ドッグタグ
表通 路地
研究室にて
「別に、大したことじゃないんだが」と先生が切り出した時点で、ああ、また長話が始まったぞと覚悟を決めた私は整理途中の書類をすべてデスクに放って、そそくさとコーヒーを淹れる準備を始める。
「それで?」
「それで、とは?」
「それで、なんなんです?その大したことじゃない話。どうぞ、続きを」
別段興味があるわけでもないが、毎度違う話でなかなかどうして考えさせられる質問を思いつく先生の変な特技を、私は気に入っている。先生はいつもこうして、ふとした時に面白くもなく、かといってあくびが出ることもないような話を私にしてくれる。
「うん、そうだな、うーん……猫というのを知っているかね」
猫だよ、猫、などと言いながら、四十代男性が招き猫のまね事をするのは、なかなかどうして悲痛な絵面ではあったが、先生のどことなく間の抜けた空気にぴたりとはまっており、私もつられて招き猫になってしまう。
「おお……君、そんな可愛らしいことできたんだね」
「すみません、いつも可愛げがなくて」
「いや、そうじゃない、そうじゃないんだ……うん。君はいつでも可憐だと思う」
三十近い助手に可憐などとのたまう先生の無神経さに沸きかけのお湯をぶちまけようかと思うが、ぐっと堪える。あれで素なのだ、あの人は。
「そうだね、その、にゃーと鳴く奴だ。それが猫だ。それはいい。僕も知ってるし、君も知ってる」
「はぁ」
「では猫と名のついた犬はなんと鳴くのかな」
「猫という名の犬ですか」
猫と呼ばれていようが、なんだろうが、犬は犬だ。名前で物事の本質は変わらない。私は、犬がワンとなくことを知っているし、先生も知っている。犬を猫と呼んだからといって、明日からその犬がにゃあとなくことはないことは、わかりきっている。
「どうかな」
「ワンと鳴きますよ。きっと」
「そうだろうねぇ。きっといま、名前が変わっても犬は犬のままだ、と考えたところだと思うんだが、では、犬が犬のままでいられる境界線というのはどこなんだろうか」
「すみません、少し意味が……」
「うーん、と」先生が指を宙でくるくると回す。先生自身の考え事ではなく、人になんと伝えればいいか考えている時の癖だ。
「全世界の犬が、全世界だよ?全世界の犬が猫と呼ばれていたら、猫こそワンと鳴く生き物だと思うんだよね。白い犬が白い犬と呼ばれるのは、犬な上に白いからだ。黒ペンキに落としてやれば、白い犬でなくすことができる」
「今日はまた、小学生の屁理屈みたいなことをおっしゃいますね」
「ここで重要なのは、白い犬から白いっていう特徴を欠損させたら名前が変わったってことなんだ」
ちょうど電気ケトルからカチッと音がして、二人の目線がケトルへ向く。調度良く間が開いたとそそくさとコーヒーを淹れる間に、先生はすっかり自分のデスクに腰を落ち着けて、この話が終わるまで資料整理のことなんて思いだしてもくれないように見える。
二人分のコーヒーと、お茶うけにチョコレート。先生のデスクに配膳したら、残りを自分のデスクに広げて、私も腰を据える。
ここまでがテンプレートだ。大抵いつも、ちょうどいい具合に話がわからなくなったところで、コーヒーのためのお湯が沸く。あとは、少し時間をおいて、本番が始まる。
「……うん、そうだね、さっきのは例が良くなかったな。えーと、じゃあ、ここにジョンという犬がいる。首輪にジョンとタグがついているからほぼ間違いなくジョンだ」
先生はこの手の話をする時、仮名にいつもジョンを使う。英語で『名無しの権兵衛』に相当する『ジョン・ドゥ』から引用している、と昔聞いたが、あまりにもジョンばかり使うので、私の中でジョンは大男であり俳優であり詐欺師であり嘘つきであり誠実であり……そして今日、犬となった。
「ジョンは多分にゃあとは鳴かないでしょうね」
