4-4
帰りの車中は重苦しい雰囲気に満たされた。
運転はヤモリ女、助手席にシロエリ、
「和光市駅で下ろしてください」
やがてシロエリがいった。ヤモリ女は完全に無視した。
「ヤモリ女さん、車はお貸しします。適当な所に止めてキーは郵送してくれればいいです。聞いてます?」
「うるせぇぞ」
「和光市駅で降ります。っていうか東武東上線沿いの駅ならどこでもいい」
「その駅になにがある」
「いいたくありません」
「ボーンズってのはフェンリルから苦労して抜けたんだろ」ヤモリ女は煙草をくわえて火をつけた。「真田ってガキのところへ戻るのか」
「わたしはアザミちゃんについていくだけです。ヤモリ女さんは埼玉に帰りたくないんですね?」
「あざみ野寧々は
「高原台が頼りにならないんじゃ、仕方ないですよ」シロエリはイラついている。「伯爵のチームが負けたんです。もうわたしたちを守れない、ですよね? 前とは事情が変わったんです。偉そうにしないでもらえます?」
「香澄につくのかよ」
「話したくない」
「答えられないなら、おまえは敵だ」パワーウィンドウで窓を下げて、ヤモリ女は煙草を外に吐き出した。「敵とは同じ車には乗れねぇよ、シロエリ。行き先が違うんだから」
「わたしらの車だよね、これ」シロエリは声を高めた。
「誰の車だってかまうかよ」
「おい、こら。やんのかよ」
ヤモリ女は短く笑う。「なんだそれ? 凄んでんのか?」
「やんのかよ、糞ヤモリ」
「あの——」姫里はたまらなかった。「あの、やめましょう」
「姫里ちゃん」シロエリは、ヤモリ女を睨んだままだ。「きのうの話の結論がこれだよ。こういうことになって、姫里ちゃんは真っ先に家族のこと考えたよね。わたしも同じ。この人も」
「わたしたちのすべきことは」姫里はいい返した。「車を止めて、朝食を食べながら、お互いが電話で聞いたそれぞれの情報を——」
「つきあわせる? 検証する? 共有する?」シロエリの口調は刺々しかった。「悪いけど、姫里ちゃんもこの人も信用しない。できない。この人だって、わたしを信用しないし。意味ないよ」
「お互いの話に嘘や隠し事があれば、そこから推理できることもあると思うんです」
「推理なんて必要ない。そっちはわたしらのこと知りたいだろうけど。わたしはもう、知りたいことを知ってる。この女は伯爵を裏切らない。姫里ちゃんはお母さんに従う。そうだよね」
「本当ですか?」
「なにが?」
「シロエリさんは、わたしから情報を引き出すべきです。香澄って魔女につくにせよ、つかないにせよ」
「なんなの?」
用心深くヤモリ女を注視していたシロエリが、ようやく姫里を見た。
「わたし、母親には従いません。それにヤモリ女が従うのは、このわたしです」
「おい、姫里」ヤモリ女が低い声を出した。「やめとけ」
姫里は無視した。シロエリはいい人だ。黙っているなんてできなかった。
もっとも今のシロエリは、狼の気配を全開にしている。
「ハッタリならやめてもらえる? いつまでも優しくないよ」
「香澄っていう魔女は、手紙にあった小悪魔を、多分召喚したんです。途轍もない力を発揮したって聞いてます。その力の源は——」
「眠り男」シロエリはヤモリ女に視線を戻した。
バックミラーに映るヤモリ女の両眼は、どんよりと曇っている。
「そうです。眠り男は廃ボウリング場で姿を消した。その廃ボウリング場の壁に魔法がかけられていた。白い家で見つけたこの紙切れ。この魔法円を使えば、必ず眠り男にたどりつける。眠り男を捕まえれば、遠野香澄は力の源を失うことになる。それどころか、わたしは魔女で眠り男は悪魔です」
「なにそれ。契約するってこと?」
「いいえ。しません。でも交渉材料にはなるはず。眠り男はどうやらまだ誰とも契約してない、それが遠野香澄の隙なんです。眠り男を捕まえれば、状況はまた変化します」
「シロエリ」ヤモリ女がいった。
まだカーブの多い山道だ。
「ここまで聞いたからには勝手は許さねぇ。携帯出しな。しばらく、わたしらに付きあってもらう」
「ふざけんな、糞ヤモリ。力づくで取れよ」
「いいからよこせ」
「手ぇ出せ。腕ごと喰いちぎってやる」
ハンドルを操作しながら、ヤモリ女はため息をついた。「わかったよ。わかった。寧々が香澄につくとしよう。見逃してやる」
「見逃して、それで?」
「できる限り味方してやる。それでいいだろ?」
「で?」
「尽力してやんよ。高原台につくならわたしが保証人になってやるし、香澄のところへいっても、かばってやる。約束する」
