ミミズクさんのおはなし

@minus_nana

ミミズクさんのおはなし

 私が人生で最初に好きなったひとは、ミミズクだった。


 ミミズクさんと出会ったのは、弥生坂の居酒屋だった。研究室のボスが「こいつは昔からワルでさー」と実験器具を取り扱う会社の社長を連れてきて、その社長のおともがミミズクさんだった。ミミズクさんは最初、知らないひとばかりの環境に戸惑っていたようだけど、それでも積極的に私たちと話をして場を和ませようとしてくれた。シーザーサラダを取り分けてくれたし、モツ鍋の火力も細かく調整してくれた。店員さんを要領よくつかまえて、皆の飲み物をはっきりと注文していた。

 私は(どうしてミミズクが飲み会にいるんだろう……そもそもどうしてミミズクがネクタイをしてスーツを着ているんだろう……)と思いながら、本日三杯目の生中を飲んでいた。

「ビール、お好きなんですね」

 ミミズクさんが斜めの方から声をかけてきた。私は一瞬(うわ! ミミズクに話しかけられちゃったよ!)と慌てたけど、素知らぬ顔をして答えた。ゼミ生二人が私の顔を見ていた。

「はい。飲み会ではビールを飲むようにしています」

「そうなんですか。お若いのに珍しいですね」

「生ビールは家で飲めないので」

 ミミズクさんは嬉しそうに耳を動かした。器用だな、と思った。


 あれから十五年が経った。私はいま子どもが三人いて、国分寺の団地に住んでいる。夫は輸液製造会社の営業マンをしていて、身長が190あって体重も100を超えており(結婚する前は95くらいだった)、日々中央線の満員電車に揺られては、イノシシを狩って小麦やクルミと交換してくる。私はその小麦を挽いてパンを焼き、クルミを蜂蜜に漬けている。子どもたちは小学校に行ったり幼稚園に行ったり、押し入れに構築されたプラレール王国に行ったりしている。月並みな幸せを噛み締めることもあれば、ときどき無性に悲しくなって飛び降り自殺したくなることもある。

 そんなときふとミミズクさんのことを思い出す。器用に動かしていた耳のことを思い出し、そして、もう動かなくなった耳のことを思い出す。


 飲み会の翌週あたり、根津の赤札堂で白菜をカゴに入れたところで、ミミズクさんが横に立っていることに気づいた。気づいた瞬間は思わず「ぃひゃあ!」と叫んでしまった。だって横にミミズクが立っているんだよ? 猛禽類だよ?

 ミミズクさんは申し訳なさそうに「驚かせてしまって済みません」と頭を下げた。いえいえこちらこそ、と私も頭を下げた。(あれ、ミミズクって頭を下げられるんだっけ?)と気になったけど、ミミズクさんはすぐ元通りの姿勢になっていた。カゴにはお菓子と飲み物が入っていた。

