ウェヌスの失笑
下村りょう
ミッドナイトの夜伽
「いってきます」
ヒールを鳴らす音と共に、その声を狭い1Kに響かせる。
私以外に人のいないこの部屋には、私の声に返事をするものなどいない。
苦学生だった大学時代から添い遂げていたあなたでさえ、返事をすることはないのだ。
返事のない部屋をあとにして、満員電車に乗り、会社に行って、仕事をしていても、考えるのはあなたのことだけ。
仕事で失敗をしてしまっても、女上司に延々と小言を言われても、イケメンと噂されている同僚が下心を孕んだ目で私を食事に誘っても、私の心にはいつもあなたがいる。
だからなにもかも平気。だって、私の心にいつもあなたがいるということは、あなたが常に私をあの柔らかい体躯で抱擁してくれているということだもの!
定時で仕事を終わらせて、スーパーで上等なお肉を買う。
今日は特別な日。私とあなたが初めて出会った日だから、奮発して普段なら絶対買わないようなものを買ってみる。お肉、シャンパン、一切れのケーキ。あなたはその内の一つも食べられないのが残念だけれど、これからも一緒にいられますようにという儀式のようなものだから、あまり気にしないことにしている。
アパートの少し錆びた鉄骨階段を、ヒールで音楽を奏でるように駆け上がって。
「ただいま!」
そうして私は返事をしないあなたの元へ帰るのだ。
「今日は私たちの記念日でしょ? だからお祝いしようと思って色々買ってきたの!」
あなたに擦り寄って、外気に曝された手で触れる。手袋もせずに1日を過ごした私の手はとても冷たいだろう。
でもあなたはもっと冷たいのね。
私とあなただけの小さなパーティを終えて、片付けを済ませた私は、冷えた満身をシャワーで温めた。ここから、やっとあなたとの夜の時間が始まるのだ。
着替えた私は髪の毛を乾かすことにさえ横着を決め込んで、あなたの上に体を預ける。湿り気を帯びた息を吐いてあなたの体に顔を埋め、ぎゅっと抱きしめる。今の今まで冷たかったあなたは、私の体の熱を全身に伝導させて、やがて私より暖かくなっていく。
そしてあなたは私の意思と手よって私に覆いかぶさる。
さみしくはない。とても幸せだ。
毎日のこの時間があるから、私は昼間の仕事に精を出すことができるのだ。
夜にはあなたに癒されることを知っているから。
嫌なご近所付き合いにも参加できるのだ。
たとえ失敗したとしても夜にはあなたが慰めてくれるから。
あなたと離れる時間を惜しく感じ、どうしてもあなたの元に戻りたい衝動に駆られても、家に帰ればあなたがいることを私は知っているから。この時間は誰にも壊されないことを知っているから。
だから私がいくら話しかけても返事をしない、私がいなければすぐに冷たくなってしまうあなたのことを、私はいつまでもいつまでも、愛し続けることができる。
この7時間を大事にしているの。
「おやすみなさい」
すっかり私の体温に染められたあなたに話しかけて、私は意識を現実から切り離す。
おやすみなさい。オフトゥン。
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