蓮子の話

二勺

蓮子の話

 穏やかな冬の日差しがコンクリートの地面へ落ち、やわらかに包み込むような気配が、開発されたばかりの新興住宅地に広がっている。

 田舎の片隅、一年前までは粘土質の硬い土に草が自由気ままに、何か放って置かれていることへの当てつけのように、一方でもうどこか諦めたように伸び散らかっていたが、今やその面影はなく、全てを削られ整地にされたあと、モダンで洒落た新しい住宅地へと生まれ変わった。

 が、田舎は田舎。昼日中は静かなもので、さっきから三十分ばかり蓮子がその住宅地の一角で立ちすくんでいるが、まだ誰も通らない。猫すらいない。

 蓮子は手に持ったA4サイズの封筒を、時折親指の腹で撫でながら、動けずにいる。

 日差しは暖かくも冬の風は冷たく、時折蓮子の髪を攫い、またそのせいで頬は冷えた。唇に髪が張り付き、その度に蓮子は指で掬ったが、赤く塗られた爪でのその仕草は、田舎の新しく静かな住宅地で、やけに場違いに思われた。とは言っても、そこには誰も蓮子を見咎めるものはいなかった。

 見つめる先には、白い家がある。ほとんど真四角と言っていいような外観。まだ真新しいと分かるほどの白い壁が、無機質ながらも強く存在感を主張し、新築の並び立つ通りで一際目立っている。ローマ字風の表札は、蓮子のいる場所からははっきりと見て取れないが、調べに間違いがなければ『星谷』と表記されているはずだ。

 星谷は、蓮子の交際相手だった。歳は二十七と若いのに、天性とも言える魅力的な喋り口調で人の心を掴むのが異常に上手い男である。仕事中に蓮子に絶えず連絡をよこし、其の癖営業成績は課でいつも一番、取引会社からも評判の良い器用な男。そんな胡散臭くも無視し難い星谷は、初めから既婚であること隠さなかった。

 帰る家庭のある男にまさか自分が本気になるはずがない、それは蓮子の自負であったし、また、過去の経験からの自信でもあった。

 だが、好きにならないと決意していたにも関わらず、蓮子は星谷の熱心な誘いを案外早い段階で受け入れてしまった。そのことに蓮子自身も自分のことながら驚いたし、やられた、というどうしようもない敗北感をも感じていた。

 星谷は蓮子が日頃無意識に軽蔑していた、浅はかで女をモノとして見ている癖に、口説き下手な、セルフプロデュースの下手くそな男たちとは違っていた。少なくとも、それをこちら側に悟らせない見せ方を十分に知っていたようで、最後の最後になって蓮子が星谷の本性に気がつくまで、蓮子は星谷の人間性のある種の清潔さを信じていた。

 そのほかに、蓮子の心をくすぐった部分にもう少し言及するとすれば、年下の男らしい良くも悪くもストレートな欲求表現が新鮮に映り、また、鷹揚な、裏表のなさそうな声が好ましかった。つまり、自由で開放的で、正直な男に見えたのだ。そんな男はどこにでもいると思われるが、これが案外、どう贔屓目に見ても、蓮子の周りには見当たらなかった。

 熱心に蓮子を口説く割に、星谷は自分の仕事が忙しい時には、蓮子に何の遠慮もなく仕事を優先させたが、それがまた蓮子に好感を抱かせたし、その前後で、決して外見が整っている訳ではない星谷が、蓮子を放っておいた事情を説明する際、時折こちらを伺うようにみる目つきにも蓮子は参ってしまった。

(星谷くんの勝ちだわ)

 蓮子は幾度もそう心の中で自らの敗北を認めた。否、そもそも星谷を好きにならない、と決意した時点で、蓮子には星谷を愛する予感があったとも言える。

 それが、半月前のことである。

 さて、結果だけ見れば、蓮子の恋心はたった半月のものだった。だが、蓮子がそれをこの先、半永久的に続くものかと錯覚するほどに、星谷は電話口で蓮子を欲したし、会えば蓮子を長く熱心に見つめたせいで、久しぶりに実に充実した幸福感を蓮子は感じた。そのおかげで蓮子の心には花が咲き乱れ、はたから見ても蓮子の浮き浮きとした、言い換えれば浮ついた言動は、しかし周囲の人をも巻き込んで陽気にさせるほどだった。

 無論、これを蓮子が恋愛に疎いからだと決め付けるには早計である。三十路へと差し掛かる年齢で、これまでの人生において蓮子は不倫に走ったことはないが、夫を愛し、歳相応の恋愛をしてきた。結婚前に熱烈に好いた男もいた。同時に蓮子がこっぴどく振った男もいる。どちらかといえば、恋愛には恵まれていて、欲しいと思った男とは大抵親密になることができた。