「いま帰りで、電車に乗る前に買っておこうと思って」

 ミミズクさんは北千住に妹さんと一緒に住んでいるということだった。私は(ガム食べるんだ……歯がないのに……)と思った。

「そういえば」

 私は売場のニンニクを手に取りながら言った。

「ご出身はどちらなんですか?」

「モントリオールです」

 ニンニクを思わず落としてしまい、持っていたのがキャベツじゃなくて良かったと思った。

「カナダ人だったんですか!?」

「見て分かりません?」

 ミミズクさんはにやりと笑った、気がした。

「ぜんぜん分かりませんでした」

「小学生の頃に母に連れられて日本に来ました。それからずっと三島に住んでいたんですが、大学に入るときに上京しました」

「あ、三島、行ったことありますよ。梅花藻がきれいですね」

 耳がぴくりと動いた。面白いな、と思った。

「ぼく、源兵衛川のすぐ傍に住んでいたんです。よくどぶさらいを手伝わされました」

 ミミズクさんがどぶさらいをするところを想像して、吹き出しそうになった。

「ホタルも出るし、いいところですよ」

「あー、ホタルいいですね」

 もう何年もホタルなんて見ていなかった。

「そろそろ行かないと妹に怒られるんで、また」

 そう言って、ミミズクさんはレジに向かっていった。店員さんに上品そうに軽く会釈をしていた。私はなんとなく嬉しくなって、鶏の胸肉ではなく腿肉をカゴに突っ込んだ。


 それから私たちには、いろいろなことがあった。ラビオリを食べたり、ミニシアターに行ったり、アップルパイを作ったりした。ミミズクさんの耳がぴくりと動くのが面白くて、私は何度もミミズクさんの背中をくすぐった。桜が咲いたときには公園で野良猫と一緒にサンドイッチを食べ、二人でこっそりジェットボイルでお湯を沸かしてコーヒーをいれた。花火大会の日にはレジャーシートに夜通し寝転がって、夜明けの海を見てから帰りの電車でぐっすり寝た。週末を丸々潰してツインピークスをひたすら見続けたこともあった。

 一方で、ミミズクさんは少しずつ元気がなくなっていった。目つきも疲れ気味で、羽もつやがなくなっていった。後になって知ったことだけど、ミミズクさんの会社はいわゆるブラック企業だったらしい。売り上げ成績の悪い人間は上司にきつく詰められて、自腹で製品を買わされ(社員割引でなんと5%オフ!)、結果としてミミズクさんの部屋には未使用のオシロスコープがいくつも転がっていた。察しの悪い私は、最初それを見ても「コレクターなのかな?」としか思わなかった。

 生活費を捻出するために、どこかからお金を借りていることにも気づかなかった。ミミズクさんの傍にいたはずなのに、結局、私は何も知らないままだった。


 私は夫にいろいろなことを聞くようにしている。家族のこと、地元のこと、学校のこと、会社のこと。夫はおしゃべりなので面白おかしくそれらのことを教えてくれる。私は笑って、夫も笑う。素晴らしいことだと思う。これでいつ死んでも悔やまずにいられることだろう。


 ミミズクさんと出会ってから一年近くが経った頃のことだった。

 その日、私たちは野川公園を散歩していた。薄暗く、肌寒い日だった。ミミズクさんの顔色はいつもにまして悪く、お弁当を食べるのもやたらと遅くて、ベンチから立ち上がってもなかなか歩き出そうとしなかった。

「どうしたの?」

「うん……ごめんね」

「謝らなくていいから」

 私は不機嫌さを隠さずに言って、石ころを蹴飛ばした。ミミズクさんは困ったように笑って、

「うまく歩けなくて」

「そっか」

 私はバッグから帽子を取り出すと、指先に引っかけて、ぐるぐる回した。五秒くらいの暇つぶしにはなった。

「どうしたらいい?」

 我ながら、残酷なことを言ったもんだと思う。

「……悪いけど、先に帰ってもらえる? あとで連絡するから」

「分かった」

 私はミミズクさんを後に残して、武蔵境の駅に向かった。自動販売機でお汁粉を買って飲んだ。パチンコ屋が見えてきたあたりで、自分は取り返しのつかないことをしてしまったのではないか、と思ったが、その思いも駅に着いた頃には消えてしまっていた。電車に乗り、つり革をつかみ、窓ガラスの自分を見ていたら、コートにミミズクの羽がついているのに気づいたので、それをつまんで床に捨てた。座席に座っていた中年女性が、いぶかしげにその羽を見ていた。


 今日、子どもたちと上野動物園に行ってきた。人混みのなか、カワウソを見て、ライオンを見て、ゴリラを見た。子どもたちは大はしゃぎしていて、夫も大はしゃぎしていた。夏の日差しは強く、リュックのなかのチョコレートはべたべたになっていた。

 「シロクマさんが見たい」と子どもが言うので、地図を見て道を調べた。

 どうやら鳥小屋の前を通ればいいらしい。

 私たちは歩き出した。子どもたちはなにやら叫びながら先に走っていった。私は自分の息が乱れていることに気づいた。大きく深呼吸をしていると、夫が私の手を握り、「大丈夫だよ」と言ってくれた。私は小さくうなずいた。


