脱ゆとり教育殺人計画 金色の糸

新橋九段

1. I hope "becoming" peaceful

「動詞の直後につく不定詞と動名詞はだいたい同じ意味でどっちでも使えるんですね。でも中には例外があって……」

 夕方の教室にニイムラ先生の声が響く。私は外で降り続く雨を眺めながら、その説明を聞き流していた。手持ち無沙汰で無意識のうちに首から下げたロザリオをいじくる癖が出てしまう。

 不定詞、動名詞……どうでもいいなぁ。早くこの時間が終わらないかと、二分おきに時計を見てしまう。でも時計を頻繁に見てしまうと、時の流れが遅くなる。見るのはぐっと我慢すべきかな。

「ミス・エマ? 聞いてる?」

「え、あっはい……」

 ニイムラ先生に突然声を掛けられ、私は意識を窓の外から教室へ戻した。人のまばらな暗い部屋に、先生の綺麗な髪だけが浮いて見える。

「そう、じゃあミス・エマには質問へ答えてもらいましょうか。動詞のhopeの後に来るのは動名詞? それとも不定詞?」

「えっと、どっちでもいいんじゃないですか?」

 私は大慌てで記憶を手繰り寄せて答えを求める。そういえばさっきニイムラ先生は、動詞のあとにはどっちが来てもいいみたいなことを言っていた気がする。私がちゃんと話を聞いているかどうか確かめようという魂胆か。

「ぶー、残念! hopeのあとには不定詞しか来ません。こういう例外があるから注意しましょうねー。迷ったら辞書で調べてみてね」

 そうはいくか、と勢い込んでみたものの、ニイムラ先生から不正解を告げられてしまう。ニイムラ先生は自分の手元の電子辞書を振りかざして調べるようにアピールしてくるが、そのときにはもう私の意識は窓の外へ戻っていた。正直英文法とかどうでもいい。

 どっちでもいいじゃん……あとにtoなんちゃらが来ても、何とかingが来ても。

「ははっ……アメリカ人のくせに英語わかんないのかよ」

「金髪は飾りってか」

 そばにいる男子生徒のぼそぼそ声が聞こえてくる。私はそれを最大限気にしないように意識を窓の外へ向け続けた。外が教室内に負けず劣らず暗いせいで、窓ガラスには私の明るすぎる金髪がはっきりと映っていた。この部屋で浮いているのは私だけじゃない、ということか。

 私の両親はイギリス人だ。金髪碧眼イコールアメリカ人というわけじゃない。それに私のオールドマン一族は祖父母の代から日本に住んでいて、家でも日本語を使うし私は英語をほとんど理解できない。というか両親も英語はあまりわからないという体たらくだ。私はイギリスに行ったことすらない。にも関わらず国籍は未だにイギリスのままというのだから、父も母も何を考えているのだろうかと最近は特に思う。

 だからさっきみたいな陰口はしょっちゅうで、もう慣れてしまった。国語のほうが得意なんだけど、出来たら出来たで嫌味を言われるだけだから相手にするだけ無駄だ。何も感じない……というのは無理だけど、わざわざ真正面から受け止めてやる必要もない。無視無視。

「あぁ、もうこんな時間ですね……じゃあ今日の補講はここまで。明日も同じ時間にやるから忘れずにね」

 ニイムラ先生の言葉で、落第生たちが一斉に立ち上がる。退屈な時間からの解放を喜び、我先にと教室から抜け出していく。私も筆箱やらノートやらを荷物をまとめ、彼らに続いて教室から出ていく。扉をくぐると、鬱屈とした空気が体から取り払われるようだった。

 補講を受けた教室は一階にあった。部屋を出た私はまっすぐ昇降口へ向かう。部活には所属していない。運動には興味がないし、楽器や芸術を嗜むほど殊勝ではない。昔はピアノとか書道とかをやってはいたけれど、典型的白人といった見た目をしていると何をやってもそれに絡めた言葉をかけられるのだ。

 ピアノの発表会に出ればお人形さんみたいだと言われるし、筆を持てば外国人が日本の文化に触れてくれて云々と言われる。それにうんざりしたから、いまは家に帰って本を読むかゲームをする日々だ。人からとやかく言われない趣味は心地がいい。

