第94話 二人だけの誓い
久しぶりにぐっすりと眠れた気がする。
目を覚ました華子は大きく伸びをしようとして、背後から華子を抱きしめていたリカルドを起こさないようにそっと腕の中から抜け出した。深い眠りの中にあるのか、リカルドは身動ぎ一つすることなく胸が規則正しく上下している。
『我らに希望を与える光の精霊よ、我に力を、傷ついた身体に癒しを、その御魂に安寧を』
華子は髪の毛を一本抜いて小さく癒しの魔法術を唱えると、眠るリカルドに虹色の光を振り蒔いた。『狭間』で見たナートラヤルガの知識の中にあった魔法術の一つだ。ずいぶんと長い間をあの部屋で過ごしていたので簡単な魔法術なら使えるようになったのだ。
日に焼けた顔や傷だらけの身体に視線を移した華子は、リカルドの辿った旅路の壮絶さの
「ごめんなさい、起こしてしまいましたか」
「もう少しも失いたくないですから……そんなもったいないことに使わないでくだされ」
「もう……リコ様ったら」
寝起きの流し目はずるい、と華子は顔を赤らめた。リカルドの濃い灰色の髪は海風の影響からか色味を落として表面が白に近い色になり、パサパサしていて伸び放題になっている。カチッとしていた竜騎士のリカルドも格好良かったが、今のリカルドは野性味が溢れていてドギマギしてしまう。
「せっかく魔法術を使えるようになったのに。髪の毛はまた伸びてくるんですからもったいなくなんかありません」
「そうは言いましても、こればかりは譲れませんな」
リカルドは掴んだ華子の手を軽く引き、再び抱き込んで丸くなると、その髪に触れる。華子の髪は普通にしていると真っ白で、魔力を宿すと虹色になる不思議な髪に変化していた。日本では女の髪には霊力が宿るという伝承もあったので、無造作に放出されていた魔力がいつの間にか髪に宿るようになったのだろうと思っているが、真相は分からない。そんな華子の髪を梳くのが日課になったリカルドは、ことあるごとに華子の髪に触れるようになったのだ。今もリカルドの手は無意識のうちに華子の髪をいじっている。
華子とリカルドはこの不思議な島で、離れていたときを取り戻すかのように常に一緒だった。陽が昇ると島を探索し、陽が落ちると寄り添って眠り。
島の真ん中にそびえ立つ古代樹の側には清らかな水が湧き出る泉があり、その周りには緑豊かな森まで存在している。生き物はおらず、虫さえ見つけられない森には食べていいのか悪いのかわからない水風船のような果実が様々な形で実っていた。神が
ヴィクトルはと言えば、こちらも食べる必要がないのか、古代樹の上に寝ぐらを作りいつも気持ちよさそうに眠っていた。再会から何度目の朝と夜を迎えたのか正確には覚えていないが、華子とリカルドはこうして過ごす日々も終わりが近いと考えていた。
「華子、幸せですか?」
泉で水浴びをしていた華子を眩しそうに見ていたリカルドが問いかける。華子は泉に浸していた長い髪を絞り、頭の上で纏めながらリカルドが座っている岸辺へと歩み寄って手を差し伸べると悪戯っぽく笑った。
「リコ様はどっちだと思いますか? 今の私は幸せそうに見えます? それとも……」
「見間違うはずもありませぬ。貴女は今、幸せだ」
「ええ、とても」
幸せです、と続けようとした言葉は、唇をリカルドに塞がれた所為で飲み込まれてしまう。
「しばらく逢わぬ内に少々意地悪になられましたな」
「そんなことはありません。リコ様の反応が可愛いから、つい
「可愛い? 私が? 」
憮然とした顔になるリカルドに華子は胸をドキドキさせて縋りつく。
「狭間では、そんな余裕なんてありませんでしたから。リコ様とこうしていることでやっと元の私に戻れた気がします」
旅の途中で怪我を負った名残りの、リカルドの右目の傷痕にそっと手を当てて癒しの魔法術を紡ぐ華子は、優しく見つめてくる左目の奥深くにある不安を取り除いてあげたい、と切に願う。愛してます、と告げる華子にリカルドがはにかんだ。
