第三章 ペイント・イット・レッド

やっと、会えた

 赤部は、自らの衝動を抑え、しな子の乱れた服を整えてやった。それから、改めてしな子の手を握ってやる。

 気を落ち着かせようと、一服することにした。もししな子が目覚めれば怒るのだろうが、この一本だけ、と思い、しな子の手を握ったまま、コーヒーの空き缶を手元に引き寄せ、愛用のラッキーストライクに火をつけた。

 その手に、力が。今までのものとは、違う。

 手を通じて、脈の音。

 あの足音に、似ていた。


 とん、とん、たとん。

 とん、とん、たとん。


 赤部には、聴こえる。

 彼女が、近づいてくるのが。

 赤部の方に、歩いてきているのだ。

「しな子」

 赤部もまた、強く握り返してやった。

「一緒に行こう。俺、こんなだけど、お前を守るのは、俺だ。そう決めたんだ。だから、一緒に行こう」

 しな子は、眼を開いた。

 ずっと開いたままの眼を、開いた。

「赤部さん」

 枯れて、か細いが、はっきりと力のこもった声で、赤部の名を呼んだ。

「部屋で煙草、吸わないで」

 赤部はラッキーストライクを空き缶にねじ込み、しな子を抱き締めた。

「よかった。しな子、よかった。気がついたのか」

 確信があった。戻ってきたのだ。


 触れ合いホルモン、愛情ホルモンとも呼ばれるオキシトシン。手を握り合うなど、他者との干渉により分泌される。そしてそれは、性交渉において最も多くなる。心の安息や平滑筋の運動に大きな役割を果たすそうだが、念象力者が力を発揮するのは、強いトラウマから自らの脳を守るため、過剰にそれが分泌される癖があるためではないかという説がある。大量に分泌されたそれが、脳のある部分に働きかけ、念象力を発現させるというのだ。無論、念象力に関係があるとされる物質は他にも沢山あるが、それらをコントロールあるいは増幅するのが、デュオニュソスなのだ。

 その働きにより脳がバランスを失って自我を無くし、今度は更に赤部との接触により大量にオキシトシンが分泌される。もしかしたら、脳内を駆け巡るそれが、しな子を連れ戻したのかもしれぬ。無論、頭にデュオニュソスは埋め込まれたままだから、またいつ何時、暴走するか分かったものではない。しかし、赤部にとっては、まずしな子が目覚めたということが第一である。

 しな子の目的を果たすには、デュオニュソスの力は不可欠である。彼女自身がそれを埋め込んだままコントロール出来るなら、それほど心強いことはない。


「赤部さん」

 しな子の声はまだ弱いが、いつものしな子だった。

「いろいろ、ごめんなさい」

 それと、と彼女は続けた。

「ありがとう」

「いや、いいさ。俺こそ、悪かった」

「おばあちゃんになった気分よ」

「何が」

「わたしの世話をするあなた、困っていたわ」

「分かってたのか」

「時々ね。夢を見ていないときは、あなたがわたしの世話をしてくれていることが分かってた」

「そうか」

 赤部は、何だか恥ずかしくなってしまった。

 食事も、トイレも、風呂も全て世話をしてやっていたのだ。それを、当人が知覚していたとなると、気恥ずかしさが嬉しさに勝るのだろう。

「迷惑をかけて、ごめんなさい」

「気にするな」

「ねえ」

 しな子は、ゆっくりと起き上がろうとした。あまり身体を動かさぬから、あちこちが軋んで痛むらしい。

「わたしのこと、負い目に思わないで」

 困ったような顔をして、しな子は立ち上がった。

「おい、待てよ」

「なに」

「どこに行くんだ」

「あなた、まだトイレの世話をしたいの?」

 壁に手をつきながら、しな子は一人でトイレに向かった。


 赤部は、スマートフォンを取り出し、マヤに連絡した。マヤは、すぐ駆け付けると言う。

 それまでの間に、晩飯を食うことにした。

 しな子は、塩味のカップ麺を、無表情に啜っている。

「それ、好きなんだな」

「別に」

 自分で箸を持ち、だらしない音を立ててカップ麺を食うしな子。箸の持ち方は、いつまで経っても子供のようである。猫背で、テーブルに顔を近付けながら食う姿は、見映えのよいものではない。

