冷たい笑顔は芸術で

@casablanca

第1話


人が憂鬱になるというのは、その大半が夜中であるように思う。

夜という、暗く、沈んだ世界の中で、人は過去を思い出すのだろう。

そして、失ったものを強く思い出す。

失ったものはどれも美しい。

しかし、そのときの自分はその価値にも気づかず、平気で手放してきたものばかりである。

少なくとも、僕はそうだった。

過去を振り返るとき、僕は六歳年上の美大予備校の琴美先生を思い出す。

艶やかで繊細な髪をいつも一つにし、色が白く華奢で、絵画の世界を思わせるような人だった。

「人は大事なものを失った過去を思い出すことで、手放した自分の罪を償っているんじゃないかしら。当時の過ちを犯してしまった自分を許してあげたいのよ。」

琴美先生はそう言っていた。


琴美先生と出会ったのは高校三年生の時だった。

美大を志望していた僕は、高校三年の四月に美大予備校に通うことに決め、その予備校の先生が彼女だった。

「志望校は決まっているの?」

「武蔵野美術大学です。」

「あら、私もそこの大学を二年前に卒業したのよ。もしかしたら、後輩になるかもね。頑張りましょうね。」

琴美先生はそう答えた。

当時から、僕は彼女に対して好意を持っていたと思う。

会った時から、ただ美しいだけではなく、とことなく弱々しさを感じた。

少し泣きそうな声で、すぐに割れてしまいそうなガラス細工を連想させた。

雪のように優しく美しく、すぐに溶けてしまいそうな脆さだった。

そんな笑顔をしていた。

無理に笑顔を作っているようでもあったが、決して偽善の笑顔ではなく、心から自分はこうでありたいという、そんな笑顔だった。


六月のある日、いつものように学校が終わると、僕は予備校へ向かった。

「マサ君はどんな絵が好きなの?」

デッサンをしている途中に、突然顔をのぞかせて、琴美先生が尋ねてきた。

「どうしてですか?」

「うーん、好きな画家や絵というのは、君の絵に影響を与えるからよ。」

「ラファエロの聖母子画や、レンブラントが好きです。」

「どちらも素敵ね。西洋画が好きなのかしら?」

「そうなんだと思います。」

「あなたによく合ってるわ。」

琴美先生は微笑みながら、そう答えた。


7月のある日のことである。

雨が続き、蒸し暑さに苛立ちと気だるさを感じていた。

街にあるカフェでのバイトが終わり、傘をさしながら家へ帰宅途中、彼女に会った。

二十一時頃である。

ひどい雨が降っていても、夜の繁華街は賑わっていた。

繁華街を抜け、少し歩いたところの河川敷に、雨に濡れた彼女がいた。

周りには誰もいず、街灯の光が彼女を照らしていた。

彼女は泣いていたのだ。

「こんなところで、雨に濡れてどうしたんですか?」

僕はそっと彼女に近づき、両手で顔を覆いながら、河川敷の石段に腰をかけていた彼女の頭上に傘をさした。

「マサ君?どうしてここに?」

「バイトの帰りです。たまたま見かけて」

「ごめんなさいね。恥ずかしいところを見られちゃったかな」

「大丈夫ですか?」

僕がそう尋ねると、彼女は少し間を空け、にこっと笑った後に「大丈夫よ。」と答えた。

濡れた髪、彼女の白い肌と冷たそうな手が、美しくあり、同時に僕を非常に悲しい気持ちにさせた。

「僕は確かに子供で、無力です。でも、そうやって無理に悲しみを隠そうとしている人の顔くらいは分かります。」

そう言うと、琴美先生は濡れた白のブラウスの袖をまくった。

そこには、ひどい痣があった。

「私、付き合っていた男の人がいるんだけど、その人、機嫌が悪いといつも殴るの。」

「もう別れたんですか?」

「彼は決して悪い人ではないのよ。ただ、今は自分のことで精一杯なの。でも、彼のためにも別れたわ。」

「今も好きなんですか?」

「どうかしら。最初は確かにそうだったけど、こういうのは、好きとはちょっと違う気がするわ。」

どこか悲しげな表情で、最初に会ったときのように、すぐに壊れてしまいそうな、雪のような表情で彼女は言った。

僕はそっと彼女の頰に手をやった。

「最初に会った時から好きでした。」

僕がそう言うと、琴美先生は僕の顔を見つめ、彼女の頰に当てていた僕の手に彼女の手を当て、微笑んだ。

「温かい手。」

彼女はそれ以上何も言わなかった。


冬になった。

雨のあの日から、僕と琴美先生は会うようになった。

付き合ってはいない。

好きな本の話、映画の話、音楽の話をしたりした。


12月の初旬に、二人でカフェに行った時があった。

白いタートルネックのセーターを着ていて、いつものように雪を思わせる美しさだった。

少し茶色がかった艶やかで繊細な髪を、その日は下ろしていた。

「先生と過ごす時間が短く感じます。」

「それは、私といると楽しいってこと?」

いつものように、輝く笑顔で琴美先生が聞いてきた。

「もちろんです。」

僕も笑顔で答えた。

「ねぇ知ってる?楽しい時の時間って、短い時間の中では早くすぎるけれど、長い時間の中では遅く感じるの。逆に退屈な時間は、短い時間の中ではすごく遅く感じるのに、長い一年のような時間の中だと、あー、一年あっという間だったなって、そう感じるのよ。マサ君は、私と過ごした数ヶ月を長く感じた?」

