また奪われる

――おかあさん。

 しな子は、母の後ろ姿を追っている。

 ――おかあさん。

 呼んでも、答えはない。

 ――おかあさん。

 追いついて、その手を、取った。

 母の顔は、しな子の知ったものであった。

 いや、母の顔とは、それは違った。その顔をよく知っているが、しな子にはそれが誰なのか分からない。

 母だと思ったら、ただ、母のように、優しくしな子の頭を撫でているだけの、別人であった。

「目が、覚めたのね」

 声の主は、目が覚めた、と言ったが、暗い。

 しな子は、目隠しをされていることに気付いた。身体の自由も効かない。縛られているのか、もがくと手首が痛んだ。

 その痛みが、しな子を現実へと連れ戻してゆく。

「ここは、どこ?」

「さあ、どこかしらね」

 その声を、知っていた。

「――マヤさん?」

 マヤならば、縛られているしな子を、助けなくてはならない。では、今しな子の近くにいる人物は、マヤではないということになる。

「正解」

 いつもの調子だった。マヤであることに間違いはない。

「わたしを、自由にして」

 当然の要求を、しな子はした。だが、マヤの答えは、ごめんね、であった。

「それは、できないの」

 代わりに、しな子の頬に、掌を当ててきた。その部分だけが、ぽうっと暖かくなってくる。

 そして、唇に、柔らかな感触と、甘い香り。マヤがいつも付けている香水だろう。

「しな子ちゃん、女の私が見ても、ドキドキするわ」

 しな子の唇から自らのそれを離し、マヤは言った。

「可哀そうに。きっと、ひどい目に合うわ」

「マヤさん」

 しな子の声の色が、変わった。

「――あなた、まさか」

「そうよ、しな子ちゃん。あなたは、あちこちでなのよ。あなたに宿る力も、あなた自身の力も、皆が欲しがっているわ」

「あなたも?」

「そう、わたしも」

 そう言って、マヤは目隠しを外した。

 テレビドラマなどでよく悪役がアジトにしているような、倉庫のような場所。有名な通販サイトのロゴ入りの段ボールが積み上げられていて、その流通倉庫だろうかとしな子は思った。

「おかしなことを考えないでね、しな子ちゃん」

 目隠しをされている理由は、しな子にも分かる。念象力とは、対象を見て、それが燃えるビジョンをことで発動する。つまり、頭に視覚情報が入って来ず、今自分が置かれている風景を知ることが出来なければ、使えないのだ。

 ここでしな子の目隠しを外すというのは、設置されていることが分かっている地雷を自ら踏むようなものだ。だが、マヤは、しな子の力を恐れることはなかった。

「使えないの、あなたは。今、赤部さんが、必死にここを、そしてあなたを探しているわ。大丈夫。わたしのスマートフォンのGPSは、付けっぱなしにしている。きっと、すぐにあなたを助けに来るわよ」

 ただ、とマヤは続ける。

「赤部さんがここに来て、あなたを救い出す前に、あなたが力を使ってご覧なさい」

 言われなくても、分かる。今のしな子は、力の制御が上手く出来ない。迂闊に使えば、爆炎が段ボールに引火し、縛られて身動きの取れぬしな子ごと、この倉庫は火の海になる。

「黒焦げのあなたを見れば、赤部さん、悲しむわね」

「燃えやすいもので囲んで、わたしの力を封じたのね。考えたわね」

 しな子は、諦めていた。何をどう前向きに考えても、マヤは、しな子や赤部を害する者に加担していることは間違いないのだ。この場合、しな子や赤部を害するとは、政府。先ごろから、政府がらみのことで、リトルウイングは目立ちすぎた。

