第32話 仲直りのち痴話喧嘩

 リカルドは華子の唇の甘さに酔いしれそうになった。


 あのときとは違って華子はリカルドの気持ちごと受け入れてくれている。開いた唇の隙間から舌を入れて歯列をなぞると、はふっと華子の口から息が漏れた。お互いの舌が絡まり合い、口の端から唾液が零れ落ちそうになるがやめることなどできなかった。


「ハナコ……腕を、首に回して」


 リカルドの背中をうまく掴めず、ズルズルと手を滑らせていた華子の腕を取り、自分の首に誘導する。背の高いリカルドが腰を屈め、華子がつま先立ちになっても身長差があり過ぎてどちらも辛い体勢であったため、半ば抱え上げるようにして華子を抱き締めた。


「んっ、リコ……さま」


 鼻にかかるような可憐な声で愛称を呼ばれると、リカルドの身体がカッと熱くなる。


「ハナコ、ハナ……ハナ」


『ハナ』はフロールという意味だと華子は言っていた。


 花の国フロールシアに落ちてきた花の子供。


 長き冬を過ごしたリカルドに、華やかな春をもたらした魂の伴侶の心を、ようやく手に入れることができたこの歓喜。求めて、求められてますます深くなる口付けに、二人は完全に酔いしれていた。



「キュキュ!! ギュー、ギュルルルル!! 」


 ガタガタッ、ガタタッ


 華子の後ろから、不満げで耳障りな仔馬の声と柵を揺らす音が聞こえてくる。最初は気にならなかったが、音はだんだんと激しくなり放っておくことができないくらいになっていた。リカルドが華子越しにチラリと覗くと、ピノがジタバタと暴れている姿が目に入る。どれくらいの間口付けを交わしていたのかわからないが、すっかり退屈してしまったらしいピノが柵の間から半分身体を出しており、挟まってもがいているではないか。


「……やれやれですな」


 名残惜しそうに唇を離したリカルドは、もう一度だけその唇をちゅっと小さくついばむと、華子を降ろしてピノの挟まっている柵に歩み寄る。ギューギュー鳴きわめくピノはリカルドにすがるような目で柵を開けろと訴えていた。


「やんちゃも過ぎると痛い目をみるぞ? 」


 引きずり出すのは難しいので、一旦ピノの身体を押し戻し、改めて柵を開けてやる。柵から解き放たれたとたんにピノは華子に向けて突進してくると、グイグイと頭を押し付けて甘えてきた。


「こら、一体誰に許可を取ってそんなことをしているんだ? 」


 リカルドは腰に手をあててあきれたようにピノを見やる。


「ピノはまだ子供ですし、仕方がありませんよ」


 リカルドとの口付けの余韻も冷めやらぬ状態の華子は、ピノの頭を撫でてやりながら苦笑した。リカルドの柔らかく熱い唇の感触が、今もまだ華子の唇を貪っているようで、思い出しただけでも顔が熱くなる。

 一度目は資料室で、二度目は厩舎で、とシチュエーション的にはあまりロマンチックではない場所での口付けであったが、そんなことなどどうでもよくなるほどリカルドのそれは上手かった。


 リカルドが柵を元に戻して華子の傍に戻ってくると、華子と同じようにピノの頭を撫でてやる。その大きな手を見ていると、華子の胸がきゅんと鳴った。別にフェチではないが、リカルドの厚く大きな手で撫でられると安心できるから大好きだ。ピノもかなり嬉しそうにしており、この小さな仔馬がこんなにもリカルドを待っていたのだと思うと、独り占めしていて自分が後ろめたくなる。しかし、そうは思うものの、何だかいいところを子供に邪魔をされた恋人たちのようで気恥ずかしくもあった。


「やれやれ、良いところを子供に邪魔された夫婦のようですな」

「ふ、夫婦……」


 リカルドも華子と同じように感じていたようでびっくりしたが、まさか夫婦とは。リカルドの夫婦という言葉に、華子の脳裏には仲良く二人そろって暖かな部屋のソファでくつろいでいるところに小さな子供たちが群がってくる、という構図が浮かんできた。華子は無意識のうちに、自分から溢れ出る虹色の魔力にその夢を投影させていく。そしてその幻は華子の魔力を得てより鮮明になり、あたかも自分たちがその場にいるような感覚をもたらす。

 リカルドによく似た水色の瞳の可愛い男の子と、幼い頃の華子のようなよちよち歩きの小さな女の子。男の子が華子の膝の上に登り、ふくふくとした手を伸ばしてきた女の子を、リカルドが抱き上げる。きゃっきゃと笑う女の子に男の子が手を伸ばして頭を撫でて笑うのだ。そこにあるのは幸せな家族の光景。リカルドと華子は目を見合わせて微笑み、そして……。


「キュルル」


 ピノが手を甘噛みしてきたお陰で現実に戻ってきた華子は、キョロキョロと辺りを見回した。そこは確かに厩舎の中で、暖かな部屋でもなく子供たちもいない。


 今のは何だったの?


 思わずリカルドと見ると、リカルドも何かに驚いたように華子を見ていた。


「今のは……幻術? いや、まさか、確かにこの腕に」


 余韻が残っているとでもいうのか、リカルドは自分の手のひらを握ったり開いたりして首を傾げている。


「私にも、見えました、男の子と女の子の二人」


 あれは本当に私?

 あの子たちは私の、私たちの子供?


