第1部 姿なき墓標
第1章 アンチェイン・マイ・ハート
1-1
少女は母を見ていた。
母は化粧台の前で髪をとかしていた。
母の美しい赤髪にクシが通されるたびに、髪は濃淡の赤で輝いた。
母は言った。
「可愛い子、よくお聞き。女の子は常に可愛らしくないといけません。そうすれば、ご主人様が私を見初めたように、お前にも素敵な人が現れるでしょう」
少女は母を見ていた。
母は鏡の前で美しいドレスを着ていた。
母が廻るたび、可憐な花がひらひらと咲き誇っていた。
母は言った。
「可愛い子、よくお聞き。女の子が美しくあれば毎日が楽しいのよ。朝露に咲く花のように、新鮮な気分で朝を迎えるられるの」
少女は母を見ていた。
母が外に出かけるといつも男たちが彼女の前に現れた。
男たちは花に群がるミツバチで、けれど花に蜜を与え続けた。
母は言った。
「可愛い子、よくお聞き。女の子が美しくあれば何不自由なく生きていけるのよ。だからお前も私のように、いつも誰かに見られていると思って生きなさい」
少女は母を見ていた。
母は鏡の前で化粧で自分の顔を塗りつぶしていた。
母は魔法を解こうと追いすがってくる時間と戦い続けていた。
母は言った。
「お前がうらやましい。お前には若さがある。女は若さを失えば何もない。私はすべてを失おうとしている」
少女は母を見ていた。
少女は思う。母は呪われていた。
ずっとずっと呪われていて、自分に教え諭したあの言葉も呪いだったのだと。
少女には、母が少しづつくすんで消えていく汚れのように見えた。
母は言った。
「ねぇ、ご主人様。私、綺麗でしょう? ご主人様のために、私はもっと綺麗になるんだよ……。」
女は母を見ていた。
母はもう何も言わなくなった。
母は永遠に夢の国の住人になったから。
女は知っていた。もうあの男が私たちを救いに来ることなどない事を。
自分に残されたのは、
女は言った。
「母さん、私は貴女の望む様にもアイツが望む様にも生きない。私は誰にもすがることなく一人で生きる。誰とも分かち合う事のない時間の中、ただ一人で。ただ一人で生き、ただ一人で死んでいく。それが貴方たちが私に遺したものだから」
――――――――――――――――
――嫌な夢を見た。その上ひどい頭痛だ。昨晩火酒を飲みすぎたせいだろうか。
そう思いながら女が頭を振ると、銅鑼をぶっ叩いたような音が鳴り響くのが聞こえた。だが、どうやらそれは耳からではなく、直接頭の中で響いているようだった。
やたらと重い瞼を開けるが、どうも焦点が定まらない。
何度かゆっくりと、瞼で目をこするようにしっかり瞬きをして目を開ける。
ゴブリンの群れが自分を囲んで見下しているのが見えた。
自分が寝転がっているのも、自室のベッドなどではなかった。野外の硬い地面の上、照りに照った太陽の下だった。
――少しまずい状況にあるのではないだろうか。
女は状況を訊ねるために声を出そうとするも、猿ぐつわでくぐもった声しか出なかった。
しかも、体は入念に縛られ完全に身動きが取れなくなっていた。
ゴブリンたちは、女が意識を取り戻したことを知るとより一層色めき立つ。
そして女を担ぎ上げブナの木の根本へと運び、小麦が詰まった袋を港の水夫がそうするように乱暴にそこへ放り投げた。
女がブナの木を見上げる。一番近い枝にはロープがくくりつけられていて、その先端は輪っかになっていた。
どうみてもブランコをして遊ぶには高すぎる。何よりそんな悠長な状況ではどう考えても違う。
――どうやらかなりまずい状況にあるようだ。
ゴブリンたちは興奮しながら言葉を発する。それが言葉なのか鳴き声なのか皆目見当がつかなかった。
ゴブリンが地面に転がっている女の方を向きながら喚くので、締りの悪い口からは体液がだらしなくこぼれ落ちていた。女は縛られているという身の危険よりも、ゴブリンの唾液がかかることを心配した。
ゴブリンの緑がかった体液には特に毒性があるわけではないない。だが、やはり不快なことに変わりはなかった。
女が顔に集中していると、群れの中の一匹が女の足首に荒縄を括り付けているのに気づいた。縄のもう片方の端は牛の首に繋がれている。
どうやら牛に女の胴体を引っ張らせて首を千切らせるつもりらしい。
ゆっくり意識を失うのではなく、死の直前まで四肢が断裂するほどの苦しみを味あわせる魂胆なのだろう。
恐怖を通り越して感心する残虐さだと女は思った。
ゴブリンの残虐さを象徴する有名な逸話では、酒造業者の馬車を襲った際、へまをやらかした仲間をその場の気分で殺して酒樽に詰め込んで酒場に売り込み、酒が飲み干されるかもしくは味の異変に気づいた時に死体が見つかるよう仕組んでいたというものがある。
ゴブリンにとってそれは別に深い意味などない。彼らは気の利いたジョークのつもりでやっているのだ。
女は考える。自分は今現在、何故そんなゴブリンに取り囲まれるような状況に陥っているのだろうかと。
朦朧とした彼女の頭の中では、ここ最近の一連の出来事とそれにまつわる人々の顔が代わる代わる浮かんできていた。
ゴブリン、東方民族、ヘルメス侯、タバサ、ロラン、ディアゴスティーノ……。
事の始まりは、ディアゴスティーノからだった。
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