「政府は、デュオニュソスを、どうするつもり」

「さあ、わたしは、そこまでは知らないわ。リトルウイングでも、でも、わたしはいつも、肝心なことは知らされないもの」

 二重スパイ、という言葉が、しな子の頭をよぎった。

 マヤは、ライナーノーツ時代からのスタッフである。どこかの時点で、政府に抱き込まれ、ライナーノーツやしな子の情報を流していたと考えるのが自然であろう。

 倉庫の大きなドアが、開いた。

 一瞬、赤部かと思ったが、足音が違う。

「おや、眠り姫の、お目覚めかな」

 川北。ゆっくりと、自らの姿を見せつけるようにして、しな子に近づいてくる。

「肝心なことは、いつも、が、握っているの」

 マヤは川北の肩に手をやり、しなだれるようにしてもたれ掛かった。

「あなた、政府に雇われているんでしょ。政府は、デュオニュソスをどうするつもりなの」

 川北は、答えない。喉の奥で笑うのみである。

「答えなさい」

「いいね、やっぱり、その勝気が。俺がその気になれば、いつでもお前を殺せると言うのに。どうして、お前の方が上の立場のように振る舞えるんだ」

「さあ。あんたが、クズだからよ」

「決めつけるなよ。俺のこと、知りもしないくせに」

「それは、お互い様ね」

「いいや。俺は。お前をよく知っている。お前の強さも、弱さも」

「ああ、そう」

 しな子は、束縛から逃れようと、さらにもがいた。手首を縛られている上、座らされている椅子に身体ごと縛り付けられているから、どうしようもない。

「可愛いな。抵抗しているのか」

 しな子の足掻きを、愛しいものでも見るようにして川北が見下ろす。

「念象力とは、便利なものだな、しな子」

 川北は、積まれた段ボールの上に腰かけた。

「それがあれば、人は、恐れるものが無くなる。分かるか。人とは、いつも、何かを恐れ、生きているな」

 しな子は、答えない。ただ黙って川北を睨みつけている。

「お前のそのピアスや、ぶかぶかのジャージや、髪型は、何のためだ?」

「あなたに、関係ないわ」

「そうお前は言う。だが、それは、お前の恐れの表れなのだろうと俺は思う。自分が、世に受け入れられないのではという恐怖。それから逃れるため、お前は、ファッション誌を見、流行のタレントと同じ服装をすることを放棄し、自ら世には馴染まぬ者とそのファッションを通じて表現することで、他者や世間の眼から、自分を守っているのだ」

「あなたに、何が分かるの」

「分かるさ。お前が、人の上に立つだけの力を持ちながら、なお人の眼を恐れ、それから逃げているということが」

 しな子は、敵としてではなく、単純に一個の人間として川北が嫌いになった。川北の言うことは、間違っていない。しな子自身が、自覚していることである。だが、それを、あたかも自分が世界で初めて発見した論理であるかのように、当事者に突き付けてくるような男は、しな子ならずとも、人に好まれるものではない。

「俺は、お前のことが好きだ」

 そのしな子の思考を読んだのか、真逆のことを川北は言った。

「お前が欲しい」

 とも。

「ふざけないで」

 しな子は、縛られたまま吐き捨てるように言った。

「わたしを、自由にしなさい」

 そう言われて、その通りに川北やマヤがするわけはない。そのことは、分かっていた。

「しな子ちゃん。意地を張らないで。あなたも、赤部さんも、頭が硬いわ。もっと、柔軟にものごとを考えなくちゃ。ね?」

 マヤが、あやすようにしな子の髪を撫で、言った。

「わたし、あなたのことがほんとうに好きなのよ。あなたのことが大切だから、こうしているの」

 何なのだ、としな子は思った。川北といい、マヤといい、しな子を縛り、力を封じておきながら、しな子のことが好きだと言う。今まで対峙したことのない類のに、言いようのない苛立ちと戸惑いを感じた。

「赤部さんを待っているのね?もうすぐ、ここに来るわ。心配しないで」

 マヤが、またしな子の髪を撫でる。金髪のメッシュの部分だけを掬い上げるようにして、弄ぶ。

「ねえ、マヤさん」

 しな子が、そのマヤを見上げた。

「なぁに、しな子ちゃん」

「気安く、触らないで」

 マヤが、髪から手をぱっと離した。

「ごめんなさい。でも、しな子ちゃんの方が、わたしに積極的だったのよ」

「それは――」

「――デュオニュソスのせい?」

 勝ち誇ったような顔をして、マヤがしな子を見下ろす。

「違うわ。あなたが、自分の力をコントロール出来ていないからよ」

 そこからは、川北が、また引き取った。

「可哀想に。自らに宿る力を持て余し、それを自らを苛むものと決めつけ、遠ざけてしまっている。そのくせ、お前は力を欲しがっている。結果、お前は念象力者としても、人としても、中途半端な存在になってしまった」

 川北から投げかけられる哀れみの視線を、しな子は跳ね返そうとした。しかし、川北はなおもしな子を哀れむように言う。

「それほどの力を持ちながら。赤部のようなつまらぬ男と組んで、狭い世界に火を放ち、お前はその火に焼かれて死ぬんだ」

「ああ、そう」

 しな子は、この状況をどうするのがよいのか、考えている。川北の話など、まるで聞いていない。身体は椅子に縛り上げられ、手も使えない。目隠しはマヤが外したから、念象力は使える。だが、今ここで使えば、コントロールの効かぬ爆炎があたりを焼き尽くし、共倒れになる。赤部を待とうにも、いつ来るのか分からない。はっきり言って、手詰まりだ、と思った。

「そう、手詰まりなんだよ」

 川北の、勝ち誇ったような声。

「あなた、読心術リーディングを――?」

「ふふ、そうだ。デュオニュソスは、念象力を、記憶する」

 今出回りつつあるデュオニュソスは、しな子の力を写し取ったものである。それ以外にも、人の心を読む力を写し取ったものもあるということか。それを、川北は埋め込んでいる。