 だが、赤部の表情は、とても柔らかい。


 マヤが駆け付けたとき、しな子は、食後兼寝起きの運動として、逆立ちになって腕立て伏せをしていた。

「しな子ちゃん。大丈夫なの」

「これくらい、毎日やってるわ」

「そうじゃなくて。気分は?身体は?」

「たぶん、平気。まだ、ぼうっとはする。だけど、平気よ」

「そう。ならよかったけど。赤部さんに、感謝しなさいよ。ずっと、付きっきりであなたの世話をしていたんだから」

 スーパーに寄って来たのだろうか、ビニールの袋を床に置いて、マヤはしな子の側に腰かけた。

「あなたに言われなくたって」

 逆立ちのまま、しな子は言った。可愛げのないことを言う、とマヤは思ったが、にっこりと笑ってやった。

「わたしの下着とか、食べ物とか、いろいろ買ってきてくれたりしたそうね」

「ええ、でも、あなた、わたしが近付くと怒るんだもの。着替えやお世話は、赤部さんに任せるしかなかったわ」

「ごめんなさい」

 しな子は、逆立ちをやめ、素直に謝った。

「あなたのことが嫌いなわけじゃないの」

「分かってるわ。なんせ、押し倒されて、襲われかけたんだもの」

「嘘。そんなこと」

「いいえ。もう少しで、強姦されるところだったのよ」

「ごめんなさい」

 逆立ちをやめても、しな子の顔は真っ赤になったままである。それをすくめた肩に埋め、申し訳なさそうにした。

「可愛いんだから。許しちゃうじゃないの」

「許して」

「嘘。はじめから、気にしてないわ」

「ごめんなさい」

 しな子が、涙を浮かべ始めた。やはり、感情のコントロールが上手くいかぬのかもしれないと思い、赤部とマヤの二人で、慌てて慰めた。

「ほら、無理しないで。今日は、もう休んだら?赤部さん、まだしばらく付いていてくれるって」

「待てよ。俺は何も」

「あら、赤部さん。しな子ちゃんが目覚めたからって、もう見捨てて帰るんですか?」

「いや、そういうわけじゃないが」

「ほらね?だから、安心して、しな子ちゃん。大丈夫よ」

 マヤはにっこりとしな子に笑いかけ、帰っていった。

「ちゃんとお礼、言えなかった」

 数分の間マヤの去っていったドアを眺め、しな子は、ぽつりとそう言った。

 そのとき、再びドアが開いた。マヤが戻ってきたのかと思い、しな子は立ち上がった。

 入ってきたのは、マヤではなかった。

 黒いスーツの男。若い。

「しな子、退がれ!」

 赤部が、拳銃を構える。

 しかし、それは何かによって弾き飛ばされた。手の甲を押さえ、男を睨み付ける。拳銃の転がった先には、小さなナイフ。これを、眼にも止まらぬ速さで投げたのだ。

 この腕前なら、一撃でしな子か赤部のどちらかを殺せたはずである。しかし、この男はそれをしなかった。楽しむつもりか、と赤部は内心唾を吐き捨てる思いであった。

 手の甲を押さえたまま何もせぬのは、しな子に向かって男が自らの拳銃の銃口を向けているからである。

「突然、お邪魔しますよ」

 男は、ゆったりとした口調で言った。

「眠り姫が、お目覚めと聞きましてね。なに、ご挨拶をと思った次第ですよ」

「何者だ」

「これは、自己紹介が遅れました。川北と申します」

 知らぬ名である。おそらく、誰かに雇われた殺し屋か何かであろう。この場合、雇い主は、政府ということになる。リトルウイング本部に侵入し、病室のしな子に襲いかかって来た者と同じ所属であろう。

「いや、写真で見るより、ずっと可愛らしい」

 川北は、銃を向けたまま、舐めるようにしな子を見た。

「会いたかった。ずっと」

 そう言って両手を広げる。その顔は、冷酷とも呼べる笑みで歪んでいた。

「あなた、気は確か?」

「ますますいい。その強気」

 しな子が、仕掛けた。拳銃に正面から仕掛けるなど、しな子も川北の正気を問えた義理ではない。

 しかし、しな子は速い。

 床すれすれに身を落とし、足を払う。

 それを嫌った川北が、一歩下がる。

 ぴったりとその動きに合わせて、しな子は斜めに身体をずらしながら、拳銃に取り付いた。

 川北の握るセミオートマチックのマガジンのリリースボタンを押し、更にスライドも押し、排莢させた。そのまま手首を捻り上げ、奪い取る。

 しな子に捻り上げられた手首を戻すように、川北は旋回した。しな子のマンションは、立ち回りには十分なほど広い。それが悪い方に出た。

 しな子は脾腹にしたたかに肘を食らい、呼吸が出来なくなった。川北の手には、しな子が奪ったはずの、銃。

 それを、しな子の手のひらに、すとんと納めた。

「差し上げます。お近づきの印に」

 そして、しな子の顎をくいと上げ、顔を近付けた。

「やっぱり、その強気がいい」

 川北は、そう言って立ち去った。

 また冷たい曲線を描くその唇から、出血している。

 ぺっとしな子は何かを吐き出した。

 川北の、唇の一部だった。

「舐めやがって」

「いいえ、キスされたのよ」

「違う、そうじゃない」

「分かってるわ」

 しな子は、赤部に川北の拳銃を差し出した。

「これ――」

 モデルガンであった。

 赤部は、取り落とした自らの銃を再び拾いはしていたが、撃つことが出来なかった。射線に、しな子がいたのだ。そこまで、川北は計算していたとしたなら。

「どうやら、わたしたちの負けのようね」

 しな子が、ソファに沈み込むように座る。

 口の周りが、血で汚れていた。それを、袖でぐいと拭った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る