ヒーロー
「赤部さん」
部長室のドアをノックして入ってきたのは、マヤだった。
「大丈夫ですか」
「マヤちゃん。ああ、大丈夫だ」
彼女は、大学卒業後、すぐにライナーノーツに入ってきた。それが確か五年前だったから、今年で二十八になるはずだ。優秀な分析官である。見た目も悪くないし、スタイルもいいから、普通のオフィスなどに就職していれば、恋愛の相手にも事欠かなかっただろう。
彼女は念象力者ではないが、しな子のように天涯孤独の身である。早くに両親を亡くし、祖母に引き取られて育ったが、祖母も彼女が大学生のときに死んだ。特にいい相手もいないらしく、仕事のみが生き甲斐、というような女で、赤部はいつも、君ほど有能な分析官を失うのは俺たちにとって損失でしかないが、俺は一人の男として、君がこのまま一人身で過ごして行くことの勿体なさを嘆く。などと軽口を叩いている。じゃあ、赤部さんが、わたしを引き取って下さいね。と戯れに応じたりするのだが、恐らく赤部に好意を持っているのは本当だろう。
「何か、食べて下さい。こんなものしかありませんけど」
ここに寝泊まりすることの多いマヤが買い置いているお菓子などを持って来ていた。菓子パンは、おそらく朝飯用として買っておいたものなのだろう。
「もし他に食べたいものがあれば言って下さい。上のコンビニ、行ってきますから」
「悪いな。これで十分だ。ありがとう」
「しな子ちゃんの様子は?」
昨夜、マヤはしな子に散々な眼に合わされたばかりである。しかし、それがデュオニュソスのせいであることは明らかだから、口元に痣が出来ても、衣服を人前で破かれても、しな子を責めるつもりはないらしい。
「ああ。今は落ち着いている。昨夜は悪かった」
「どうして」
マヤが、ドアのところからソファに腰掛ける赤部のところに駆け寄った。
「どうして、赤部さんが謝るんですか。しな子ちゃんのことでしょ」
「いや、しかし」
「分かるでしょ?」
形のよい唇が、赤部を誘うように動いた。
「しな子ちゃんのことが、赤部さん自身のことになっている。そんなに、しな子ちゃんが好きですか?」
「ちょっと、待ってくれ」
「わたしも好きですよ。とってもいい子。だけど。だけどね」
困ったような、悲しむような顔をするので、赤部は生唾を飲み込みそうになるのを堪えた。
「あの子のことを見るように、わたしのことも見てほしいんです」
す、と赤部の腿と腿の間に、マヤの膝が入ってきた。
「駄目だ、マヤちゃん」
赤部は、抵抗を示した。マヤは、あっさり、その行動をやめた。
「済まない」
「いいえ、こちらこそ」
いつものマヤに戻っていた。
「あまり、人目には付けたくない。今日の夜まで休ませて、こいつのマンションに運ぶつもりだ。しばらくの間、依頼は受けるな。どうにかして、こいつからデュオニュソスを外す」
「しな子ちゃん、大人しく応じるかしら?」
マヤが、横たわったまま赤部をじっと見つめているしな子を見た。しな子の虚ろな眼は、今の光景も映していたのだろうか。
「無理だろうな。しかし、彼女には、まだ自我がある」
「自我が?」
「さっき、眠りから醒めるようにして、少し」
その僅かなものを、赤部は信じているらしい。いや、拠り所にしていると言った方が正しいか。
「しばらく、こいつに付いている。もしかしたら、食い物なんかを持ってきてくれ、とお願いするかもしれん」
「ええ、それは、喜んで」
マヤは、少し寂しそうに笑って、出ていった。赤部も、同じような顔を返してやり、ドアが閉まるのを見届けてから、しな子に眼を戻した。
「しな子。きっと、元に戻るさ」
そう語りかけても、答えはない。
いや、むしろ、自分自身に言い聞かせたのかもしれぬ。
「俺のこと、話してもいいか」
赤部は、眼を開けたまま眠っているしな子の傍らに座った。
「前にも話したかもしれないけどさ。俺、小さい頃、正義のヒーローに憧れていた。だから警察に入って、機動隊に入った。だけど、絶望しかなかった。テレビのヒーローには、俺はなれなかったんだ」
しな子の唇にかかる髪を、つまみ上げてやった。
「挙句、こんな汚れ仕事さ。お前を引き込み、殺し屋に仕立て上げ、その責任を負うこともしない。お前を大切に思っているといくら言葉で言っても、お前を苦しめてばかりさ」
