傷つけた者
巨大なレンタカーからヤブが下りてきた。どこでこんなもん借りたと聞いたが、俺の話なんか素通りだ。ストレッチャー回転シートにイーマを載せると、意気揚々とアクセルを踏んだ。
「まず今までかかった病院とリハビリの内容、理学療法士と作業療法士と義肢装具士の連絡先を全部教えてもらえるかい! それからこの素晴らしくも素晴らしい僕様のウルトラ特注品を提供しようじゃないか!」
満面の笑顔が最高に腹立たしい。
「全て記録があります。お渡しします」
「傷はどのくらい治っているかな?」
「おおむねは。完全ではありませんが、断端の手入れや運動訓練も指定の通りにやって順調と言われています。ただ、筋電義手を使っているのですが、調子が」
「聞いたかいショウ君! 君が放り投げた手を落とさなくてよかった! 本当に良かった!」
黙れと言いたくて仕方がない。調子に乗らなければ会話ができないのか。
「義手の規格に関する情報はすべて整理してありますので、使えるかを調べていただければと思います」
「グッドグレートエクセレント! 名患者だねえ! いやあショウ君、君がまさかこんなに素晴らしい人と知り合いだなんて思ってもみなかったよ」
「少しでも変な真似をしたら、二度とてめえには関わらねえからな」
「いやー、お金が入るとわかったら強気じゃないか! 心配ご無用! それはそれは丁重にお取り扱いいたしますとも!」
まともな医者につないだら、こいつは鈍器で昏倒させてロッカーにでもしまった方がいいかもしれない。ちらりとイーマを見たが、こちらからは仮面しか見えなかった。
「変な奴ですまねえな」
「いいえ、あなたが紹介してくれた人でしょう。わたしは信頼したいわ」
「はっはっは、そうだろう?」
「いいから前見て運転してくれ」
後部座席からウォンの横顔を押し返した。
*
帰宅してすぐにウォンが検査を始めた。いつでも後頭部へ人体模型を叩きつけられるよう構えていたが、さすがに本職では手を抜かないようだ。部屋を出た。彼女の荷物をキャビネに入れるときにパスポートが見えた。開くとイーマ・オハラと書いてあり、その下に負傷した部分を含めた写真が張ってあった。偽名じゃないのか。悪いことをしたと思い、すぐに閉じた。
数時間が過ぎ、イーマは疲れていたのか、すぐに診察室で就寝した。ウォンは上機嫌で関係者へ電話をかけていたが、晩飯を食い終わったころに俺の部屋をノックしてきた。
「入るよ」
答えも待たずに、ウォンがドアを開けた。
「急変することはないと思う。出て話そう」
珍しい言い方だ。こいつはめったに俺のことなんか気にかけない。ふらりと立ち上がって、ウォンの後についていった。廃墟を出て繁華街と逆へ。車の通りが激しい夜道で、ヤブが話しはじめた。
「見つかったそうじゃないか。ショウ君の尋ね人」
「まだ本人には会ってねえよ」
イーマと話したのだろうか。
「犯罪者になっていたって?」
「俺は信じてねえ」
短く言いきったが、その自信は少しずつ揺らぎ始めていた。たしかにサクはエンジニアらしいというか、完璧主義的なところがあった。それに善悪以上にテクノロジーの自由という発想に強く惹かれてもいた。ビジネスという考え方が馴染んでいなかったのも確かだ。だから俺はできるだけ奴を商談から遠ざけていた。奴の純粋さを守っていたつもりだった。
純技術的なエンジニアは時に嫌われる。融通が効かない、話が通じない、態度が悪いと言われる。そういうコミュニケーションの失敗でうまくいかない会社は山ほどある。サクとだけはそれが無いように細心の気を配ってきたつもりだ。俺とサクが離れたのは、アメリカに行った3ヵ月だけだ。
「でも彼女をああしたのは、君が探していた青年、サク・キサラヅなんだろう」
「イーマがそう言っただけだ。証拠はねえよ」
「サク君はそんなことしそうにないのかい」
「多少は思い当たるようなことはあるさ。テレビや小説のキャラじゃない、本物のハッカーってのはなんだってこだわっていた。でもな……」
「本物……それはアノニマスとか、僕でも知っているような犯罪者のことかな?」
「アーロン・スワーツだ」
「聞いたことがないな」