「わたしたちが出す店に、いくらか出資するっていうのはどうですか?」
「こんな状況でか」
「こんな状況だからです」
「そこは寧々の才覚にやらせとけ。変な金つかむとスッ転ぶぞ」
シロエリは顎に拳をあてて、しばらく考えていた。その拳を、やおら自分の太ももに振り下ろして、微笑んだ。
「わかりました。いろいろ失礼しました」
金髪を大きく揺らして頭を下げる。
人狼の殺気も失せて、車内の空気も軽くなったようだった。
「で、寧々はどうするって?」
「アザミちゃん、まだ決めかねてます。月夜市から離れて拠点を移すかも」
「移すったって、高校生いるだろ? 解散ってことか?」
「寛治さんと話をつけてから、解散ってことでしょうね」
シロエリは下を向いたものの、すぐに顔を上げる。
「というわけだから、姫里ちゃん。もうしばらくは仲間。よろしくね。これ」振り返ったシロエリからスマホを渡された。「姫里ちゃんが預って」
「はぁ……えーと」
シロエリの豹変が意外で、姫里は目をしばたかせるばかりだった。
金髪美人の狼女は、はにかむように笑う。
「ごめんね、大騒ぎしちゃって」
「姫里」ヤモリ女は小言口調でいった。「シロエリを見習えよ、ガチで。ペラペラ喋りやがって。せめてさっきのシロエリくらいカマしてから妥協すんだよ、こういう時は」
「いや、ごめん。ちょっとまだ難しいかも」
「でも姫里ちゃんの読みは、いいとこ突いてます」シロエリがいう。「ヤモリ女さんだって本当は——」
「飯どうする?」ヤモリ女は急に声を張り上げた。「いっちゃうか、肉。朝から」
「いいですね、さっきの牛」
「うまそうだったよな。姫里、奢ってやるよ」
「なに? どうしたの? 死を覚悟してる、とか?」
「おまえ、日本アルプスから突き落とすぞ、ガチで」
緊急事態にもかかわらず、にわかに機嫌が良くなったヤモリ女が不思議だった。
肉を奢るなんてただごとではない。
月夜市に戻ってきたのは十五時すぎだ。
問題の廃ボウリング場に近づき、遠くから様子をうかがう。
「ひと気がねぇな。警察のトラテープが見当たらねぇ」
「どういうこと?」
姫里は助手席に移動している。
月夜市に帰ってきた以上、シロエリの顔を晒すのは良くない。ヤモリ女と一緒のところを遠野香澄の関係者が見たら、話がこじれるだろう。
「昨晩、銃撃戦をやったらしいんだよ。なのに、警察の捜査の痕跡がない」
「良かったじゃん」
「まぁな。わたしがいいたいのは、連中が、警察の動きに対処できるってことだ。どうやって警察を押さえたのかはわからん。息のかかったやつがいるのかもしれないし、もっと単純に、ツインテールの女モンスターが、魔法かなんかで銃声をかき消してたのかもしれない。跳弾や弾痕や、火薬の成分をパパっと魔法で消したりさ。なんにせよ、警察と交渉したり、動きを抑制したりできる組織には、モンスター社会で覇を唱える資格が充分にある」
「香澄っていう魔女が、伯爵にとって代わるの?」
「もう、とって代わったんだよ。おまえ、大丈夫か? わたしは、なんか土産を持って帰らねぇと伯爵の前に顔を出せねぇ。おまえは? 本気でやる気あるんだよな?」
「わたしは転校したくない。やっと友達になってくれそうな人が出来たし」
「重症だな、おまえ」
「それに、わたしの育った街だし」
おばあちゃんが生涯をかけて守った街、でもある。多大な犠牲を払って。
それに、この局面は自分なのだ、という意識もあった。事件に魔法が絡んでいて、今この街に魔女は姫里しかいない。だとしたら、わたしだ。わたしがやるべきだ。
なにも悪いことをしていない姫里や、姫里の母親が、街を追われるなんて納得できなかった。
「姫里、いっとくぞ」ヤモリ女はハンドルにしがみついている。「香澄は心底から星谷家の魔女を憎んでる。見つかったら死ぬと思え。運良く先手を取れたら殺せよ、一撃で」
「なんとか見つからないように出来ない?」
「覚悟決めるそぶりくらいしろ。シロエリ、なんかいいたいことあるか?」
「あつかい軽くないですか?」後部座席のシロエリがいう。「怪しい匂いはありません。信用してください」
「誰もいねぇな。いくか?」
ヤモリ女の横顔が、抜け目なくあたりを伺っている。
車はゆっくり進行した。
人影がない。蝉の声が、遠くから聞こえる。産業道路を通過する車の音も遠くなる。雑草が、駐車場のアスファルトをボロボロにしている。ホンダのミニバンはそこへ進入した。