 アルマが見せた未来だとでも言うのか。

 この世界が起こす不思議な出来事に、華子はどう反応してよいのかわからなかったが、もしあれがこれから訪れる未来であるとしたら、どんなに幸せなことだろうと素直に受けとめた。


 一方リカルドも、初めて経験する事柄に戸惑いを隠せないでいた。未来を見る力を持つ者が居ないわけではないが、そういった類いの者たちは俗世を離れ人前に姿を現すことはない。リカルドの父親である国王も、レメディオス王家に伝わる『心眼』と言われる能力の持ち主であり、その能力は真実を見抜く力というもので未来を見通すものではなかった。反応から察するに、華子は無自覚のようだ。

 幻影を見せる魔法術はたくさんあれど、魔法術の魔の字も知らないはずの華子が、補助の呪文すら唱えずにここまでの精度の幻術を編み上げるとは、もしかしたらその手の能力に長けているのかもしれない。

 リカルドは、華子の作り出した幻を見ていたと思われるが、あの幸せそうなリカルドと華子と、そして子供たちが、華子が望む未来の姿だとするならば、この先に何があろうとも必ず叶えてみせるとリカルドは誓う。


 あれが己の願望でも構わない。

 これからずっと、愛する者と共にある未来を。


「不思議なこともあるものですな……アルマのことを知り尽くしているとばかり思っておりましたが、まだまだ謎だらけのようです。さて、ピノも痺れを切らしておりますのでそろそろ参りましょうか? 」

「は、はい! 」


 リカルドが華子に手を差し伸べ、華子はそれを自然に取る。お互いに微笑み合うと、手を繋いだ真ん中にピノを挟むようにして二人は厩舎を後にした。



 ひとしきりピノを遊ばせて厩舎に戻ると、華子に随伴していたはずのウルリーカと近衛騎士のマウロの姿はすでになく、代わりに伝言用のピンクの蝶と灰色の蛾が仲良く飛んできた。華子の指先に止まったのはピンクの蝶だ。


『すっかり元気になられたようですので、私は先に戻らせていただきます。とびきりの特効薬には私の治癒術やお薬もかないませんね! 』


 ウルリーカの声は弾んでいる。特効薬とはもしかしなくてもリカルドのことだと華子には直ぐにわかった。


「そんなに悪かったのですか?! こうしてはいられない、早く戻りますぞ! 」


 勘違いしたらしいリカルドは、華子が重病で伏せていたと思ったのか慌て始める。


「もう完治していますから大丈夫です。と、特効薬が効きましたから……それよりもその灰色の蛾は何ですか? 」


 リカルドの周りをぐるぐる飛び回る伝言用の蛾は、リカルドが指を差し出しても止まることなく飛び続け、こともあろうにリカルドの頭の上に止まった。


『私は必要ないみたいですから戻らせていただきます。団長に報告させていただきますからね! 』


 紛れもないマウロの声だが、何故か棘のある言い方だ。所構わず熱愛の現場を見せつけてしまったのだから、マウロが怒っていても仕方がないとはリカルドも思う。しかし、何故そのことを近衛騎士団長に報告する必要があるのか。確かに今回はエメディオやその奥方のイェルダの世話になったが、それとこれとは別物だ。


「団長ってイェルダ様の旦那様ですよね……」


 イェルダはエメディオととても夫婦仲がよいので、今晩あたりにでもエメディオからイェルダに報告があるのだろう。色々と相談に乗ってもらった恩はあるが、リカルドとの恋愛模様が筒抜けになるのはとても恥ずかしかった。


「心配されずとも口止めはしておきます」

「そ、そうですね、よろしくお願いします」


 ピノを馬番に返した時には馬番たちが意味ありげな満面の笑みを浮かべてえおり、華子はリカルドを置いて逃げるように立ち去ってしまった。

 これから一体、どうやって普通に接すれば良いのか。慌てて追いかけてきたリカルドに、華子は恨めしげな視線を送る。


「リカルド様……私、これから部屋に篭ります」

「なっ、何故ですか?! 何か問題でも? 」

「大問題ですよ! 皆に見られていたなんて恥ずかしくて。ほとぼりが冷めるまで、しばらく来ないでください! 」

「それは駄目でございます! やっと想いが通じたというのに。私のどこが気に入りませぬか? 言ってくだされば直ぐにでも改善いたします故、それだけはご勘弁を」

「やっぱりリカルド様が無駄に恰好いいのがいけなかったんです!! もう少し不細工になってください。そうしたらほだされたりなんかしないんですから」

「不細工でございますか?! 善処します」


 恥ずかしさを誤魔化すようにぷりぷりと怒る華子の後を、情けない顔でついて行くリカルドの姿に、通りすがりの侍従や侍女、宮殿で働く文官に騎士たちが何事かと振り返るが気にする余裕もない。端から見れば痴話喧嘩に見えるその姿が、次の日には宮殿中で噂になることを今の二人は知る由もなく。


「だから、もう少し離れて歩いてください」

「嫌です」

「それじゃあ、ここまでで結構です」

「ハナコ、もう二度としないと言ったら許していただけますか? 」

「そ、それは、駄目です」

「やはり貴女の嫌がることを無理強いなどできませぬ。身を切るような思いですが、貴女の傍に居られぬならば」

「……もう、してくれないんですか? 」

「ハ、ハナコッ?! いえ、そうではなく、貴女に許されるならば、何度でも」

「いつまででも」

「は? 」

「いつまででも待ってくれるって言ったじゃないですか、リカルド様の嘘つき! 」

「お、お待ちくだされっ!! 」


 宮殿の廊下を走り去る二人が、またもやアルマを暴走させていたと巡回中のイェルダが夫である近衛騎士団長に伝令を飛ばしたのは、それから直ぐのことであった。

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