 昇降口には人がほとんどいなかった。部活のある生徒はまだ帰る時間ではないし、帰宅部の生徒はとっくに帰っている時間だ。雨は窓越しに見た印象よりも大降りで、傘なしで帰るのは憚られる天候だ。朝は降っていなかったから折り畳みの傘しか持ってきていない。確か鞄の中に……と思って鞄を探るが、見当たらない。

 はて、どこかに忘れただろうかと首をかしげる。可能性があるとすれば教室か。私の所属する一年五組の教室は校舎の七階だ。エレベーターはない。上まで昇るのは運動不足の細足にはけっこう答える。

「仕方ないか……濡れて帰るわけにもいかないし」

 私はひとりごちて階段へ足を向けた。初夏なのに寒々しい廊下さっきの教室とは反対へ進んでいくと、後者の真ん中を貫く階段が目に入る。

 その時、後ろから聞きなれないモーター音が迫ってきた。ラジコンよりも重さがあって低い音だ。振り返ると、電動車椅子がゆったりとしたペースでこちらへ向かってくるところだった。

 車椅子には小柄な女子生徒が乗っている。彼女は無表情、というよりは退屈そうな顔で淡々と操縦桿のような棒を倒し、車椅子を操っていた。足は使われていないせいか肉付きが悪くがりがりだが、目立って妙なところはない。

 私は車椅子を目で追いそうになって、それをやめた。じろじろ見られる不愉快さは私が身に染みてよく知っていることだ。私が同じことをしてはだめだろう。そう考えた私は車椅子から目を離すと、階段を昇っていった。

 七階の教室へ到着するまで誰にも会わなかった。教室にも誰もいない。中学のときにはよく見た、下校時間がくるまで延々とたわいもないお喋りをしている女子生徒とか、所在なげに外をぼうっと見つめる男子生徒とかの姿はこの高校にはどこにもない。高校がそういうものなのか、あるいは今年からこの学校を襲っている「特殊な状況」がそうさせているのかはよくわからなかった。

 私は空っぽの教室へ入り、自分のロッカーを開く。何も入っていない。自分の机の中の一応確認してみるが、やはり何も入っていなかった。

「傘、無いな……」

 呟いて教室全体を見渡す。ここは補修室とは違って三十人分の机がきっちりと並べられている。左端の列の一番前にある欠落を除けば。机が整然と並んでいるせいで余計に目立つ欠けから私は目をそらした。一人でいると、どうしても嫌なことを思い出してしまう。手がロザリオに伸びる。

 思い出したくないことの代わりに、傘は教室でなければどこだろうかと考えを巡らせる。折り畳みの傘はいつも鞄の中に入れっぱなしにしていたはずだ。そうそう外へ出すものじゃない。家を出たときに持っているか確認したから、実は家に忘れていたというオチはつかない。あと可能性があるのは……。

「補修を受けた教室とか……?」

 どうだろう。いくらなんでも補修中に折り畳み傘を取り出すほどトンチキではないはずだけど。でも鞄から筆箱とかを出したりしまったりしているうちにこぼれ出たという可能性は無視できない程度にある。ほかにあてもないし、とりあえず行くしかないのだろう。

 あの長い階段をまた降りるのかと思うとため息が出るけど、仕方がない。高い学費をとる私学なんだからエレベーターくらいつけてくれればいいのに。

 私は心の中で悪態をつきながら階段を上から下まで降り切った。短時間のうちに昇降運動を繰り返したせいで息が荒れ軽くめまいもする。その疲れた足で再び忌まわしい補修教室へ向かい、扉の前へ立った。

 明かりの消えた教室は外から見ると一層暗く、死んでいるような静けさがあった。もう生徒も教師も退散したあとのようで、誰もいないらしい。英語のあとに数学の補修もやっているとかだったら授業をするなかを入っていかなければならず気まずい思いをするところだった。

 私はわずかながらの幸運へ感謝を込めて、教室の扉を開いた。直後、むわっと湿り気がこちらへ流れ込んできて、生臭さが鼻をついた。

「……なに?」

 雨の臭い……ではないだろう。汗臭い運動部員がさっきまでここでたむろしていたという感じでもない。嗅いだことのない、けれど嫌な予感だけがはっきりと感じ取れる臭い。

 暗い雰囲気と不機嫌のせいで、妙な錯覚を起こしてしまっているのだろうか? 私はそうだといいなと願いつつ、教室の電気をつけた。


 まばらな机を押しのけるように、教室の真ん中で人が死んでいた。

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