第五章
5-1
目覚めた。
シーツ。
真っ白なシーツの地平線。
体勢を変えて仰向けになる。ベッドに寝ていた。ベッドの周りをベージュのカーテンが囲んでいる。枕元のランプが灯っていた。夜らしい。
病院だった。
「ヤモリ女?」
同じ病室に収容されたかもしれない、と思って呼びかけた。
彼女は死んでない。あの人は死なない。シロエリさんが飛びこんでいった。わたしはまるで役立たずだった。
身体を起こして気がついた。パジャマや病衣ではなく、ジャージとパーカーを着たままだ。
「シロエリさん? います?」
カーテンを開けると、女性の看護師が見えた。ピンク色の制服姿で、姫里に背中を向けている——背中というよりお尻だ。カートらしきものに身体をかがめて、超ミニの丈のスカートを突き出している。黒いストッキングとガーターベルトの留め具が、太ももに喰いこんでいた。
看護師が、姫里のほうに身体を向けた。肉感的な頬を上げて微笑んでいる。ナースキャップは、単に頭に乗せているにすぎず、ゆるふわのロングヘアは肩へとあふれている。胸元は大胆に開いていて、せめぎあう胸の半分近くが露出していた。ボタンを弾いて飛び出そうな胸だ。お腹は締まって見事な起伏を描いている。笑っちゃうようなお色気ぶりだった。
「ごめんね、起こしちゃった?」
看護師の口唇が、ぬめるような光沢を放つ。
姫里は、額に手をやりながらベッドを降りた。ヘアピンに偽装したカジモドがなかった。サイドテーブルに目をやる。ティッシュ箱しかない。
「外国人の女の人がこちらで治療を受けたと思うんです」
姫里はスニーカーを履きながらいった。
「あん、駄目駄目」看護師は甘い声で叱る。「ちゃんと寝てましょうね? おねんねでちゅよ?」
近づいてくる看護師を避けて、姫里は病室の奥へ移動した。
なんかおかしい。
この人はモンスターではない。けど、人間とも思えない。それでいて、奇妙になじみ深い雰囲気がある。彼女にも、この病院にも。
「おびえてる? 可愛い。大丈夫ですからね」
「ええ。お世話になりました」
早口にいって姫里は病室の出口へ向かった。
あらら? 看護師はそういっただけで止めようとしない。
病室の扉を後ろ手に閉めて、姫里は廊下に出る。
壁や床の感じは間違いなく病院だ。けれどまともな病院ではない。ブラックライトの蛍光灯が、廊下の白い壁を淫靡な紫色に濡らしている。
ポケットのスマホを取り出して、ホームボタンを押す。電源が入らない。バッテリー切れらしい。顔を上げて歩き出すしかなかった。
廊下には三つの人影があった。全員、女性の看護師だ。セクシーな太ももを見せながら姫里の顔をのぞきこんでくる。
「あは」
「どうしたの? 大丈夫?」
「ふふふ」
姫里は無視して廊下を進んだ。
受付があった。カウンターの向こう側で、化粧の濃い白人のナースが、膝の上に女医さんを乗せている。抱きあってキスをしていた。キスというより、舌と舌の交尾だ。
姫里はひるまなかった。そんなのは許さない。ここは病院のはずだ。
「すみません、お邪魔します。ここに入院している人を捜してます」
女医さんがキスをやめて、姫里を振り返った。
姫里は息を飲んだ。
女医の顔が、母親に似ている。年齢は若いけど、そっくりだ。
「星谷さん? こちらで、入院してるの、あなただけですよ?」
女医さんはトロけた表情でいった。
姫里は後ずさった。ふと視線を感じてふり返る。待合所の椅子に居並ぶ患者が全員、姫里を見ていた。全員が髪の長い、素足をむき出しにした若い女だった。揃って足を組んでいる。
姫里は受付を離れた。恐怖心が、姫里の足を速め、出口へ走らせた。見てはいけないものはいくつかある。肉親が性的快感にかまけて娘をないがしろにする顔は、そのうちのひとつだ。
自動ドアがもどかしく開く。夜の駐車場を駆け抜けて道路に出た。通りをびっしりと埋めつくす店舗がすべて、ネオンを明滅させている。青・赤・緑。なんらかの欲望をかき立てる癖に、よく見ると物悲しいネオンサインの連なり。その灯りが無数の人影をあぶり出していた。通りに人があふれている。むっと息づまるような女性の群れ。ショートパンツ、ミニスカート、タンクトップ、キャミソール、下着にしか見えない、よくわからない衣服。みな肌を露出している。ニコニコ笑って、嬌声をあげている。
「すみません」
姫里は人ごみをかきわけた。
東京?