しな子が、一度瞬きをした。聞こえているのかどうか分からぬが、それでも赤部は語り続けた。
「だけどな。口は悪いし何考えてるのか分からないけどさ、お前は、ヒーローなんだ。俺の。高松議員のこと、覚えてるだろ。あれが、お前の正義なんだと思ってる。とても心優しくて、強い。怖がることはあっても、逃げたりはしない。俺がなりたかったヒーローそのものなのさ、お前は」
そのものではない。だが、赤部はそう言った。
「別に、羨ましがりもしなければ、憐れみもしない。ただ、お前がこの世に存在するってことを知ったことで、俺の今までのろくでもない人生が、はじめて意味のあるものだと思えるようになったんだ」
赤部の眼から、ぽつりと、涙。
「山梨には、お袋もいる。何年も会ってない。ろくでもない息子さ。同窓会にも、ずっと行ってない。噂じゃ、俺の初恋の子は、もう三人目を産んだらしい。ユリちゃんっていう、かわいい子だった。告白されても、上手く答えられなくてさ。何も始まらないまま、終わった。今じゃ、俺の知らない男の子を産んで、幸せに暮らしてるんだ」
しな子は、今にも、ああ、そう。と言い出しそうな顔をして、傍らの赤部をじっと見上げている。
「あのとき、あの子どどうにかなってれば、今の俺は無かった。山梨の実家を飛び出さなければ、今の俺はなかった。お前を、知ることはなかった」
赤部の手が、そっとしな子の頬に触れた。それは柔らかく、暖かかった。
「なあ、しな子。俺はさ、俺に、もしかしたらあったかもしれない、どんな素晴らしい人生よりも、お前と一緒にこんな仕事をしているこのクソみたいな人生の方が、ずっと良いと思ってるんだ」
頬に当てた手を離し、しな子の手を握った。
ほんの僅かに、握り返してきた。
一気に、何かが弾けたかのように、赤部は嗚咽を漏らし始めた。
「どうするのだ。失敗ではないのか、川北君」
「失敗?むしろ成功ではないですか?」
「君の放った刺客が、四人も殺されたのだ。なにが、どう成功なのだ」
「私の放った腕利きを、瞬時に葬り去る。なんでも、凄まじいまでの爆炎を使ったそうですよ。デュオニュソスの力は、恐ろしい。成功ではないですか」
「嫌な言い方をするものだ」
「あの力を持った者が、百人、二百人とあなたの下に。それを、あなたは望んでいる」
「それは、そうだ」
「あなたの望みが叶うということが、証明されたのです。失敗ではありませんよ」
川北は、うっすらと笑っているらしい。
共にいる男は、にやりと笑い、ウイスキーを飲み干した。
「どうだ。もう一杯、付き合わんか」
「たまには、いいでしょう」
「ハイボールでいいか」
「いいえ」
「ほう、君がハイボール以外のものを飲むとはな」
「コーラを」
「なんだ、ソフトドリンクか」
「好きなんです。ハイボールも、ほんとうは、コークハイがいい」
川北は自分の好みを一つ明かしたわけだが、共にいる白髪混じりの男が、ほんとうは何者であるのかは知らない。無論、社会的にこの男が見せている姿は知っている。
だが、その真実の顔については何も知らぬし、触れようともせぬ。それが、川北なりの、生き残るこつのようなものらしい。
「全ての腐敗を、一掃するためだ」
そう言う男に軽く頷き返し、ウェイターを呼んだ。
「それで、あの連中は、どうするのだ」
「ご心配なく。彼らのことは、全て把握しているつもりです」
「まさか私のことを嗅ぎ付けてはいないだろうが、ヒーロー気取りなのか何なのか、邪魔をしようとしていることは確かだ。分かるな」
「ええ。必ず、仕留めます」
「頼むぞ」
川北は、答える代わりに、指の関節を軽く鳴らした。
優男と言っていい。少し前からブレイクしている、若手俳優にどことなく似ている。着ているスーツもいいし、車は古いジャガーである。言い寄る女も多いようだが、川北は相手にしない。
彼には今、夢中になっている女がいるのだ。
「必ず、この手で」
運ばれてきたばかりのコーラの炭酸を感じないのか、驚くほどの速さで飲み干して、席を立った。
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