7話

 ザーザーザーザーザーザーザーザー

 耳鳴りがうるさい。

 耳の中で、雨の日の道路のような音が絶え間なく響いていた。

 ここは、誰も使っていない予備室で、誰の声も今は届かない。

 もうチャイムがなってから、どれだけ経つんだろうと、打ち付けた頭を気にしながら思い、次に私はどうやったら逃げ出せるんだろうと目線を彷徨わせる。

 口の中が痛い。鉄の味がする。さっき思いっきり口の中を噛んでしまったのだ。頭も痛い。フローリングに強く打ちつけたみたい。コブとかできてるのかな。

 私は仰向けに寝転がったまま、天井と私の間にいる、覆い被さっている葵を見ていた。

 どうしてこうなったんだろうと、自分の記憶を探る。


「俺、君のことが好きなんだ!」


 それは青天の霹靂。

 最初、私は何を言われているのかわからないくらいに、突然の出来事だった。

 全ては、その告白からはじまったのだ。

 彼とは、別に同じクラスになったことはない。せいぜい合同授業で時々顔を見る程度だったし、共通の友達もいない。何で私のことに興味を持ったのかなんて、今思っても全くの謎だった。

 私自身、特に彼氏が欲しいとかは思ったことがない。せいぜい友達の恋の悩みや彼氏ののろけ、愚痴を聞いて「そんなドラマみたいなこと本当にあるんだなあ」と客観的に思った位である。

 ただ、合同授業で使っている多目的教室から教室に帰る際に、たまたま一緒になったときに、いきなり呼び止められたのだ。


「あっそ」


 今思っても、他に言葉がないのか私。

 私は葵を一瞥して、「話ってそれだけ? なら行くわ」と言ってそのまま帰ろうとしたけれど。


「えー、待ってよ、涼暮さんー」


 彼はどこまでもどこまでも付いてきた。

 廊下を通り過ぎ、渡り廊下を歩いて、ようやくそろそろ教室に辿り着く。既に彼の教室は通り過ぎてしまったのに、それでも私の背中を追い掛けてくる。

 大型犬か。

 染めた金髪に近い茶髪の大男が、中肉中背の特徴のない女の背中を付いて回る光景。私は別に彼のことがちっとも好きではなかったけれど、だんだん可哀想になってしまい、とうとう立ち止まって振り返ってしまった。


「つうか、君の顔だったら、他にも女はいるでしょ。他を当たれば?」


 実際、葵はそこそこ見栄えのする顔をしていたと思う。

 金髪も日本人ならほとんど似合わないのに、何故か彼にはしっくりと似合っていたし、背が高い。モデルみたいと言うには、葵の容姿はやや大味過ぎるとは思うけれど、バンドマンと言ったらそれだけで女子はキャーキャー言うんじゃないかとは思う。