「心を読めるというのは、いいものだな、しな子。お前の心の闇も、希望も、手に取るように分かる。さっき、赤部とときも、楽しめた」

 なるほど、川北ほどの戦いのプロが読心術を使えれば、相手と対峙したときに、相手がどう出るのか読み、応じることが出来るだろう。

 読心術と言えば、その使い手をしな子はよく知っていた。

 佐藤加奈子。かつて、パルテノンコーポレーションの騒動のとき、巻き込まれるようにして共に戦った。そのとき妊娠していて、騒動の後出産し、今は普通のシングルマザーとして生活しているはずである。

「そう、佐藤加奈子」

 川北の口からその名が出たとき、しな子の顔が青ざめた。同時に、髪が逆立つような感覚に襲われた。

「あなた、まさか――」

「察しがいいな、しな子」

 佐藤には、幼い子がある。今川北が得意気に使っている力が、佐藤のものなのだとしたら、佐藤は一体、どうなったのだろうか。

「あの女と、その子には、可哀想なことをしたな」

 川北は、倉庫の天井を少し見上げながら、そう言った。

「あなた」

「待て、待て。そう、怒るな。俺は、人類という大きなテーマで、お前に考えてほしいんだ。その上で、佐藤という一個の人間のことに眼をやっては、本質を見失うぞ」


 佐藤の子。病院で会った、無垢な命。それに、佐藤は、しな子の歌を教えるはずだったのだ。

 何の変哲もない女として生きたかったろうに。

 子の父を奪われ、そしてまた、人類がどうとかいう下らぬ思想のために、彼女自身までも。

 その子から、母を。

「また、あなた達は」

 しな子が、呟く。

 川北が飛び下がり、身構えた。

「そうやって、人から奪って」

 ずん、と地響き。マヤが、声を上げた。

 爆炎。

 それは、しな子自身を包んだ。マヤは吹き飛ばされ、川北は熱い風から身を庇った。


 それが通り過ぎた。

 川北が、生物としての反射によって頭部を庇った腕。その向こうに、しな子はあった。

 ジャージの上着が、火に包まれている。

 しな子を縛り付けていた椅子は壊れ、しな子を戒めていたロープは焼き切れている。

 しな子は、火の付いた上着を、身を捻って脱ぎ捨てた。

「なんて女だ」

 川北が、戦いの姿勢を取った。

「許さない。絶対に」

 しな子の怒り。それは、火の蛇になった。眼の眩むような閃光と熱風を放ちながら、川北を襲う。川北は、コンクリートの床に転がってそれから身を遠ざけた。その周囲の段ボールが燃え、転がった川北に覆い被さろうとしてくる。

 また、地響き。

 しな子は、結んでいる。

 辺り一面を、火の海にするつもりらしい。

 川北も、マヤも、ここで焼き殺す。

 自分はどうやって助かるのかは、考えていないらしい。

 怒り。

 それが、あちこちに咲き、唸る。

 悲しみ。

 それが、この倉庫の中を、熱風になって覆い尽くす。

 スプリンクラーから放たれる水など、問題にならない。

 しな子は、ただ川北を焼き殺す。

 もう一度。

 この怒りの全てを、ぶつけてやる。

 川北は、理不尽に奪った責めを負い、炭屑になって、この世から消えるのだ。

 彼が、デュオニュソスを使い、何をしようとしているのか、しな子には関係ない。

 奪われてはならぬものを、奪うもの。

 それを、生かしておくわけにはいかない。

 結ぶ。

 川北の周囲のもの全てと、火を結ぶ。

 しな子の精神が、瞬間的に潜行する。


 また、あの高速道路。

 そして、少女。

 足音。


 そこで、しな子の思考は現実に引き戻された。

 倉庫の扉が開き、しな子のよく知った声が飛び込んできた。

「しな子!」

 赤部。

 それを、焼いて滅ぼすわけにはいかない。

 しな子の精神が、一瞬、迷った。

 光。

 川北が、刃物を投げ付けたきた。

 それを、身体を旋回させてかわす。

「しな子。頭を冷やせ。また会おう。そのときは、もっとゆっくり話そう」

 マヤが飛び出して来たから、入口の赤部は構えた拳銃をどうしてよいのか分からない。それを、また飛来した川北の刃物が弾き飛ばす。赤部が応じようとしたときには、川北の強烈な掌底を顎に食らい、昏倒した。


 取り逃がした。

 スプリンクラーの水に打たれて、しな子の怒りは白煙を上げながら小さくなってゆく。

 全身を濡らしながら、しな子は赤部を見た。

 タンクトップから生えている腕を、水が伝ってゆく。

「しな子、大丈夫か」

 赤部が、駆け寄ってくる。

「ええ」

「一体、何が」

「もう少しだった」

「もう少しで、あいつを殺せた」

 赤部が来なければ、今頃川北は焼け死んでいた。

「もう少しだったのに」

「しな子?」

「赤部さん」

 しな子は、その場に膝から崩れ落ちた。

「佐藤さんが」

 あとは、スプリンクラーの水の音。

 それに、しな子のすすり泣きが混じっている。

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