じゃないよね?
ここどこ?
ヒントが欲しい。地名が欲しい。電柱とか、道路の表示板とか。悪夢ではない証拠がどこかにある。それを捜して、それからヤモリ女を助ける。死んじゃうかもしれない。ひどい怪我だった。
「いやん、危ない」
よそ見しながら歩いていた姫里は、誰かにぶつかった。
とっさに袖で涙をぬぐった。「ごめんなさい」
「大丈夫?」
相手はいった。聞き覚えのある声だ。
「シロエリさん?」
「大丈夫? 顔色悪いよ?」
濃いメイクのシロエリが、姫里の肩をつかんでいた。
これ以上短くできないワンピースが、シロエリの乳首から下、ももの付け根から上を覆っている。靴は真っ黒なハイヒールだ。
「シロエリさん、ヤモリ女は?」
「心配しなくて平気だよ」
「無事なんですね?」
「ちょっと休めるところいく?」
「わたしは平気です。ヤモリ女と合流しましょう。ここ、なんですか?」
「お金ないの?」シロエリは、姫里の耳に口を寄せた。「いいよ。きょうは特別にタダでヤらせてあげる。ホ・ン・バ・ン、いいよ」
姫里はシロエリの顔をまじまじと見つめた。
シロエリじゃない。
人狼の気配がない。人間でもない。
シロエリから離れて先を急いだ。女、女、女。ふざけんな、と思った。これだけの人いきれを醸していながら、ここには人間がいない。モンスターは姫里だけ。
姫里は薄暗い横道に逃げこんだ。そこにも娼婦風の女性が数人立っている。
隣の通りにはパチンコ屋や、ラスベガス風のカジノが見渡す限り並んでいる。さっきの通りと比べると、道ゆく人の数は多くない。やはり全員女性だ。客引きらしいバニーガールが店先にあふれ出て黄色い声を上げている。
さらに隣の通りへ走った。バーや居酒屋が軒を連ねている。
次の通りは、 DVDの販売店や映画館が集まっていた。ポルノ、という文字を光らせるネオンと、裸の女の人が描かれた大きな看板から、要するにいかがわしい通りなのだとわかった。
ストリップ、という看板がいくつもある通りがあり、アダルトグッズのお店ばかりの通りもある。
どの通りにも露出度の高い服を着た女の人がいる。
店から聞こえてくる音楽は女性アイドルグループの歌声だ。
横道をひたすら進み、ようやくレストランや中華料理店の並ぶ通りにきた。お寿司屋、食堂、ピザ屋など、ここでも大げさな看板が林立していた。
ラーメンの屋台があったので、姫里はのれんをめくって席についた。
店主はセクシーなチャイナドレスのお姉さんだが、姫里はもう驚かなかった。この街には綺麗な女性しかいないのだ。本物ではない、お姉さんの形をした、きゃあきゃあ鳴く人形だ。
「一杯五百円よ!」
チャイナドレスの女性がいった。姫里はポケットに手を入れて、財布の有無を確かめることさえしなかった。お腹が空いてるはずなのに、食傷ぎみで食欲がない。
「お姉さん、わたし、ちょっとわかったよ」
「それ良かったね! 三百五十円でもいいよ! 持ってないか!」
「はじめて来たはずなのに、なんか前から知ってる感じなんだ、この街。景色が懐しいとか、見た覚えがある、とかそういうのじゃなく。空気や匂いの話。雰囲気を知ってる。やっと気づいた。魔法だよね、これ。魔法で作られた街」
「さようか! ゆで卵喰うか! 五十円!」
「信じられないけどね、こんな規模の大きい魔法。いや、魔術かな。魔術師がいるはずなの。お姉さん、あなたたちを作った魔術師が」
「眠り男か?」
「眠り男? 眠り男がいるの? どこに?」
「眠り男、いるよ! そこ見て!」
チャイナドレスのラーメン屋さんが指差す方向に目を向けた。
星屑の散る群青色の夜空を背景にして、真っ暗な巨城がそびえ立っていた。
尖った屋根や、塔のシルエットが特徴的なヨーロッパ風の城だ。
姫里は席を立った。