 なんてことを思いながら言ってみたけれど、葵はぷるぷると首を振るばかりだ。その様がだんだんゴールデンレトリバーに見えてきたんだから、私もつくづく人がいいと思う。


「嫌だよ。君がいいんだもの」

「あのねえ……私そういうの全く興味ないんですけど?」

「じゃあ付き合ってみればいいよ!」

「何言ってるのよ。そんなお手軽に恋愛なんてできる訳ないでしょ」

「すればいいじゃない」


 今思っても、告白の時点で兆候はあった。

 何で聞き逃したんだ私は。

 私はあのとき、どうして断りきれなかったのか、押し切られてしまったのかを、身を持って激しく後悔することとなった。

 付き合いはじめて、最初のひと月くらいはそこそこ楽しかった。

 自分のことを「早苗早苗」と付いて回る男。


「何、早苗。彼氏できたの?」

「うん」

「いいなあ、イケメンじゃん」


 友達に羨ましがられる優越感。

 実際葵はイケメンって呼べる類なんだと思う。

 何をするにしても、葵は私を第一優先にしてくれた。大事にしてくれているんだろう。最初はそう思っていた。

 葵の性質に、私はそのとき全く気付かなかったのだ。

 でも、メッキなんていうものは、いずれは剥がれる。


 ある日、ふたりでデートで化粧品屋に行ったときだった。

 私はパステルブルーのマニキュアに心を奪われた。


「見て、可愛い色!」


 でも葵は変な顔をする。葵は「えー……」と言いながら、選んだのはパールピンクのマニキュアだった。いわゆる女の子らしい色。

 葵はそれをぽんと私の手に載せる。


「早苗はさ、似合わないっていうけれど、こっちの色のほうが似合うと思うよ? 付けてみたら?」

「え……うん」


 友達に話してみたら「男は女に「女らしさ」って記号を求めるから、あんまり気にしなくってもいいよ」と言われてしまった。

 実際に葵が私の私服で褒めるのも、スカートやフリルのついたシャツ、花柄のオプションという、いかにもわかりやすい「女の子」ってものだったし、私にプレゼントをくれるのも、レースのついたハンカチだったり、ピンクや赤といったわかりやすい女の子カラーのものばかりだった。男の子はそんなものなら、まあしょうがないよねと、私も思っていた。

 私はレースのついてないシンプルなもののほうが好きだし、好きな色も青や緑といった寒冷色だったのに。

 気付いたら、私は普段着ているものもジーンズに柄の入ったTシャツが好きだったのに、レーシーな服やワンピースが増えていった。

 葵は私のガーリッシュな格好を心底喜んでくれたけれど、冷静に考えればおかしいんだ。

 癖毛は短く切るか、ひとつにまとめてしまわないと太く見えるのに、葵は「早苗はこのままのほうがいいよ」と、私が髪を切ることすら拒んで、伸ばしっぱなしの癖毛がうねるのと毎日格闘するようになった。

 膨張したみっともない髪が、膨張色の服を着たら余計にみっともなくなってしまう。ある日鏡を見て気付いてしまったのだ。

 ……私、本当にこんな趣味あったっけ?

 鏡に映っているのは、伸ばしっぱなしのうねった髪を背中まで垂らした、着ているというよりも着られているといったほうが近い、似合わないレースのワンピースを着た、みじめな私の姿だった。

 そこでようやく気付いてしまったのだ。

 私は、葵に束縛されていると。

 それに気付いてからは、葵の言動がおかしいということを、ようやく自覚した。

 今までどうして気付かなかったのかといったら、葵の言動があまりにも屈託がなく、耳に心地よくって、束縛されている自覚がなかったからだ。

 蜘蛛の糸に絡め取られるように、見事に私はあいつの罠にはまってしまっていたんだ。

 友達と電話しているとき、葵から電話がかかってきても後回しにしたら、いくら謝っても三日は口を聞いてくれなかった。メールにすぐ返信をしないと、怒って「何ですぐくれないの」と女々しい返信をよこしてくる。酷いときは同じ内容のメールが三件は入っている。

 妬いてるのかしら。最初はその程度だった。

 けど。

 ある日突然、昼休みにズカズカ私のクラスの教室に入ってきたかと思うと、私を引きずって連れ出してしまった。

 そのとき、はじめて恐怖を感じた。

 助けてほしくって周りを見たけれど、誰も助けてくれなかった。

 今思うとあれだろう。誰も、人の痴話喧嘩になんて巻き込まれたくない。それに勘違いされたんだろう。

 やがて、辿り着いたのは空き教室だった。普段は合同授業のときにだけ使われる誰もいない教室。

 次の授業があるから開け放たれていたんだろう。そこに葵は、思いっきり私を叩きつけた。

 体がミシリ、と音を立てる。痛い。そんな生やさしいものじゃないけれど。おまけに衝撃で口を噛んでしまったらしく、口が痛い。


「ねえ早苗。さっきしゃべってた男誰?」

「……どこで見てたのよ」


 私は口の中の鉄の味と、こみあげてくる苦酸っぱい味をこらえながら、それでもなお葵を睨んでいた。

 葵は、私の髪を引っ掴む。根元から千切れるんじゃないか、皮膚ごと破れてしまうんじゃないかと思うくらいに、力を込めて。

 私は思わず「いった……」と漏らすけれど、葵は手を離してはくれない。


「君のことが好きだよ。だからずっと見てた」


 いや、おかしいでしょ。

 葵は隣の隣のクラスだ。しかも今日は合同授業もないのに、どうやってずっと見ていられるのよ……。私はずっと睨んでいて眉間が痛くなってきたくらいなのに、はじめて釣り上がった目尻が下がったような気がした。


「……ただの一緒に日直していた子だよ。別に普通にどっちが黒板消してどっちが日誌を書くか訊いてただけだよ」

「何でそんな不必要なことするの?」

「不必要って……クラスの子としゃべるのの何が不必要なのよ」

「だっておかしいよ。俺は君のことが好きだよ。なのに何で君は俺のことだけ考えてくれないの?」


 そっちの方こそ、何意味のわからないことを言っているのよ。

 こいつは頭がおかしい訳?