華子が誘拐された理由、狭間に旅立った後のこと、竜騎士団を辞して王位継承権も放棄し、レメディオスの名を捨てたこと、華子を探す旅路の話。ぽつりぽつりと話してくれた内容に、華子は張り裂けそうな心の内をリカルドに全てぶつけた。
真っ暗な空間、孤独な部屋、華子が華子として生まれた理由、リカルドを探す日々。バヤーシュ・ナートラヤルガが生きていたことに驚いたリカルドはホッとしたような、悔しいような複雑な表情をしていた。華子が数奇な運命を辿る原因となった元凶ではあるが、リカルドにとっては偉大なる賢者であり魔法術の師でもある。散々世話になったのだと伝えた華子にリカルドは、生きているならそれでいいのです、と呟いて話を終いにした。
リカルドはまだ不安なのだ。いつまた華子を失うようなことがあるかもしれないという恐怖が付き纏っている。もしそうなったら次はどうなるかわからない、とリカルドは言う。世界の涯まで辿り着いたのだから、次は神にでも逢いましょうか、と華子に言ったリカルドの目は暗い闇を孕んでいた。
だから華子は愛してます、と言葉にする。
言葉にするだけではまだ足りないと言うのならば ––––
「リカルド・フリオ様、私と婚姻を結びましょう」
その言葉にリカルドはきょとんとした顔をしたかと思うと、みるみるうちに頬を赤く染めた。
「リコ様のやりたい事をやりたいように、私はそれに着いて行きます……だからリコ様、共に生きましょう。ただのリカルドとただの華子として」
「華子」
「いつか、大鐘楼でリコ様に婚姻を申し込まれたときは、実感もなくて、婚姻を結ぶいう言葉に尻込みしていたんですけど」
身分とか立場の違いとか異世界人とか色々な理由をつけて、覚悟なんて全然できていなかったけれども、
「きちんと婚姻をを結んで、私の旦那様になってください 」
いつか見た、幻の家族の光景をリカルドと一緒に叶えたい。
「私と家族になって、最期のときまで一緒に過ごしましょう! 」
意表を突かれたリカルドはしばしの間華子を見つめ、泣きそうに顔を歪めた。
「…………今の私はただの老いぼれです」
「私にとってはとても魅力的です」
「責務も国も家族も捨ててしまうような薄情な男です」
「
「きっと、貴女を置いて先に逝くのは私です……これ以上哀しませたくありませぬ」
「今すぐ一緒になれないのならとても哀しいです。リコ様……私の旦那様に、家族になってくれないのですか? 」
華子の声が哀しみに震えると、リカルドは水音を立てて華子を抱き締めて抱え上げ、額と額を擦り合わせる。
「貴女の夫になりたい。生涯を共にしたい。家族になって、叶うならば子をもうけたい……これからの日々を貴女と笑って過ごせるならば、どこにいたって幸せです」
リカルドが決意を秘めた目でしっかりと華子を見る。
「華子、婚姻の儀式をしましょう」
「はい、リカルド様」
華子もリカルドも、その目からはポロポロとたくさんの涙が零れ、拭っても拭っても後から後から溢れ出して止まらない。言葉にできないくらいの想いはリカルドの左目を虹色に染め、呼応した華子の髪も虹色になる。解けてしまった華子の髪が滑り落ち、まるで虹色のベールを被ったように水面に広がった。
「今、このときを持って、田中華子を我、リカルド・フリオの妻とし、生涯を持って誠実に愛し、魂が神の御許に還るそのときまで、共にあることを宣誓する」
「私、田中華子は病めるときも健やかなるときも、どんなことがあっても、夫、リカルド・フリオを支え、愛し、命が尽きるそのときまで共に生きることを誓います」
煌びやかなドレスがなくても、豪華な食事もなくても、たくさんの参列者がいなくても。それは忘れられないほど素敵な、たった二人だけの、華子とリカルドだけしか知らない秘密の婚姻式だった。風が吹き、古代樹から落ちてきた葉が光の粒となってキラキラと輝きながら二人を彩り、古代樹がまるで二人の永遠の誓いを祝福するようにシャラシャラと葉を鳴らす。古代樹の寝床で二人を見ていたヴィクトルは、満足そうな咆哮を上げた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