上着のポケットから財布を取り出し、五百円玉を屋台に置いた。
「他に誰かいませんか? 眠り男以外の男の人」
「男? いないよ! 食べてけ!」
「お姉さん、ありがと」
姫里は歩きはじめた。
ここは壁のなかの世界だ。魔術師が壁の中に、魔法で街を作った、ということだ。
お城は近づくにつれ迫力を増した。
店舗はなくなり、道は庭園らしい場所へ続いた。赤煉瓦の道で、適切な間隔を置いてガス灯が設置されている。途中に、大きな池があった。水面に落ちた街灯の光が、さざ波に分断されながら、縦長に引き伸ばされている。
池に架けられている橋を姫里は渡った。
橋の真ん中あたりで、水音とともに池の一部が盛り上がり、姫里は足を止めた。亀の甲羅が浮いたのである。竜宮城へ連れていってくれそうな大きな甲羅だった。軽自動車くらいある、ミドリ亀だ。
道は緩い登りになった。城は丘の上にそびえている。
城の周囲には水を張った堀があり、正門に跳ね橋が下ろされていた。
跳ね橋のロープの黒ずみ方や、石柱のレリーフの精緻さに、魔術で作られたとは思えない実在感がある。姫里は跳ね橋を渡った。城壁に、何百年も風雨にさらされたような侵食の跡が刻まれている。門の両脇に焚かれたかがり火が、風を受けて火の粉を舞い上げた。
熱のゆらめきの向こうに門番らしい二人の女性がいる。姫里は脱力した。
——やっぱり全部作り物だ。
金髪の女戦士の二人組、彼女らの服装がいわゆるビキニアーマーだ。
金属製のきわどい下着をまとっただけの二人は、斧みたいな刃物のついた長い矛を交差させている。
姫里はつきあい切れない気持ちで身体をかがめ、矛の作ったアーチをくぐった。
「失礼します。星谷といいます」
いい捨てて前庭へ歩き出す。門番たちは追いかけてこなかった。
この世界の主を喜ばせるために配置されている、飾りみたいなものだ。
いやらしい格好させられた人形みたいな人たちは、薄気味悪くもあるけれど、痛々しくも見えてくる。むかつきが極に達していた。
人形に同情しても仕方がないけれど、これはあんまりだ。やり口が卑劣というか、キモい。本気で気持ち悪い。吐き気がする。
どこからか、たくさんの女の人がはしゃぐ声が響いてくる。
声のほうへ方向を変えて柱廊を歩いた。
柱廊は屋内に続いている。耳に届く女の人の声は大きくなっていく。やがて、広間のような部屋にたどりついた。
広間の中央には温泉らしい、長方形に彫りこまれた湯船がある。中央に裸婦の彫像があって、肩に乗せた壺からお湯が噴き出していた。濛々と湯気を上げている。温泉に、四人の人魚がつかっていた。上半身は裸で、下半身はCGで再現したみたいにリアルな、虹色の鱗をまとって、尾ビレを優雅に振って白波を立てている。
温泉を取り囲むのは、無数の美女だ。
みな、しどけない格好で一点を見ていた。
女性たち視線の先に眠り男がいる。
眠り男は素っ裸だった。四つん這いになっている。
お尻を高々と突きあげていた。
そのお尻を、浅黒い肌のメイドさんが房つきの鞭で叩いている。
ヤモリ女だった。
上半身はフリルに縁取られた黒ビキニ一枚、下半身は小さなエプロンとニーソックスという格好だ。それでもメイドと判別したのは、額の上にあるメイドさん特有の髪飾りがあったからだ。
褐色の乳房を揺らしながら鞭を振るっているものの、力の入った叩き方ではない。あれでは撫でているのと変わらない。
姫里は、ヤモリ女の偽物に近づいた。
胸にわだかまっていた不快感が、燃え上がる怒りになっていた。
偽物は、本物だったら決してしないであろう、キラキラした微笑みで姫里を見た。
姫里が手を差し出すと、にっこりと首をかしげて鞭を渡してくれる。
眠り男は快感にとろけているのか、姫里に気づいていない。
ヤモリ女の偽物に立ち位置を譲ってもらい、姫里は、全力で鞭を振り下ろした。風を切る音がした。