「まだ一年経ってませんよ。」

僕は微笑してそう答えた。

「確かにそうね。トーマス・マンの『魔の山』っていう小説の中で、こんなことを言っていたのよ。」

「トーマス・マン好きなんですか?」

「そうね。悲壮感が漂っているあたりとか?」

「なんですかそれ。」

僕と琴美先生はお互いにくすっと笑い合った。


カフェを出ると、外は薄暗く、雪が降っていた。

「とてもきれいね。」

そう言いながら、優しく、柔らかい表情で空を眺めていた。

しかし、どこか寂しさがあり、すぐに溶けてしまいそうな、まさに雪のようであった。

白いマフラーと、粉雪、彼女の美しい髪の毛と白い肌が最美の調和をとっていた。

僕は、芸術とはこういうものなんだと思った。

その日、僕と琴美先生は初めてキスをした。

「受験、合格したら一緒にどこか行こうね。」

そう言って、キスをした。

一瞬のことだった。

「僕も行きたい。」

頰を赤らめながら、僕が言った。


小さい頃から仲のいい真奈美と、僕はいつも学校で一緒にいた。

真奈美はセミロングで、目が大きく、美人というよりは可愛い感じの女の子だった。

恋愛感情はお互いになかったと思う。

ただ、気が合い、友達として一緒にいた。

僕はよく真奈美に相談をしたし、彼女も僕によく相談をしてきた。

「受験どう?」

真奈美が昼休みに尋ねてきた。

「自信はないけど、やれることはやった。頑張ってくるよ。」

「あと一週間かぁ、緊張するね。」

「真奈美はどこ受けるの?」

「上智の英文が第一志望だよ。本好きだし、英語好きだから。」

「真奈美はすごいなー。」

「美大だってすごいじゃん。それに、すごいかすごくないなんて、人によって違うんだから。」

「そういう難しいこと言わなきゃ、モテると思うんだけどなー。顔可愛いんだしさ。」

「なにそれー。私がモテないって言いたいわけ?」

真奈美は頰を少し膨らませて言った。

「で、最近は年上の彼女さんとうまくいっているの?」

「別に彼女じゃないよ。でも。キスはした。」

「へー。いいじゃん。はー私も彼氏ほしいなー。」

「真奈美ならすぐできるよ。」

「うん。知ってる。」

微笑みながら彼女は答えた。

「一つわからないことがあるんだ。いや、わからないというか、本当の琴美先生の気持ちがわからないというか。彼女の言うことや行動が、どこか嘘っぽいというか、何かを隠しているように感じる時があるんだ。気のせいかもしれないけど。」

「え?どういうこと?」

「いや、よくわからないんだけど、やっぱりいいや。何でもない。」

「そう‥‥。」


受験に合格した。

二月の終わりである。

そのことを、親や友人より、先ず琴美先生に報告した。

「おめでとう。これで晴れて美大生ね。私の後輩になっちゃったね。」

彼女はそう言って祝福してくれた。

「先生、今度コンサートに行きませんか?クラシックコンサートです。先生の好きなラヴァルやショパンのワルツが演奏されるんです。あと、先生の好きなピアノレッスンの映画の、楽しみを希う心が演奏されるんですよ。」

「え、行きたい。」

彼女はそう答えた。


コンサート当日、ひどく寒い日だった。

楽しみを希う心が流れたときの、彼女の表情を今でも鮮明に覚えている。

悲しみを帯び、弱々しく、今にも壊れてしまいそうなガラス細工を思わせるあの笑顔に近いものを感じた。

最初に会ったときの笑顔、雨に濡れたときの笑顔、雪を見上げたときの笑顔。

雪のように、美しく、純白で、すぐに溶けてしまいそうな笑顔。


その日琴美先生の首元に、小さな痣があった。

「それ、どうしたんですか?」

「あー、これ?昨日強く打っちゃった。」

「前の彼氏に会ってるの?」

「そんな訳ないじゃん。ただ打っただけだよ。」

そのとき、僕はその言葉が嘘であることをわかっていたのだ。


コンサート会場を出ると、また雪が降っていた。


「マサくん、今日はありがとう。私ね。マサ君のこと好きよ。前の彼氏よりも好き。」

「僕も好きだよ。」

琴美先生はいつものように、にこっと笑いキスをした。


次の日、琴美先生は死んだ。

雨の日にいた河川敷で、水死体として発見された。

自殺だった。

発見当初、腕や腹部に痣があったことから、警察は殺人を疑ったが、同棲していた男にDVを受けていたというのは事実だったが、死因は外傷ではなく、あくまでも自殺だと判断した。


「マサのせいじゃないよ。きっとこういうのは誰のせいでもないんだよ。」

真奈美が言った。

「僕は彼女の、優しくて、でもどこか寂しいそうで、壊れそうな笑顔が好きだったんだと思う。僕は気づいていたんだよ。違和感とか、なんとなくではなく、確信できていたんだ。でも、気づいていないふりをした。きっと、僕の望む彼女ではなくなってしまう気がしたからだ。何より、怖かったんだ。無力で何もできなかったんだ。」




今、僕は無数の人が行き交う東京の街の中で、雪を眺めている。

小さな雪の結晶を見るたびに彼女を思い出す。

彼女の綺麗な髪を、白い肌を思い出す。

言葉を思い出す。

「人は大事なものを失った過去を思い出すことで、手放した自分の罪を償っているんじゃないかしら。当時の過ちを犯してしまった自分を許してあげたいのよ。」


雪が滴る夜の中で、無数の人が行き交う街の中で、琴美先生を思い出し、過去を振り返り、僕は僕を救う事しかできないでいる。









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