姫里はヤモリ女に続いて、車を降りた。シロエリも続く。
「姫里、物音を聞いたり、誰かを見たら、わたしと手をつなげ」
「……なんで?」
「いったろ。わたしは自分に触ってものを透明にできる。人間程度の大きさが限界だけどな」
今更ながら、どういう仕組みなんだろうと姫里は思う。
ヤモリ女はきっと古いモンスターなのだ。モンスターは、その起源が古ければ古いほど、常識外れな能力を持っている。
「シロエリ、妙の匂いに気づいたらとっとと逃げろ」
「任せてください。いわれなくてもそうします」
姫里もシロエリに話しかけた。
「スマホ、返しておきますね」
「ありがと。姫里ちゃん」シロエリはスマホをポケットにしまいながらいった。「眠り男ね、わたしたちといるとき、姫里ちゃんに興味津々って感じだったよ。充分注意して」
「了解です。わたし、必ず眠り男を見つけ出してみせます」
姫里はヤモリ女を振り返った。「ね、ヤモリ女──」
ヤモリ女は、地面に積もった灰をつま先でかき乱している。
よく見ると、灰は地面のいたるところにある。
「これって……」
母親から電話で聞いていた。吸血鬼がたくさん死んだのだ。吸血鬼の死体は日光を浴びるとたちまち灰になる。
「なんでもねぇよ。それよりなんだ?」
ヤモリ女が近づいてきた。
のどかな風が、遠慮なく灰を舞い上げていく。
姫里は動揺した。頭の整理ができなかった。
「姫里!」
ヤモリ女の表情が厳しくて、頬を叩かれるかと思った。
「いいかけたこといえ」
「結界が張ってある」姫里は我に返った。「モンスターの姿を隠して、音も漏らさない、みたいな結界。これ、技術高い。敷地全体にかかってる。それと——」
「香澄は有能だぞ。それに恐れ入るほど腹黒い」
「それと建物に別の結界かけてる。これ」
姫里は入口付近の壁を指差した。赤い塗料——動物の血だ——で丸が描かれている。シロエリが壁に近づいて、鼻を寄せた。
「犬の血みたい」
姫里はうなずいた。
「モンスターを感知する仕掛けになってる。モンスターが入れば、香澄って魔女が感知する、そういう結界。これは難しくない。簡易な仕掛けだから解くこともできるけど、解いたらやっぱり魔女に感知される」
「解かなくていいよ。『五分あれば充分』なんだろ?」
姫里は車の中で、確かにそう豪語した。
「心配すんな。背中はわたしに任せて集中しろ」
姫里は廃ボウリング場に足を踏み入れた。魔法のかかっている壁まで走った。魔術を発動させるのに、おそらく一分かからなかった。
姫里は魔法円の図案を頭に刻みこんでいる。
これはチートに近いアドバンテージだ。図を頭のなかでイメージするだけで、壁の魔法が反応する。
壁の一部に縦長の長方形が現れた。長方形の内側は緑色の光が微妙にゆらめいている。
姫里は光に触れる。指先が吸いこまれる感覚があった。
「まだか?」
ヤモリ女の声が聞こえた。
「できたよ。解けた」
「香澄がきちまったよ」
「うそ」
姫里は振り返った。予想より早い。
ボウリング場の入口に、影が差した。車のドアを閉める音がした。
「もう十五分は過ぎたぞ」ヤモリ女はそういって、姫里の左手を握った。
「うそ、だよね?」
「やっぱり気づいてなかったか。姫里、もう声出すな」
唐突に、自分の体が消えた。いや、自分の体に色がついている。光学迷彩を施されていた。ヤモリ女を振り返る。ヤモリ女は消えていない。ヤモリ女の右手が握っている透明なものは、姫里の左手だ。
自分の右腕がもう、肩まで壁のなかに飲みこまれていることに、姫里は気づいた。夢を見ているみたいだ。壁の魔法が引力を持っていて、姫里をゆっくりと引きずりこんでいた。
時間の感覚を失っている。
とにかく落ち着かないと駄目だ。
右足に力を入れて、腕を引き抜こうとして気づいた。すでに右足も壁にめりこんでいる。力が入らない。足場がない。緑に光る沼に落ちようとしている。
「おやおや」
こっちへ向かって歩いてくる、背の高い老女がいった。
「あなたが開けたの? 魔法を勉強したの? 学校もロクに出てないのに、大変だったでしょう?」
「婆ぁんなったなぁ、香澄」ヤモリ女の口調はしみじみとしている。
「あんたはなにも変わらないわね。乞食だったころのまんま。その汚らしい服装、どうにかならないかしら」
遠野香澄は、姫里のほうに目もくれない。
見えていないのだ。
「わたしね、本当にもうなんていうの、そういうのが耐えられない。下層の人たちの小汚いのって許せない」
