」


 俄かには信じがたい。適当を言っているだけだろう。少しは年上の威厳を見せなければ。

「君はさ、なんでそんなことをしているの?なんかの調査学習とか?一日中一人で、っていうのは無理だろうから、友達と一緒にやっているの?」

「君は質問ばかりだね」

突然突っぱねられる。

「言いたくないっていうなら、答えなくてもいいけど」

 この子は何か特殊な事情でも抱えているのだろうか。学校と家庭の両方に居場所がないとか。もしそうだとしたら、こんな時間に駅にいるのも頷ける。そうなら、友達の話を出したのは不味かったかもしれない。

「別に、知りたいんだったら構わないよ」

 心配をよそに、少年は大して気にした風でもなく答える。


「僕はね、面白いことを見つけてしまって、それに興味があるんだ。どうしても気になってしょうがないから、こうやって一日中駅にいるんだ」

少年は悪戯っぽく付け加える。


「知りたいんだよ。今の君みたいにね」


 やっぱり可愛くない。なんとなく小癪な奴だ。こんな喋り方をするから、友達もいないのだろう。

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