 が、そんな蓮子にとって、星谷はとにかく新鮮だった。どこがどう、と聞かれれば、おそらく蓮子はこれという回答を見つけられないが、例えば電話で話すたびに、会うたびに、薄皮を一枚づつ丁寧に剥いでいくような、そして剥ぐたびに斬新なものを見つけるような、そんな惹かれ方をするのだった。何より、星谷は背も高く、長年スポーツを続けているせいか、体は引き締まりスタイルが良かったが、顔面だけは決して世間一般でいう男前の概念と離れていた。顔の幅が広いのは男らしさが表れていたが、目は一重で細く、顔の上でパーツが散乱している印象で、その上日焼けのせいで色が浅黒いので、お世辞にも品性のある顔とは言えない。が、それはむしろ、蓮子が安心して新しい恋へ踏み出せた理由の一つと言える。蓮子は昔から見た目の整った男を嫌厭するきらいがあった。むろん、星谷は蓮子が外見を気にしないと認識するまで、自分の顔面の不具合さをも巧みに武器にするような男ではあったが。

 人から見ればたった半月の、どこにでもある恋、それも常道から外れたものに違いないが、蓮子にとっては急速に心の芯を温められたからこそ、今までと違うと感じるものがあった。

 星谷が結婚をして幼い子どもが二人もいることは百も承知で、また蓮子自身にも壊したくない家族があったが、星谷との恋愛を新たに秘めつつ少しの間人生を生きていくのだと疑わなかった。

 それは蓮子には素晴らしいことのように思えた。

 蓮子は元々が安定を守るよりは刺激を求める性質を持っている女である。愛する夫の他に刺激的な恋人を持つことは、この閉鎖的な世間や保守的な友人たちの中において、先進的な試みのように思われ、至極常識的なタイプの人間には理解されないだろうが、高揚感と共に誇らしくもあった。

 互いの家庭を侵さず、ルールを守り婚外恋愛をする……というその試みが、実はずっと自分が求めていたものだと蓮子が気がついたのは、実際に星谷との恋が始まってからだが、始めてみれば、星谷は実に最適な相手だった。

 そんな矢先である。あれほどあった星谷からの何でもないやり取りが、プツリとなくなり、こちらから連絡をしようにも、電話のコール音さえ通じなくなったのは。


 蓮子は冬の冷たい空気の中で三十分もの間、その家だけを見つめていた。中から人が出てくることも予想しないではなかったし、また通りがかった地域の住人に怪しがられることも、片隅では予想していた。だから、最寄りの駅から一時間もかけて歩いてくる途中、辿りついたら長居はせずに目的を果たそうと決めていた。坂道や舗装されていない砂利道もあって、七センチのヒールを履いた足はなんとなく痛んでいたが、それなのに、白い均整のとれた、持ち主の潔癖さや理想の高さを示すような四角い家を見た途端、蓮子は立ち止まってまじまじと見入ってしまった。

 物珍しさもあった。自分の予想よりもはるかに整った家。形ばかりではない、その家の周りを包む雰囲気が、そうなのである。敷地も建屋もさほど大きくはないが、二台ほど駐車スペースのある駐車場周りの草木は、きちんと整えられている風に思えたし、花壇や鉢などがごちゃごちゃと並んでいないせいで、冬にも関わらず寂しい印象は与えられなかった。

 それらのことは全て、蓮子をがっかりさせた。

 星谷の妻がコントロールしたような、センスの悪い家だったらよかったのに、と蓮子は意地悪く期待していたのだ。

 焦燥か暗澹か、何かあまり喜ばしくないものが殊更に蓮子の心をチクチクと啄ばむように刺している。

 ここに来ると決めた時点で、蓮子は苦しさを請け負うと予想を立て、覚悟を決めなければならないはずだった。だが、蓮子は予想はしたけれども、覚悟はしなかった。苦しみを受け止める器を、今の今まで持っていなかったのである。

 このように苦しみに直面した時に急しのぎで器を整えることは、蓮子にとって今回のことばかりでなく、それは彼女の人生において最大の弱点であり、人生を生き抜く上での美点の一つでもあった。この場合は決定的に後手に回ったが、それでも急しのぎの器はかえって細部をぼやかし蓮子をいくらかは救った。

 けれども、苦しみを大筋で受け取った結果、焦がれた男の住む新しい家を見たときには思わず立ち止まる羽目になり、最も避けるべきだった心の痛みにも真正面から受け取るほかなくなったのも事実である。


 星谷は、どういう気持ちの手順を踏んだのか、それとも計画的だったのか、はたまた一夜にしてサッと気持ちが冷めたのか分からないが、とにかく蓮子に飽きた。

 それ自体に罪があるとは言えないまでも、蓮子が許せなかったのは、星谷主導のもと親密な関係を築いておいて、蓮子に何の主張も文句も強がりも言わせず、勝手にフェードアウトしてしまったことだった。