「はうう」
眠り男が悦楽の声をあげる。
姫里はさらに、同じ箇所に、全体重をかけて革の束を叩きこんだ。
「痛っ! いった……。ちょっと待って。え? なに?」
不満の声を上げて、眠り男が顔を向ける。
「これくらい存分にやっちゃって」姫里は、ヤモリ女の偽物に鞭を返した。
周囲を見渡す。
眠り男の衣服が、すぐそばの椅子の上に四角く畳んであった。青いチェックのネルシャツとジーパンだ。姫里は服を広げて、ポケットを改める。シャツの胸ポケットに、姫里のヘアピンが入っていた。
「ノートルダム」
杖が、姫里の手の中で跳ねた。
広間は騒がしくなっていた。女の人たちが楽しそうな歓声をあげている。眠り男が、鞭を振り回すヤモリ女の偽物から逃げ回っていた。この世界の眠り男は、大変な人気者らしい。
その人気者が急に立ち止まり、広間の電灯が明滅した。
裸だった眠り男が、黒い衣装に身を包んでいる。白いシャツにダークスーツ、真紅のリボンタイ、そしてマント、映画のドラキュラみたいな服だ。
靴音を響かせ、マントの赤い裏地をひるがえして、眠り男が近づいてくる。
「目覚めたんだね」
姫里は杖を向ける。「魔術師は?」
薄ら笑いを浮かべて、眠り男は足を止めた。
「魔術師? どうして?」
「魔術師がいるはず。この世界は魔術で作られた。そうでしょ?」
「この世界を作ったのはぼくだよ」
姫里は首を横に振った。相手にするつもりはなかった。
「眠り男、ヤモリ女は死んだよ」
杖を構える右手の震えを抑えられなかった。
そうだ。もう誤魔化しようがない。
あの女は死んだ。姫里のせいで。
「あなたが遊びに使ってるヤモリ女は、もういないんだよ?」涙があふれて、もう留めようがなかった。「ヤモリ女を、あんな格好させて、あの人を、おもちゃみたいに——」
「姫里、姫里」
泣き崩れた姫里に、眠り男が駆けよってきた。
姫里は素早く立ち上がり、杖の先を突きつけて眠り男の足を止めた。
「この至近距離で、空気の塊を喰らわせてあげる。その細首がねじれるよ、ヤモリ女みたいに」
「ヤモリ女は、首を折って死んだのか」冷えきった声で眠り男はいった。「魔法を放つなら、好きにするといい。ぼくを傷つけるなんて無理なんだ、ここではね。この世界は、ぼくらがいた世界と違う。緑色の扉を通ってきたんだよね?」
姫里はうなずいた。
「話そう、魔法の杖を下げて」
「いや」
姫里は、悪魔に一歩近づいた。
眠り男は尊大に顎を上げて、白い喉を見せた。衣装のせいか、モンスター界の権威らしい風格がある。
声にならない唸りを発して、姫里はもう一歩近づき、さらに足を踏み出そうとした時、身体が宙に浮くのを感じた。両足を締めつけられていた。肉色の、海洋生物を思わせる、四本の太い触手だ。触手は広間の床から直接生えて、粘膜を光らせて螺旋を描き、姫里の四肢に絡みついた。骨をきしませる力で、姫里を広間の中空に持ち上げて、はりつけにしたのである。
もがいてみたものの、触手の粘膜は、衣服を通して皮膚に貼りついたかのようで、びくともしない。
眠り男は、二度、手を叩いた。「みんな、所定の場所に戻って。走らなくていいから。走ると危ないよ」
はーい、と気の抜けた返事をして、眠り男の美しい人形たちが列を作って大広間から出ていく。温泉の人魚たちもお湯の中に潜ってそのまま姿を消した。半裸の女性がおりなす群集の動きを、姫里は俯瞰の視点で見下ろしていた。
——撃たねぇからだよ。
ヤモリ女ならそう責めたろう。
「服装が気にくわない」
大広間からひと気が失せて、お湯の落ちる水音が響いた。眠り男が姫里を見上げ、腰に手をあてた。
「正直にいう。きみほど美しい魔女は初めてだ。きみを裸にもできる。下着姿にも。どんな猥褻な格好にもさせられる。けど、きみにふさわしいのは——」