間髪入れずに返すと、続きを喋ろうとした先生がひっくり返らんばかりに驚いた顔をする。すこし爽快な気分。してやったりだ。資料整理を思い出してほしい。
「少し、少し待ってくれ、悪かった。何か怒ってるのか?いや、いい。とにかくジョンだ。ジョンは毛並み美しいゴールデンレトリバーで、毛の色は金色、しつけがよく、いくつかの芸もできる」
名犬だろう?と目で訴えてくる先生に、もはや資料整理のしの字も頭に残っていないだろうな、と思うとげんなりした気持ちがむくむくと湧いてくる。先生はこういう人なのだ。仕方のない、大きな子供みたいな人だ。
「素晴らしいことですね」
「やめてくれ、その目を勘弁してくれ。とにかくこういう、飼い主の友達であり家族たるジョンがいるとする」
「ジョンですね」
わかっている、コーヒーを淹れた時点でもうこの話の続行は確定なのだ。私も気持ちを切り替えて、この小話を楽しむべきだ。
「うん、もちろん飼い主たちはタグを見なくとも、ジョンがジョンであることが一目でわかる。見慣れた愛犬の顔を間違えるやつはそうはいないだろう」
「私も実家で犬を飼っていますが、まぁ、さすがにわかりますね」
弟が子犬を拾ってきて、母が激怒し、温厚な父がなだめすかして、結局飼うことになった子だ。未だに実家住まいの弟はポチと名付けられたその犬を甘やかし続け、立派なデブ犬にしている。
「僕は飼ったことがないが、愛犬家はみなそう言うからほぼ間違いないだろう。と、ここでジョンに黒いペンキをぶちまける」
「動物愛護団体が飛び起きそうですね」
「真っ黒になった愛犬を、飼い主はジョンと呼ぶだろうか?」
そんなもの、雨の日に庭へ放した時と変わらない。泥だらけになって、体中茶色くなってしまっても、泥の中身は変わらない。泥がペンキになっただけで、中身は同じ生き物なのだ。
「うちの愛犬が黒ペンキまみれでも、まぁ、いつもどおりポチと呼ぶでしょうね」
ポチ、と名を聞いた先生がはじめに目を丸くし、続いてどこか蔑んだような呆れたような目で私を見据える。何か癪に障るようなことを言った覚えはないが、時たまこういう顔をされるので、私も慣れきってしまった。
「名付け親は君だろう」
「え? ああ、うちの。はい、そうですけど」
「君はそういう人だ」
呆れ顔の次は苦笑して、先生はひとつため息をついた。勝手に呆れて、勝手に苦笑して、もうなにがなにやらわからない。
「とにかく、じゃあ黒くなってもジョンはジョンのままだということになる。金色の毛並みはジョンにとって大切な特徴じゃなかったわけだ」
「まぁ色が変わった程度ならば」
そう、色が変わったからといってどうということはない。カラーひよこもひよこだ。
「ではどんどんいこう。犬も歩けば棒に当たるということで、棒にあたったジョンが記憶を失ったなら。今まで覚えた芸もしつけもできなくなったら?」
「まだポチです」
私は年に一回帰省するかどうかなので、ポチは私をよく忘れている。久々に帰れば敵意むき出しで唸るが、ちょっとジャーキーを投げてやればひっくり返って腹を見せる。お世辞にも頭のいい犬とは思えないが、そこも愛嬌ではあった。
「よろしい、では近所の悪童にいじめ殴られ、顔が変形して元の形がわからなくなったら?」
「ポチです」
ずいぶんバイオレンスな例だが。
「ジョンだ。宇宙人がやってきてキャトルミューティレーションされて、遺伝子構造が変わってラブラドールになっていたら?」
「唐突ですね。まぁそれでも、ポチ、とは、そろそろ言いがたいですね。ちょっと厳しいです。でもまったく同じ生き物なんですよね?」
色も変わる、記憶もなくす、顔も変わって、とうとう遺伝子まで組み替えられてしまっては、もう何が元だったのかわからない。さすがにそこまでいくと、ポチとかジョンとか関係なく、元はなんだっていいんじゃないかと思えてくる。先生はいったい何が言いたいのだろう。