香澄は被害者の顔で、ため息をついた。
「底辺の人たちっていうか。努力や敬意が見られるなら、まだ理解してやらなくては、という気がするのよ? あなたみたいな、『ござい』って感じ? 下層でござい、不潔でござい、下品でござい。薄汚い自分を見せつけるような態度? そういうのに耐えられない。悲しくなるのよ、あなたたち下層は」
「お前だって貧乏人の娘だろ」
「でも乞食だったことはない。それに、ヤモリ女。わたしはやるべきことを、怠ったことはありませんよ? 人としてまずやるべきことは、他人にほんの少しの不快感も与えないこと。できるだけ身綺麗にすること。あなた、わたしより長生きしてる癖に、だらしない格好してますね。それが駄目。無責任、人に対して失礼。まぁ、日本人でないから仕方ない部分もあるのかしら?」
挑発する口調じゃない、本心から嘆いている。
なるほど、小綺麗な老婆だった。
全体的に白い印象だ。ベリーショートの髪は、まじり気のない白髪だし、皮膚も蠟のように白い。目が大きく、油を引いたような光の反射がある。鼻筋はギリシア彫刻のようだ。口唇は薄い。水色のワンピースの上に白のケープを羽織っていた。
「別に変な格好じゃねぇだろ」ちゃかす口調ではないものの、ヤモリ女が内心笑っていることが姫里には伝わった。「作業着なんだよ、わたしの」
「ゴミクズを着ているようなものです」香澄は威厳をもって、首を横に振る。
「悪いな、香澄。あんまり興味ないわ」
「あなたは、わたしより長生きするつもりでしょうね」魔女は声を低める。はじめて年齢相応の声になった。「でも実際は、ここで、あなたの命を絶つこともできますよ」
老女の隣に、ツインテールの女の子がうつむいているのだ。
清潔そうな白いブラウスに、袖のない黒いワンピースを重ねている。制服姿の女子中学生みたいだ。女教師に叱られて気落ちする女子中学生。
香澄とツインテールの後ろ、少し離れた場所に人造人間の二人組がいた。
人造人間たちは、壁の、緑色の光が不審なのか、互いに顔を見合わせた。
「どうやって、扉を開けたの?」
とがった顎をあげて、香澄が訊いた。
「姫里」あるかなきかの声で、ヤモリ女がいう。「手ぇ放すぞ」
「ヤモリ女、ごめん……」
「手を放すぞ」
つないだ手と手が離れると、姫里は壁のなかに一瞬で吸いこまれた。
緑に光るコンクリートの内側だ。姫里は息を止めた。緑色に透けて外が見える。
ツインテールの少女がいきなりしゃがんだ。と思うや、高々と跳躍し、スカートのめくれるのも頓着せず、ヤモリ女の前に片膝ついて着地する。
ツインテールの少女は、手をかざしながら立ち上がった。
ヤモリ女はいない。すでに消えている。
緑色を通して、ツインテールの少女の顔が見える。
美しい少女だった。端正な目鼻に甘い憂いがある。薄明を集めたような肌。赤ちゃんみたいな頬と瞳。濃艶なまつ毛。観音のような無表情。
あまりに美しいので、白痴的にも見える。口の端で光っているのは、よだれらしい。
ツインテールは、あが、とうめいて辺りを見回した。
姫里のほうを見て不思議そうに首をひねった。
すべてはスローモーションで推移していた。呼吸ができるのかどうかさえ、もう少し待たないとわからない。時間がじれったいほど遅く進んでいる。
人造人間のふたり組は、こちらを見ていた。姫里と目があった。
ツインテールがひねった首を戻そうとしている時、虚空から黒い拳があらわれて、ゆっくりと、強力にツインテールの顎を目指した。
ヤモリ女だ。
時間は急激に速度を増した。
濡れタオルを叩くような音がして、ヤモリ女が吹き飛んだ。
──え?
ヤモリ女は、古びたボウリング場の床を滑っていった。
そのまま動かなくなった。
首があらぬ角度にねじれていた。服は裂け、乳房と腹の肉を飛散させている。滑った跡に、刷毛でひと撫でしたような血の線が引かれている。
斜めに散った血の斑点が視界を赤く染めていた。壁一面に血がしぶいたのだ。
動物の唸りが聞こえたのはその時だ。真っ白な獣が、血のりがついた緑色の視界を駆け抜ける。
それを見届けて姫里は壁の中に墜落した。落下にともなって、矩形の緑色の光が遠ざかってゆく。
壁のなかは、真っ暗だ。落ちているのではなく、風を背中に受けて舞い上がっているように感じた。姫里は木の葉のように闇の底に向かっている。
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