 私は睨み返す。さっき無理矢理床に叩きつけられたから、体中が痛いけれど。


「別にあんたと付き合ってるけど、それだと何か。私は学校に行っちゃ駄目なのか」

「駄目だよ」

「はあ? 意味わかんない」

「駄目だよ。君を誰の目にも触れさせたくないよ。君の事を皆狙っているんだから」

「そんな訳ないでしょ。重い。いい加減にして……」

「駄目だよ」


 起き上がろうにも、葵に伸し掛かられているせいで、重たくて体が起き上がれない。私はせめてもの抵抗と太ももを使って葵を蹴ろうとするが、先に葵が私の太ももに爪を立てはじめた。

 葵の爪は硬くて、そのまま太ももからピリッとした痛みが走ってきた。


「痛いっ……やめて」

「駄目だよ」


 私はその声にビクリと体を震わせる。

 その声からは、感情が消えていた。ただ、私を支配しようとするような、ぞっとするような暗く冷たいものが肌にまとわりつくような、這っていくような、気味の悪い感覚だけが私を襲う。

 歯が、寒くもないのにカチカチ、カチカチと鳴りはじめた。


 気持チ悪イ。


 生理的嫌悪という言葉を、はじめて私は実感した瞬間だった。


「そうだ。君が外に出れないようにすればよかったんだ。どうしてもっと早く気付かなかったんだろう。だって君はとても綺麗だから、皆が君の事を狙っている。でも、君が本当に一番綺麗だと知っているのは俺だけなんだよ。

 だから俺だけしか見られないようにすればいいんだよ」


 太ももに立てられた爪が、ギリリッと私の太ももを引っかく。ピリピリとした痛みが強くなり、やがて、トロリとした生温かいものが太ももから伝っていくのがわかった。……私の血だ。

 血の流れる感覚を覚えた瞬間、私の喉から悲鳴が漏れ出た。


「いったいっ……!」

「大丈夫、痛くないよ。ただ刻んでいるだけだから。君が誰のものだっていうのかをさ」

「何言ってるの……私は……」


 ものなんかじゃない。

 そう声に出して言おうとした時だった。

 急に息ができなくなった。

 ……何?

 私は金魚のようにパクパクと口を開閉させるが、上手く息ができない。まるで喉に蓋がされてしまったみたいに、息ができない。喉に空気が詰まって全身に回らないのだ。

 苦しい。


「あ……あ……」

「早苗?」


 私がダラダラとよだれを出しはじめたことで、ようやく葵は私がおかしいと気付いたらしい。

 葵は怖い物を見る目で、私からようやく降りてくれた。

 私は体全体をバネのように上下させて、そうやって何とか息をした。

 それでも、全然酸素が足りない……。普段どうやって呼吸をしていたっけ? 思い出そうとしても、何気なくしている呼吸なんてどうしたら再現できるのか、思い浮かばなかった。


「な……な……」


 葵は脅えたような顔をした。

 後ずさりする。

 体は苦しんでいるくせして、私の頭だけは冷静だった。

 何よ。散々私のこと、「好きだ」と言っておいて、人が苦しんでいる時には逃げるのか。

 大嫌いよ。あんたなんて。

 耳鳴りがどんどん激しくなった。

 雨なんて降っていないのに、耳鳴りのザーザーと鳴り響く様は、土砂降りの空の下みたいだ。

 苦しくて、酸素が欲しいのに、全然足りない。

 そのまま足音が遠ざかるのを、私の瞼が落ちた瞬間聞いた気がした。逃げたか。

 私このまま死ぬのかもしれない。だんだん目の前が真っ暗になり、その真っ暗な世界の中、雨の音だけが支配していた。

 興味本位で恋愛ごっこなんかしなけりゃよかった。

 もし生まれ変わる事ができるなら、次はもっと好きになれる人に会おう。自分のことだけではなく、私のことを好きになってくれる人を。私は興味本位じゃなく、本気で好きになれる人を……。

 走馬灯なんて流れなかった。

 そう思ったところで、私の意識は途切れた。

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