恋人脳

語彙

資材倉庫

古い水槽だった。

中に何か浮かんでいる。

それを見つけたのは資材倉庫二階の一番奥だった。

引伸金網とL字鋼を溶接で組んだ無骨で頑丈さだけはある棚の隅に、

古い石綿パッキングのダンボールに埋もれるように鎮座していた。

下から伸びたコードが電源盤に繋がったままなのが気にかかり、

僕はふとした好奇心から、それを見てみようと思った。


僕はこの産業用に浚渫され建設された古い港に隣接した工場で働いている。

巨大プラントを整備・補修点検するこの会社に潜り込めたのは幸運だった。

そう思っていた僕の日々はすぐ幻滅に変わった。

エンジニアと称する仕事は名ばかり。

重いアセチレンボンベを背負い、鉄板で組まれた階段を五階まで登る。

液体塩素を充填するタンク貨車に食器用洗剤を振りかけ、気密をチェックする。

高圧蒸気で電気分解槽のステンレス金網を洗浄し、破損箇所を溶接で補修する。


一番年下で新人の僕は先輩たちから理不尽な命令ばかり受ける。

学校の部活なら一年辛抱すれば後輩も入ってくる。

二年も耐えればもうそれほどひどい扱いは受けないだろう。

でも社会に出てみるとそんな事はないということを思い知らされた。

この小さな会社ではもう新人は僕を最後に誰も入ってこなかった。

僕は何年たっても、いつまでたっても一年生のままだった。


陰鬱な毎日は手加減なく僕をすり減らせていく。

安い月給は狭いアパートの家賃を支払うともうほとんど残らない。

日を追うごとに口数が減っていき、動作がにぶっていくのが自分でもわかる。

それが先輩たちからさらなる侮蔑と嘲笑を受ける原因となり、

負の連鎖は毎日僕をきしませていく。


社会に出たら10年辛抱しろと誰かが言っていた気がする。

そうすればどこに行っても食べて行けるようになるんだと。

それは途方もなく長い苦役の日々を意味していた。

この懲役刑のような日々をあと何回、あと何年繰り返せばいいのか。

僕はこのなんの楽しみもない忍耐の日々に絶望しかけていた。

そして今も工業用水プールでザリガニ釣りをして遊んでいる先輩たちに命令され、

たったひとりでこの資材倉庫の整理という重労働をさせられているのだ。

僕の青春は灰色だった。


3時のサイレンが鳴り響いても僕は休憩室には戻らなかった。

タバコの煙と賭け事の話で充満したがさつな場所よりも、

この倉庫の薄暗く、湿った雰囲気のほうが僕の心を落ち着かせてくれる。

僕はここで時間をつぶす事に決め、

この汚れた箱の正体を確かめる作業を開始した。


油煙と埃が固まって貼りついたダンボールを引き剥がすと、

汚れた分厚いアクリルカバーがあり、それを外すと中身が見えた。

水槽だった。中によくわからない灰色の物体がふたつ浮かんでいて、

下から伸びたケーブルに繋がれ、静かに揺れている。

小さな音を立てて振動する水槽下の台座部分は、中の液体を循環させているのだろう。

いつまでたっても仕事を覚えられないと罵倒される下っ端エンジニアの僕でも、

それくらいは理解できた。

その前に保護ビニールが貼り付いたままの液晶版がひとつ。

汚れた液晶板にはこまかい文字が水のように流れている。

軍手を外し指先で汚れたビニールを引きはがし、文字がよく見えるようにした。

文字は次々と流れては消え、とどまるところを知らない。

これはいったいなんなんだろう。僕は液晶盤を眺め続けた。


液晶の文字盤の中ではふたりの人間が会話をしていた。

まるで仲の良い姉弟がふざけあっているような、

言葉を弾ませ合うのを楽しむような、

心を許しあった恋人同士がいつまでも笑い合っているような。

小声でささやきあうような言葉は途切れることなく続き、

静かに、とめどなく流れていく。

小さな液晶板の文字を追っていくうちに僕は理解した。