 なんの予兆もなく連絡が途絶えたので、事故でも起こしたのかしら、仕事でトラブルがあったのかしら、と数日の間は純粋に星谷の身を心配したほどである。もしくは、奥さんに自分との関係がバレたのかもしれない……、という事態も想定し、それなら自分に連絡がこないのはいっそ誠実だと賞賛さえもした。

 とにかく蓮子は星谷からの連絡が途絶えてしばらく、心配で不安で、また次にいつ連絡が来るのかという期待で夜もなかなか眠れなくなってしまった。

 そうして翌週、つまり、今から一週間前のことだが、星谷は至って普段通りに元気で、他の女性と仲良くしているらしい事を知った。

 星谷は蓮子の会社の取引先の人間で、外回りの営業担当は星谷の会社へよく出入りすることもあり、もう五十に近い至って凡庸な営業担当の男性が、星谷の会社から帰ってきてドカリと椅子へ腰を下ろすなり、世間話程度にこう言った。

「最近星谷くんのところに女の事務の人が入ってさぁ。あれ三島さんと同じくらいの年齢じゃないかな。結構美人でさ、まだ入ったばかりなのに星谷くんとも仲良いみたいで、ちょっと羨ましかったよ。もう何度か飲みに行ったんだって。出来てんのかってこっそり聞いたらさぁ、首振るんだけど。まぁそうだよねぇ、星谷くん結婚して子ども生まれたばっかだし、女の人も結婚指輪してたからさ。それにしても星谷くん相変わらずで押しが強いよ。無理だって言ってんのに納期早めてほしいって引かないんだもんなぁ。全くやり手で参るよ」

 ははは……とトドが喋ったらこんな声なんだろうかという野太い声で笑うのを、蓮子は頬が強張るのを自覚しながら、

「そうなんですか、お疲れ様でした」と笑い返した。

 蓮子の苗字は三島である。そして、星谷の会社に出入りする同僚に、星谷と連絡が取れなくなってからも、ただの一言も星谷について聞くことをしなかった蓮子である。一方で、夜は眠れず、食事はまともに取れなくなっている現実に、これほど自分は星谷を愛しているのだと自覚する毎日だった。

 自分と同じくらいの年齢の美人と笑い合う星谷は、蓮子の頭の中でなんなく想像できた。それだけでなく、ベッドの上で別の女にどう囁くのかも想像できてしまって蓮子はどうしようもない虚脱感に襲われた。互いに想い合い、関係を構築していくのだと錯覚していた愚かさ、その反面、いつ関係が終わっても覚悟はしていたはずだったが、まさかこんな幕引きは想像しておらず、蓮子は一通りの悔恨を終えると、今度はあまりの屈辱に笑い出したくなった。

 星谷とは、何度か二人で会ったが、実際に蓮子の体を差し出し重ねたのは、連絡が取れなくなったあの日だけだった……


 固まっていた足を動かし、一歩踏み出す。

 ところで、蓮子がここへやってきてから、初めて車が通った。水色の国産の乗用車は、この住宅街にぴったりと似合っていて、時速四十キロくらいのスピードでゆるゆると蓮子の前を通り過ぎていった。運転していた中年の女性は、チラと蓮子を見たあと会釈しようかどうしようかと悩む素ぶりを見せ、結局目を逸らした。

 気が挫けた蓮子は、家から目を離さないまま一つ息を吐いた。

 また連絡する、と帰っていった星谷の顔が思い浮かぶ。思えばあの台詞の時点で、星谷はもう蓮子に会うつもりはなかったのかもしれない。

 唇をぐっと引き締め、最後に一度家を見据えると、蓮子は心の中で叫んだ。

(ばかっ、不幸になれ!)

 心の中とはいえ、初めて具体的に言葉にしたこの悪い願望は、ストンと蓮子の中に落ちて具合の良いところに収まった。まるで、その言葉を待っていたように、受け皿が用意されていた。

 帰りながら、赤いポストを見つけたので、蓮子はこれも運命だと半分は自分の意思を失ったような状態で、手に持ったままの封筒を投函した。切手は元から貼ってあった。中身はやり取りしたメールの履歴と、幾度となく送られてきた星谷の性器の写真である。

 蓮子は自分の夫が星谷と同じことを他の女性にしていたとしたら、とそんなことを考えて、思わず失笑してしまった。

 空いた両手を田舎の空に向かって突き上げ背伸びをし、大きく深呼吸した。今まで気がつかなかったが、近くに鉱山があるようで、田舎の割に少し砂っぽさの混じる空気だった。

 蓮子は口元を緩め、必要以上に空気を吸い込まないよう気をつけながら、その町を後にした。



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