記憶の粒は光る
都内のある高層マンションに、川北は暮らしている。歳は二十七。初秋の夜の東京を見下ろすガラスに映る顔が、冷たく笑っている。その唇には、傷。戯れにしな子に口づけをしたところ、食いちぎられたのだ。
川北は、ため息を一つ。己の顔を、じっと見ながら。
父に似ていた。
母にも似ていた。
しかし、その顔は誰にも似ていない、自分という人間であった。
彼の地元で有名な暴走族に因縁をつけられ、揉め事になったとき、彼一人でそれを潰すような若者であった。成績も良く、それだけにどこにも居場所はないし、他のクラスメイトや世間の人とは明らかに違う存在であったのだ。そのような人間が生きていることを許すほど、この世界は優しくはなかった。だから、求められるに応じて闇の中へ身を預け、染まるままに染まった。
いや、染まりようもなかった。闇すら、彼を恐れた。依頼された仕事を仕損じたことは一度もない。はじめは、暴力団絡みの仕事などからだった。そのうち、企業に雇われるようになり、今は政治家に雇われている。そのうち、彼も確かな筋からの紹介でなければ仕事を受けなくなっていた。そういうとき、自分を知る人は決まって、
「まだ若いが、腕は確かです」
と知らぬ人に紹介するのだ。いつも、内心鼻白んでいたが、そういう腐った人間は、そうすることで、己が川北を使っている安心感が得られると共に、自らは何もせず、のうのうと老いるに任せてきたことを正当化しようとしているのだ、と思っていた。
今、彼を使っているのは、
ライナーノーツのことは知っていた。いわば、同業者にあたるわけであるから、調べて当然である。内閣直属の機関であったから、偽装を偽装するための偽装が散りばめられていて、外から調べても大したことは分からなかった。それは解体され、今はリトルウイングなるNPO法人になっているらしい。殺しも民営化の時代なのだろうか、と皮肉に思ったものであるが、彼は深入りをしない。
今の雇い主の松田に対しても、そうである。彼は求められたことをこなすのみで、自らの意思で松田のことを嗅ぎ回ったりはしない。この世界で生きる鉄の掟というか、不文律のようなものであった。もし、何かの拍子に知らずともよいことを知ってしまったりすれば、それが誰かの弱味になる。弱味を握られた人間は、追い詰められた鼠と同じであると思っていた。だから、川北は、必要以上のことをしない。
ただ、殺す。
唇の傷を、指でなぞる。痛みはない。
川北は、何のために自分が生きているのかというようなことについて悩み、苦しむほど愛嬌のある男ではない。そして、人を殺めることくらいでしか生きてゆけぬような己の生に絶望するほどの可愛気もない。
ただ、何かを確かめるように、唇の傷に触れている。振り返ったリビングには、しな子の写真。複数枚ある。標的として、あれこれ調査をしていたのだろうか。
「もう少しだ」
肉の千切れた唇が、そう言った。
「もう少しだよ」
誰かに、語りかけるように。
「もっと、熱くなるといい。熱くなって、焦がれて、待っていてくれ。俺も、そうするよ」
その指が、写真の向こうのしな子の頬に触れた。
「――しな子」
「ごめんなさい」
「大丈夫なのか」
久しぶりである。いつもの居酒屋。しな子が大分落ち着いたので、二人で出掛けてきたのだ。カシスオレンジを一口飲んだところで、しな子はまた少しの間、眼を開けたままの眠りに入ってしまった。グラスを取り落とし、目覚めた。
「なんもね」
「しな子?」
しな子は、方言を持たない。幼い頃、事故に合う以前の記憶は殆どなく、物心ついた頃は東京の施設で暮らしていた。したがって、しな子が使う言葉は、江戸前の言葉でもない、いわゆる標準語である。しかし、今のは明らかにどこかの方言であった。
当人の自覚のないまま、切り離されたままであった幼い頃の記憶が現在の人格と結び付こうとしているのか、どうか。
「どこの方言だ?」
赤部は、しな子を預かり受けたとき、その出生地のことも単なる情報として知らされた。しかし、それは今のしな子とは切り離された情報だから、本人に言うこともない。ただ、当人が幼い頃の記憶を取り戻そうとしているなら、話は別だ。
「わからない」
と当人は言う。
「お前は、仙台の生まれなんだ」
「仙台?」
「二歳まで仙台で。そのあと、五歳まで、秋田に」
しな子は、眉をひそめ、眼を細めた。
「今のは、たぶん、お前の生まれたところや、育ったところの言葉なんじゃないか」
「――ああ、そう」
しな子はそれきりその話題をやめ、出汁巻きに箸をつけ始めた。
「しな子ちゃん、秋田出身なの?」
話題は終わったように思えたが、朱里が参加してきたから、繋がれた。
「わからない」
「わからないって?覚えてないの?」
「小さい頃のことだから」
「そういえば、実家は?ご両親は?」
赤部は、いけ、と思った。事情を知らぬ朱里は、見事なまでにしな子の記憶に楔を打ち込んでゆく。
「実家は、知らない。両親は、いない」
しな子も、答えを拒む様子はない。いつものように、自分が認識している事実を述べている。ただ、その心の中で、何かを探すような、何かと語り合うような様子を見せていることを赤部は見て取った。
「あら、ご両親は、いないのね」