眠り男が手を上げて、デコピンみたいに指を弾いた。
触手がほどけてゆき、姫里の着ていた服が、下着以外すべて、音を立てて引き裂かれた。と、思った次の瞬間には、 高校のセーラー服が見る見る実体化して、身体を覆っていく。最後の触手から解放されて、姫里は落下した。腰を打つ覚悟をしたが、三本の触手が姫里を支え、ゆっくりと床へ降ろした。
触手は身をくねらせながら床に吸いこまれていった。
頭を振って、顔にかかった髪を払いのける。
激怒が脈打つのを意識していた。冷静になるべきだった。握っていた杖をヘアピンに戻す。
「さっきのなに? どういうこと?」
「なぜ、ぼくが魔法を使っているのか、ということだよね」眠り男は、逆まく波のようにマントをひるがえし、姫里の前をいったりきたり、歩き出した。「悪魔が自身の魔力を自由に行使できるケースはひとつだけ。悪魔が、魔術師の下僕となった場合だ。人間の魔術師の求めに応じて悪魔は力を解放できる。きみ、それを警戒してるよね? つまり、どっかの魔術師と契約したんじゃないかと。けど違う。姫里、悪魔と契約する魔術師なんて、まず現われないよ。それが真剣に研究されていた古代や中世でも、ほとんどいなかった。魔術を学ぶ人口が減っている現代に、悪魔と契約できる達人が現れるわけがない。悪魔の契約相手は、事実上、魔女だけといっていい。もっとも、ぼくは誰とも契約していないけどね」
「あなたは魔法を使った」
「悪魔は魔法を使えない。これは、ぼくらがかつていた世界の常識だ。姫里、姫里、ここは違うんだよ。ここは別世界、異次元、別次元、ぼくらの常識が通用しない世界なんだ。この世界では悪魔は力を使える。やりたい放題できる。証拠はさっき見せた。きみの着ている服だ。あの女の子たちは、ぼくが作った。ぼくの作品だ。神なんだよ、ここでは、ぼくこそが」
「別世界?」陶酔している眠り男を尻目に、姫里は考えを巡らせた。「ここは異次元の世界で、あなたは魔法を使える……」
「ほとんど無尽蔵にね。ぼくね、なんでもできるよ、姫里。ここでは」
「どうして?」
「知らないよ。そんなの重要じゃない。ここで最重要なのは、ぼくが至高の存在だってことだ。それに、きみがいる。きみがきてくれて、本当に嬉しいよ」
眠り男が近づいてきそうな気配を感じて、姫里は大広間を歩き出した。
床は清潔で、まぶしく照明を反射している。姫里の服があちこちに、切れ端になって散らばっていた。スマホと、家の鍵も落ちていた。ジャージのポケットに入れていたものだ。姫里は拾い上げた。スマホのディスプレイは幸い割れていない。ケースのおかげか、運が良かったか。
ほかにも財布が落ちていたし、白い家で見つけた魔法円の紙片もあった。すべて拾ってポケットにつめこんだ。
広間の南はガラス張りである。
風俗店だらけの繁華街の夜景を見渡せた。クリスマスみたいな光の渦だ。にぎやかな景色なのに、寂寥感がわだかまって見えた。
「月夜市でなにが起きたか知ってるの?」
「興味ないかな」
「聞いて。聞けば、興味出てくるかも」
眠り男が緑の扉をくぐると同時に、女の子の形をしたモンスターが出現した、という話を姫里はした。その女の子は吸血鬼を何人も殺して高原台を撤退させた。壊滅といっていいくらいのダメージを与えて。
「わたし思い出した。『悪魔はこの地上に常に七十二。減りもしなければ、増えもしない』」
「なるほど」眠り男は忍び笑いを漏らした。「なるほど。香澄らしいよ。七十二いるべき悪魔のうちの一人、つまりぼくが異次元に送られて消え失せた。地上の悪魔は七十一。埋めあわせのために——」
「小悪魔、だよね」
「へぇ。知ってたの?」
「あまり詳しくないけど」