「この話に出てくる宇宙人の技術力に関しては僕が保証しよう。まったく同じ個体だ。絶対に」
「うーん……でもやっぱり、違うかも。少なくともひと目ではわからないでしょうね」
うちの雑種がプレーリードッグになって帰ってきたら、やっぱり私はわからないだろう。
「だが、タグはそのままだ」
うんうん唸る私に向かい、先生はぴしゃりと言い切った。首輪に付けられたネームタグ、犬用だからドッグタグだろうか。それはいままでの例の中で常にそこにあり、宇宙人にさらわれた後も変わらずあるのだ。と。
「ジョンとかかれたドッグタグ」
「そう、それは、そのまま残っている。僕達は、最後にジョンの特徴が全て失われて、何もかも変わってしまって、それでもジョンと名がついていれば、それとそうでないものを分け隔てることができるだろう」
確かに、ここまで変わってしまっては、もはや元がなんであったかよりも、どういう名が付いているかだけが残ってしまっている。それでも、ラブラドールになったとしても、ドッグタグにジョンと書かれていれば、それはジョンと呼ばれる個体なのだと、先生は言いたいようだった。
「タグさえあればそれで、って、なんだか安直すぎませんか?それなら、タグさえつけかえてしまえばまるで別の犬でも構わないみたいな言い草です」
「そう、そこだ。でもね、最初にジョンとジョンでない犬を隔てたのは、やはりドッグタグなんだと、僕は思うんだよ。ゴールデンレトリバーだからジョンだったのでなく、しつけがいいからジョンだったのでなく、ジョンについている特徴がそれらだったというだけなんだ」
「名前が先にあった、と」
納得できそうで納得出来ない。
「最後に、最後にジョンが死んでしまって、焼かれて灰になったとしよう。それでもドッグタグは燃えずに残り、灰の中に埋まっている」
「生き物という特徴すら失った、灰の塊……」
「でもそれは、きっとジョンだ」
先生と私は、なんとなく仮定の話で死んでしまったジョンを偲んで少し黙ってしまう。死ぬ以前にもっとひどいことをされていた気もするが、生き物が死ぬ話はやはり心地いいものではない。
しかし最後の例で何かがわかったような気もする。おばあちゃんがなくなった時、火葬した後に出てきたのは白い灰と骨だった。でも、私にとってその灰はおばあちゃんで、他の灰とは全く違うものだったのだ。優しい人で、いつもにこにこ笑っていた。そんな大好きなおばあちゃんと、そうでないものを隔てていたのは、優しさや人柄でなく、名前だったのか。
「どういう名で呼ぶかが、そうでないものと隔てる最初の一歩だと、僕は思ってるんだ」
先生の中でも消化しきれていないのか、悩むようにコーヒーカップを見つめて、思索にふける。私も、何もかも納得できた感覚はない。ただ、先生が何か考え事をして、そのうちこういう話が漏れ出てきたのだろう。先生の中では多分、もっといろんな考え事がある。
「名前は大事、で今はいいんじゃないでしょうか」
「そうだね、それで今は納得してしまっていいのかな」
「そうですよ」
私は出来る限り優しく微笑んで、先生を見つめる。先生もそんな私を見て少し笑顔になる。この人は、笑うと可愛い。私は先生が思索にふける顔も好きだけど、このはにかんだような薄い笑顔のほうがもっと好きだ。
「ですから、この資料達に大事な名前をつけてあげましょう」
ネームラベルを取り出して、かさばった資料を指さすと、先生はおもちゃを取り上げられた子供みたいにしゅんとする。
その顔も好きだけど、どんな顔でも、彼という人がする顔なら、多分私はその顔が好きだ。
ドッグタグ 表通 路地 @rozi
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