 もう終わりなのかな、と思った。千駄木にも春が来たのか、窓の外には梅の花が見え、アパートのなかにもくすぐったい空気が染み込んできていたけど、もうミミズクさんは何月もここに来ていなかった。クリスマスにプレゼントしてくれたパフュームディフューザーも、年明けからずっと棚に放置されていた。

 ミミズクさんの妹さんからメールが来た。兄がもう三日も帰っていない、どうも最近お金関係のトラブルに巻き込まれていたらしい、そちらには来ていないか、という内容だった。

「知らないよ」

 私は携帯から目を離し、本棚からサザエさんを取って読み出した。お腹が空いたけれど、何を作る気にもなれなかったので、冷蔵庫からベビーチーズを出して食べて、水を飲んだ。そしてベッドの上でサザエさんを読み続けた。

 夕方になり、五時を知らせる町内のチャイムが鳴ったところで、電話が鳴った。ミミズクさんだった。

「もしもし」

「おひさしぶり。元気?」

「元気だよ」

「いまからお茶の水に出られる?」

「出られる」

 コートをひっつかむと、サザエさんをポケットに突っ込んで、アパートの玄関から地下鉄のホームまで一気に走った。電車のなかでは座らずにずっと窓の外を見ていた。新御茶ノ水駅の異様に長いエスカレーターを駆け上り、地上のJR改札まで走った。ストリートミュージシャンがギターを鳴らしていた。若者集団が道ばたでタバコを吸いながら缶ビールを飲んでいた。そんな夕闇のなかに、ミミズクさんのとぼけた姿が見えた。あまりの久しぶりの姿に、私は少し涙目になり、少し腹が立ってしまった。

「やあ」

「やあ、じゃないよ。急に呼び出して」

「来てくれてありがとう」

「どういたしまして」

 よく見るとミミズクさんは頭にけがをしていた。ばかでかい大型絆創膏が貼られていて、黒い血がにじんでいた。

「どうしたのそれ」

「カラスの大群に襲われてね」

 ミミズクさんは笑った。羽がひらひらと落ちて、水たまりに入った。

「ちょうど妹も大学を卒業するし、いい頃合いだから、引っ越すことにしたんだ」

「どこに?」

「どこか遠くに」

 私は、

 私は、あのとき、なんて言えば良かったんだろう。

 あなたの借金は全部肩代わりする、私も大学を辞めていますぐ働く、だから、どこにも行かないで。

 そう言えば良かったんだろうか。


 音も日差しも、少しずつ遠くなっていった。

 私はミミズクの小屋の前に立った。そこには、ごく普通の、ミミズクがいた。ネクタイもなければスーツもない、イタリア料理にもフランス映画にも詳しくない、ただのミミズクがいた。とぼけた顔で、私たちをじろっと見ていた。

 それでも、ミミズクを見た瞬間、私の目から涙がぼろっとこぼれた。ごめんね、と一言もらすと、また涙がぼろぼろっとこぼれた。


「話せて良かったよ」

 ミミズクさんは嬉しそうな顔をしたのだけど、

「どうか元気で」

 ちっとも耳が動いていなくて、

「じゃあね」

 聖橋の暗がりに消えてしまった。


 それ以来、二度とミミズクさんには会っていない。

 だから、今日動物園で、ミミズクの羽を目にしたのは十五年ぶりのことで、それを手に取るのもまた十五年ぶりのことだった。


 売店で、子どもたちが動物のぬいぐるみを欲しがった。夫は嬉しそうに子どもたちにぬいぐるみを買い与えた。キリンさんと、ハリネズミさんと、シマリスさんだった。私は(あれ? 上野動物園にシマリスなんていたっけ?)と思った。

 夜、子どもたちは新しくできたお友達を抱いて寝ていた。とても幸せそうな顔で、私はこの子たちに会えて本当に良かったと思った。夫もその横でぐっすり眠っていた。私はその耳をそっと撫でた。

 私は台所で水を飲み、ベランダに出た。

 手を空に突き出し、羽を解き放つ。ミミズクの羽は、夜の風に吹かれ、どこか遠く、三島かモントリオールまで飛んでいく。

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