「だろうね。埋めあわせのために小悪魔が生成された。七十二番目の悪魔の代行として。香澄はその小悪魔と契約した、かもしれない。まぁでも、どうだっていいよ」
「よくないよ!」
眠り男を睨んだ。
天然パーマの悪魔は首を横に振った。「関係ないんだよ、姫里。どうして気にする。ぼくらは新しい世界を手に入れた。理想の世界をいってみて。ぼくが実現してあげる。いってみて、姫里」
「元の世界に帰ろう。眠り男が帰れば、世界の悪魔は七十二に戻る。小悪魔は役目を終えて消失する」
「帰れない。方法がない」
「眠り男、この世界、壊そう」
「嫌だよ。なんで? 説明が足りなかったかな。ここではなんでも手に入る。なんでもいい。永遠に続く若さと、美しさでもいい。必要なもの、欲しかったもの。いろいろあるはずだよ。あり得ないものがここでは手に入る。絶え間ない快楽、永遠の逸楽。無限の楽しみ。どれかひとつでいい、姫里、いってみて」
「ヤモリ女。生き返らせて」
「いいとも。それが必要なら——」
「違う。偽物を作ろうとしたでしょ」姫里は大股で眠り男に近づいた。「違うよ。なんでわたしを殺さなかったの? できたよね? わたし、あなたがいうほど美人じゃない。それでも殺さなかった。わたしが貴重だから。この世界で唯一の本物だから」
眠り男はマントに風をはらませて、姫里に背中を向けた。
姫里は許さなかった。その背中についていった。
「偽物しかない世界だもん。自分でも気づいてるよね? もう耐えられないって。自分で作った自分の世界に飽きはじめてる。そうだよね?」
眠り男は早足になった。「ぼくのだ。全部」
「それが重要? 嘘だよ、そんなの。偽物は偽物。モンスターならわかるはずだよ。モンスターは自分の存在の頼りなさに耐えられない。偽物に囲まれてたら、自分も偽物になっちゃう」
「元いた世界になにがある?」眠り男は立ち止まった。「きみのいう本物ってなに? 例えばぼくに向けられる嫌悪、あれは確かに本物だよ。例えばぼくへの軽蔑。不快な言動、思い通りにならないこと。本物なんて無価値だ、すべて」
「偽物よりマシだって! 眠り男——」
「どうかな。きみはどうなの? なにがある? いいだろう」眠り男は近くの柱によりかかる。「元の世界に戻るとしよう。小悪魔が消えて香澄が失脚する。それでどうなる。伯爵が復活するだけだ。きみの祖母を利用し、苦しめたあの伯爵だよ。かれを助けるの?」
「それでもここよりマシだよ。ここにいたんじゃ、なにも出来ない」
「戻ったってなにも出来ないよ。なにがしたい?」
「なにもしてこなかった、なにひとつ。ずっと家にいた。じっとしてた。なんか妄想にふけってた気がする。モンスターも人間たちも信用できなかった。わたしは凄い馬鹿だった。とにかく家だけが安全だと思ってた。家ならうまくいくって。ちょうどこの世界みたいに」
「要点をいって。自分語りとかは遠慮してくれる?」
「ヤモリ女との約束を守りたい。彼女と約束した、悪魔捜しに協力するって。それまでは、決して互いを裏切らないって。彼女は約束を守ったよ。わかる? ヤモリ女は、ついに最期までわたしに嘘をいわなかった。モンスターたちはみんな、信頼なんて架空の概念みたいに思ってる。わたしだって信じてなかった。でもヤモリ女は違った——」
「ヤモリ女は死んだ、そうだろ?」
眠り男は頼りない足取りで、柱から離れ、温泉のほとりにある石段に腰掛けた。眠り男の手足は、細くて長い。
マントに包まれた背中も、か細く見えた。
姫里は、不服そうな眠り男のそばに立った。
「あなた、わたしと同じなんだよ。裏切られる覚悟がない。だから誰も信用してこなかった。眠り男、ここを壊そう。こんなの絶対に続かない。あなたもわたしも、いつか必ずこの場所に裏切られる」
「きみの話は眠くなる。きみの自己満足につきあう代償を聞きたい。ぼくのメリットはなに?」