この水槽に浮かんだふたつの物体は、人間の脳だ。

そしてこの脳は、このふたつの脳は生きている。

繋がったケーブルでふたつの脳が会話を続けていて、

それがこの液晶版の小さな外部モニタに表示されているのだ。


ふたりの会話の話題はめまぐるしく変わっていき、

さっきまで海でハマグリを拾っていたのかと思うと、

数秒後にはコタツに入ってお笑い番組を見て大笑いしている。

初詣に訪れた神社の境内の急すぎる階段に息を切らし、

花火の音が遅れて届く秒数を一緒に数え、はしゃぎあっている。

ささやかではあるけど、どんなものにも代えられない小さな幸せ。

ふたりはこの水槽の中に脳だけになって浮かびながら、

脊髄に接続された記憶チップからランダムに生成される仮想情報を受け、

穏やかで豊かな、微笑ましい毎日を送っているのだ。

僕が欲しくても決して得られることのない、暖かい時間がそこには流れていた。


水槽横のプレートを確認すると、この装置は戦前に製造されたことがわかった。

脳と脊髄だけを体から取り出し、意識を維持させる生命保護装置。

きっとふたりのどちらかが不幸にも不慮の事故に会い、

このような姿になってしまったのだろう。

そして残されたひとりは共に生きることを選び、後を追った。

それがどういういきさつでこの倉庫の奥に運び込まれたのかは知らない。

ただこのふたりが僕の目の前に生きていて、今も静かに愛を確かめあい、

絆を深めあっていることだけは確かだった。


彼女は、彼は、ふたりはもう数十年もこうやって愛を紡ぎ合ってきたのだ。

静かに、誰からも邪魔されることなく、これからもずっとふたりで。

どれほどの長い時を共に過ごし、仮想空間の世界を旅し、楽しみ、

ふたりだけの幸せな時間を生きてきたのだろう。

僕は心の底から羨望を感じた。

こうやって生きていけたらどんなにすばらしいだろう。

まぶしさに僕は目を細める。

僕には手の届かない幸せを掴んだふたりは保護液の中に浮かんだまま、

終わらない夢の中を永遠に生きていくのだ。

夢の中で、いつまでも、いつまでも。

僕は心の底からふたりを祝福した。


その時唐突に、低いサイレンの音が倉庫内のスピーカーから流れた。

終業時間前15分を伝える5時の時報に、僕は容赦なく現実の世界に引き戻される。

僕は静かに水槽の前から立ち上がり、電源コードの差し込み部を探した。

左右の脱落防止取り付けネジを外し、その上下にある蝶ネジも外した。

ひと呼吸いれてから思い切り、勢いよくコンセントを引き抜く。

液晶板の文字が一瞬消えたあと、また文字が流れ始めた。

ふたりは突然の停電に少し驚いたものの、すぐに笑い合い会話を続ける。

クリスマスの夜のちょっとしたハプニング。

こんなことはよくあることなのだ。

気にもせずに恋人たちはお互いの名を呼びあい、慈しみあい、笑いあう。

仮想現実の中の聖なる夜は静かに更けていく。


僕はまたアクリル板で作られた覆いとシートをかぶせ、

ダンボールを並べ直し水槽を資材の中へ埋め戻した。

生命維持装置の緊急用補助バッテリーはあと数週間程度は持つだろう。

その先は知らない。


腕時計を見るともう終業まであと数分しかない。

僕はまた重いシャックルを台車に積み上げ、ごろごろと押して片付けを再開する。

足元の玉掛けワイヤーにつまづき、僕は少しよろけた。

終業時間の5時15分まであと少し。

僕はただそれだけを思い、何も考えずに作業を続けた。

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恋人脳 語彙 @HOMASHINCHI

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