王都セレソ・デル・ソルに鐘の音が鳴り響く。
国の式典のときにしか鳴らさない特別な鐘の音 –––– ルス・イ・オスクリダーの大鐘楼が突然鐘を鳴らし始めたのだ。大鐘楼には誰も登っておらず、誰かのいたずらでもない不可思議な事態に人々は国の一大事ではないかと怯えていた。暴動が起きることを避けるため、警務隊や竜騎士が街の要所に立ち警戒をしていたところ、
「そうか……あれはついにやり遂げたのじゃな」
宮殿からその様子を見ていた国王クリストバルは隣に立つ王太子アドリアンに話しかける。
「世界の涯でアルマと出会い、魂の安寧を得たようですね」
心眼を持つ二人には、セレソの大樹を通じて遥か遠くの地でようやく出逢った二つの魂の輝きが見えていた。それは確かに、リカルドと、そしてそのコンパネーロ・デル・アルマである華子の魂の輝きだ。
「……あれは帰ってくるかの」
「さあ、そればかりはわかりません」
全てを置いて出て行ったリカルドが再びこの国に戻ってくるかどうか、ここにいる誰にもわからない。
「父上、兄上! あれはリカルドなんですね 」
第四王子のフェリクスが息を切らして部屋に飛び込んでくると、クリストバルとアドリアンの顔を見て納得したように呟き始める。
「オスクリダーの大鐘楼はコンパネーロ・デル・アルマを象徴する、神代の昔からある遺跡……リカルドとハナさんが出逢ったことで反応した? うーん、だとしたらセレソの大樹は古代樹と繋がっている? 不思議だなぁ、世界の涯かぁ」
「相変わらずじゃのフェリクス」
「やれやれ、お前はいつもそればかり……さて、民が良からぬ噂を立て始めぬうちに伝達を出さねばな」
「……あれのことを公にするつもりか、アドリアン」
クリストバルが部屋を出ようとするアドリアンを呼び止める。表向きはリカルドが竜騎士団長を辞したのは健康上の理由と伏せており、国を離れたのは療養のためとしてある。コンパネーロ・デル・アルマについては明言はしていないが、療養するリカルドについて行ったとぼかしていた。
レイヴァースやフェランディエーレが起こした事件もアルダーシャ・ブランディールという
「アドリアン! 」
「今宵の啓示は心眼が私に譲与されたことに対する祝福だということです。父上、そうでしょう? 」
アドリアンは杖を床に打ち付けてクリストバルを見据える。
「もういい加減に譲位なされませ。宰相が更迭され、竜騎士団長が代替わりし、アリステア神聖公国とは一触即発。ご高齢の父上には荷が重すぎますよ、後は全て私が引き継ぎます」
王の職務はアドリアンが引き継いでいたので何も問題はない。心眼の力も半分以上、いやほとんどアドリアンに譲与されているのでその資格はあるはずだ。
「まだ世を見くびるでないぞ? 」
「見くびるも何も。これから降りかかる問題を処理していたらいつ死んでもおかしくはないかと。リカルドが帰ってくるまで元気でいたいでしょう? 」
アドリアンから返ってきた答えにクリストバルは拍子抜けした。心眼で見るアドリアンの心には嘘などまったくない。純粋に父親の健康面を心配しての発言に、クリストバルは天井を仰いで溜め息を吐いた。
「…………まったく、誰に似たのか。この息子共ときたら、忌々しいわい! 」
フロレンシアが生きていたらきっとこう言うに違いない –––– 貴方によく似ておりますわ、と。
かくして、夜明けと共にクリストバル・ファン=バウティスタ・デ・レメディオス七世の退位と、アドリアン・アドルフォ・ロサ・デ・レメディオスが王位を継承することが告げられ、王都セレソ・デル・ソルは大いに沸いたのであった。
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