姫里は決意を固めた。ある意味でこの瞬間を待っていた。
「わたしがあげられる物なんてない。わたし自身しか」
眠り男は目を閉じた。「意味は?」
「元の世界に戻ったら契約してあげる。わたしが欲しいならだけど」
「約束できる?」
「約束する。すぐには無理だけど、必ず」
眠り男がまぶたを開く。眠り男は笑っていた。
稲妻みたいな頭痛が走り抜けた。姫里は歯を噛みしめる。激しい痛みだった。激痛はたちまち引いていく。
「魔女って可愛いよ、どうしていうこと聞いちゃうんだろ。よっしゃ、じゃあ戻ろうか。おっと、この格好はまずいな」
黒いマントの衣ずれの音が、弦楽器みたいに響いた。マントは姫里の視界を覆った。赤い裏地が、風にあおられてうねり、夜空に舞い上がる。マントの行方を目で追うと、大広間の屋根がいつの間になくなっているのに気づいた。
眠り男は青いネルシャツと、デニムのズボンという軽装に戻っている。
「知らないみたいだから教えておくよ。約束も、契約の一種だから。拘束力がある。ぼくは契約したくなったら、きみに履行を迫ることができる。きみは逆らえない。悪魔と交わした約束だからね」
「ここから、出るんでしょ?」
「出るよ。そういう約束だからね」
眠り男が指を鳴らすと、世界の半分が壊れた。そんなふうに見えた。大地と、そして空がひび割れて徐々に崩れていった。無音の崩壊だった。
「伯爵も香澄も、もういらない。姫里、ぼくときみで、ぼくらの世界を作ろう。ぼくらの町でも、ぼくらの国でもない。ぼくらの世界」
無数の悲鳴を聞いた気がした。悲鳴は重なりあって、地鳴りのように聞こえた。女性の悲鳴だ。あまりにもたくさんの。
「あなたの——女の人たちが——」
「エデンを追放されたイブが」と、眠り男は、場違いなことをいい出した。「ある夜、夢を見た。知ってる? 彼女は息子たちの夢を見た」
星空が砕けて散り、破片がきらめきながら、ゆっくり落ちていく。剥がれた夜空の奥には夜明けの空があった。
「息子のカインが、兄弟のアベルの血を飲む夢だよ。吸血鬼どもはカインこそが自分たちの祖だって誇る。取るに足らないよ、連中は。出自の古さを自慢してるんだ。そんなこといい出したら、イブに知恵の実を与えたのは誰なんだってことになるだろ?」
「眠り男! 地面が!」
「覚えておくといい。魔女が本当に信用していい相手は、悪魔だよ。悪魔だけがきみたちの真の味方だ。これまでも、これからも。きみたちこそ、イブなんだ。怪物として生きる以上、最上位の怪物をめざすべきだ。ぼくと交じわれば、ぼくらは最上位になる。それはモンスターにとって、まことに正しいことなんだよ」
空に大きな、回転する雲がある。まるで台風だ。台風の目らしい、小さな穴もある。灰色の靄を何本も細くたなびかせて吸いこんでいる。ねじったドーナツに練りこんだクリームみたいだ。見つめていると、巨大な回転が迫ってくるような錯覚があった。
姫里がへたりこんだのは、ボウリング場の床だった。反響していた悲鳴が消えている。屋根が半分吹き飛んでいて、かつて魔法がかけられていた壁は、コンクリートが崩れて鉄筋がのぞいていた。暗くてわからないが、近くにヤモリ女の血痕もあるだろう。
姫里はお尻のほこりを叩きながら立ち上がった。自分がまだ高校の制服を着ていることに違和感を覚えたものの、それを表情に出したりはしなかった。握りしめていたヘアピンで前髪を留める。もう一度、薄明の空を圧した雲の回転に目をやった。
背後の眠り男を振り返る。
「いこう」
眠り男は口を開いて空を見上げていた。「どこへ?」
「高原台。遠いけど歩こう。ツインテールは消えたはず」
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