朱里は、しな子の普段の様子から、並の境遇のもとで育った女ではないと思ってはいたが、親のいない環境、あるいは失った環境で育ったことを知り、雑じり気のない同情を示した。
「しな子ちゃん、肌綺麗だし、色白いし。秋田美人ってわけね」
明るく話題を変えた。赤部は、舌を巻いた。赤部は仕事柄、初対面の相手と深く突っ込んだ話をすることがあるが、このようにして、相手の心に柔らかに手を入れ、優しく触れるような話し方をすることはまずない。朱里が接客業というか、親の居酒屋を手伝い、夜の営業を切り盛りしているのは伊達ではないというわけだ。
「しな子ちゃん」
子供に語りかけるような暖かな声色で、朱里はしな子と赤部が座る座敷の縁に腰かけた。
「東京で一人で、心細いわね」
「べつに」
「そうよね。赤部さんもいるし」
「この人は、べつに」
「ねえ」
「なに?」
「今までで一番楽しかったことって、何?」
しな子が、出汁巻きを意味もなく崩していた箸を止め、朱里の方を向いた。
「楽しかったこと?」
「そう。悲しい顔ばかりしてるんだもの。楽しいこと、思い出さない?」
「ない」
「ない?ひとつも?」
「ええ、ひとつも」
「どうして」
しな子は、答えない。にっこりと笑う朱里から眼を背け、出汁巻きに眼を戻した。その箸が、泳いでいる。
「わたしには、今しかないわ。この出汁巻きが美味しい。それかしら」
「あら、嬉しい!自信あるの。いつも頼んでくれるものね」
「あとは――」
赤部は、固唾を飲んだ。しな子が、今まで自ら手を入れなかったところに、腕まで突っ込もうとしているのが分かったからだ。
「――お祭り」
「お祭り?」
「小さい頃、いつかは分からないけど、お祭りに行った。そう、おとうさんも、おかあさんもいた。車に置いていきなさいって言われたけど、気に入っているぬいぐるみにも見せてあげたくて、一緒に」
しな子が、今しかない、と例えに出した出汁巻きの向こうの世界を見ている。
「犬を、飼いたかった。マンションだから駄目って言われた。その代わり、って買ってもらったぬいぐるみ。たぶん、犬じゃなくて熊だったと思う。毎日、一緒に寝てた。抱いてると、暖かくて、ほんとに生きてるみたいだった」
朱里は、しな子の背に、そっと小さな掌を当てた。その温もりが、しな子を暖めてゆく。
「名前も、つけていた。どんな名前だったか覚えてないけど。すごく賑やかなお祭りで、お囃子がいつも聴こえていた。とん、とん、たとん、って。たぶん、音楽もあったと思う。大きな張りぼての何かが光って、照らされて」
しな子は、弾かれたように顔を上げた。何故、自分が涙を流しているのか分からないのだ。
「おとうさんが、いか焼きか何かを食べようって買ってきたけど、わたしは、ぬいぐるみが汚れるかもしれないから嫌だって言った。おとうさん、少し残念そうだった。顔も思い出せないけど、そのことは思い出せる」
でもね、としな子は繋いだ。
「おとうさん、すぐ元気になって、じゃあおとうさんが食べちゃうぞ、あとで欲しいって言っても知らないぞ、って笑いながら食べ始めたの。わたし、やっぱりほしいって言ったら、おとうさん、すごく優しい声で、いいよ、一緒に食べよう、って言ってくれたわ。大事なぬいぐるみを汚さないように、っておかあさんが持ってくれた」
しな子の声が、だんだん掠れてゆく。
「ねえ」
横隔膜が、痙攣を始めている。
涙のみならず、鼻水も垂れてきている。
「おとうさんに、あいたい。おかあさんに、あいたい」
周りの席まで、しんとしている。半分酔ったサラリーマン風の男が、鼻を一つ啜る音がした。
「赤部さん」
しな子が、向かいの赤部を見た。
「ごめんなさい」
「どうして、謝るんだよ」
赤部は、何かをごまかすように笑い、ラッキーストライクを咥えた。
「無理するな、しな子。思い出したいと思うなら、思い出せるときに、そうすればいい。そうじゃないなら、忘れたままでもいいんだ」
そう言いながら朱里の方を見て、力なく笑った。
「そうよ、しな子ちゃん。楽しい思い出は、ずっと大事に抱っこして、悲しい思い出は、その場所に置いて来る。それでいいの」
背に当てたままの掌が、優しく上下している。
「きっと、それは、しな子ちゃんにとって、大切な思い出なのよ。だから、大丈夫。しな子ちゃんなら、きっと大事に抱いて、歩いてゆけるわ」
そうだ、頑張れ!
負けるなよ、お姉ちゃん!
楽しいことなんて、これから作っていけばいいじゃないか!
周りの客たちが、あちこちで声を上げた。
「お父さんみたいな、赤部さんもいるじゃない」
朱里が赤部の方にいたずらっぽい視線を送りながら言う。
「髭で煙草臭いおとうさんなんて、御免だわ」
しな子が、ぷいとそっぽを向く。
紙やすりのようにざらざらとした質感の壁を見た。それは、なにかきらきらと光る小さな粒が集まって、そうなっていることに気付いた。
その小さな粒に、吸い込まれるような感覚。
しな子は、そのまま意識を失った。
「しな子?おい、しな子!」
激しく呼び掛ける赤部の声が遠ざかってゆくのを聴きながら。
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