「ネットでブログ読むときとかに使うRSSって知らないか。それを作ったやつだよ」
俺はスワーツについて話し始めた。スワーツは2013年に26歳で自殺したハッカーだ。『インターネットにおける情報の自由』という問題に挑戦した人間の一人だった。
「情報の自由」は、コンピュータを民主的に運用する原則の1つで、インターネットとともに成長した思想だ。アノニマスや、アメリカ国家安全保障局の情報を公開したエドワード・スノーデン、それを支援したウィキリークスのジュリアン・アサンジなどの行動も、この自由を追求した結果といっていい。
スワーツもネットを通じて、すべての人に情報が開かれていくことを理想としていた。特に学術論文の閲覧が課金制だったのに反対しており、学問や情報は無料でだれでもアクセスできるべきだと考えていた。しかし2010年、彼は行動論文データベースから学術雑誌の記事をダウンロードして連邦当局に逮捕。彼のエンジニアとしての道は閉じた。連邦検事は複数の犯罪でスワーツを起訴し、懲役35年と100万ドルの罰金が求められた。罪に問われた2年後、彼は首を吊って死んだ。
スワーツの行為に正当性があるとみなす者も多く、当局の取り締まりが厳し過ぎるという批判はアメリカを駆け巡った。あらゆる社会に通じることだが、思想は法の上に立つのだ。電子フロンティア財団のピーター・エッカーズリーは「我々の世代で最も優れた才能の損失だ」というコメントを残し、当局を強く非難した。彼の死はネット社会が生み出した大きな矛盾だった。
「彼は、第2のスワーツとして活動していたってことかい」
歩きながら、ためらいがちにウォンが話し続けた。その答えは俺の中にはない。沈黙で返した。
「アーロン・スワーツの事は今初めて知ったけれど、君の話の範囲では、僕もスワーツを罪に問うたのも自殺したのも気の毒に思う。しかし彼、サク君に関しては少し違う。そうした思いがどれだけ深くても、直接的に人を傷つけるというのはやはり納得しかねる。僕は医者だからかもしれないがね」
「いきなり何を言ってやがる? お前がなんでサクの話をするんだ」
ウォンが立ち止まり、長髪の中に憂いを含みながら話し始めた。
「もちろん、僕はサクという人の事はなにも知らない。ただ、彼にまつわる人間を複数知るようになると、そこから浮かび上がってくる彼の姿も見えてくる。
今まであまり話さなかったし、少し僕の事を言うよ。香港の医師というのはレベルは高いんだけど、数が多すぎて競争も激しい。金のために薬を出したり、いらない検査をしたがる人もいる。そういう医の道にあるまじき態度が嫌で、僕は日本へ来た。おかしな実験ばっかりやっているようでも、研究には真面目に取り組んできたんだ。僕には人を直接的に傷つける気持ちは理解できない。君の友達であっても、憤りを感じるよ」
「ウォン、にごすな。おまえ、何を知ってる?」
「何も。君の話と、イーマ・オハラを名乗る彼女の話を聞いただけさ。ただ、僕は彼女の治療に専念したい。彼女が受けた理不尽な事実はやはり許せない。身内に爆弾を投げ込むような人間は、人の道を踏み外したと言わざるを得ないよ」
「身内?」
ウォンが立ち止まった。憐れむような眼で俺を見つめている。
「なんだって?」
「伝えてくれと言われたんだ。僕の役目はこれで終わりだ」
ふと、廃屋に残っている女の事を思い出し、そして、雷に打たれたような衝撃が全身をかけた。
「まさか」
「僕は今日、ホテルに泊まろうと思う。明日の正午に戻るよ。彼女の容態になにかあった時だけ、僕のラインに連絡してくれ」
「おい、冗談だろ」
こわばった笑顔を作った。ウォンは何も答えず、新宿の雑踏へ消えた。振り向いた。早鐘のように打ち始める心臓を、なんとか抑えようとした。
あの喜劇役者みたいな男が言う話だ。冗談に決まってる。そう信じたが、足はいつのまにか地面を強く蹴り飛ばしていた。トタンを乱暴に開き、廃屋に戻る。なんの皮肉だ。なんの間違いだ。イーマ・オハラ? 冗談じゃない。なんて俺はバカだったんだ。
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