第19話 邪×負=堕落
「なん、で……っ!」
誰にも止められなかったのをいいことに、隊舎を抜け出した咲はその足で
戦闘の跡を色濃く残したこの場所は、千聖や咲、それに凌我らの攻撃の余波でところどころ焦げたり地面がめくれたりしており、ボートのPRが謳われた旗は根元からぽっきり折れてしまっている。
修繕にいくらかかるのか考えるだけで頭が痛くなりそうだが、幸か不幸か咲にはそんなことを考える余裕はなかった。
「どうして、あいつにばかり……」
形だけはギリギリ保っているベンチに腰掛ける。キィキィという耳障りな音が聞こえたが、それがベンチと心のどちらの軋みなのかもはや分からない。
何分、あるいは何十分そうしていただろうか。頭を抱え、ずっと理不尽を呪い続けていた咲の耳に誰かの足音が聞こえてきた。
誰だろうか、誰であれ、これ以上無様な姿は見せたくない。
「すまない、すぐに戻――」
「無理しないでいいですよ、
浅木か、あるいはその取り巻きか。迎えに来たのが誰か何人も候補を考えていたが、彼はその候補に入ってはいなかった。
というよりも、もっともありえない可能性として最初に切り捨てていたほどだ。
「佐藤、悠一……? どうしてお前がここに……」
「どうしてって、様子がおかしかったから見に来たんですよ。……隣、いいですか?」
返事も聞かず彼は咲の隣に腰かける。自然なその動作を彼が行っていることがなにより不自然に思えて、咲は疑問を口にしようとするが。
「
先回りして言われてしまった内容は、決して無視できるものではない。
開きかけた口を強く閉じると、咲は逃げるように悠一から視線を逸らしてしまった。
「……お前には、関係ないことだ」
「そんなことないですよ。……良かったら話してくれませんか? 護堂院さんが火野さんにこだわる理由と……これから、どうなってほしいのか」
「聞いてどうする」
「こういう時って、心の中を全部話すと楽になるって言うじゃないですか。ただそれだけで、どうするつもりもないですよ」
悠一と二人で普通に話しているという異常性からか、彼の言葉がしみのように胸のうちに黒く広がっていく。
「……私は、あの人に最強という役割を押し付けているんだ」
やがて、心の中のどろりとしたものを言葉にして吐き出すように、重い声音で話し始めた。
「護堂院……私の家がどんなものかは、お前も知っているだろう」
「……すっごい金持ち?」
「せめて資産家と言え。……だがまあ認識はそれでいいか。私はそこの次女だ。上には姉が一人いる。……私は長女でなく次女として生まれてきてしまった」
意味深なそのセリフに、けれどその意味をくみ取れなかった悠一は首を傾げた。それを予想していたのか、咲は怒るでも呆れるでもなく、淡々とその続きを話す。
「私の家にとって長女か次女か……つまり『一番上』か『二番目以下』かというのは大きな問題だった。護堂院家の家督は代々男女関係なく、最初に生まれてきたものに継がれてきたんだが……」
そこで咲は小さく言葉を区切ると手のひらへ前に出すと、そこに小さな球状の水を作り出した。水は丸い形から正方形、円柱、ひし形と単純な形状を経て犬や猫といった動物の形になる。
液体という不安定な物質を固定し、思い通りの形状へ変化させる。
咲がいともたやすく行って見せた小技は、その規模の割に難易度最高クラスの超絶技術である。
それはつまるところ、ツキモノを制御する咲の能力の高さと、ツキモノ自体のランクの高さを示していた。
「私は次女で、影に徹しなければならない運命だったのに……手にした力は大きすぎて、私が影に生きることを許さなかった」
「それは、どういう……?」
「ツキモノはランダムに人間に憑く。そこに血筋は一切関係ない。……私の両親も姉も、ツキモノは三人ともがCランク。そんな中にSランクのツキモノを憑かせた私が生まれてきた。……その結果、両親は特例的に私に家督を継がせることを決めた」
「いいことなんじゃないですか?」
「悪夢でしかなった」
感情を押し殺すように、どこか遠いところを見ながら呟いた咲は自嘲的な笑みを浮かべていた。
咲は、この心の底に残り続ける淀みを誰かに話したことはない。
弱っているとはいえそれをまさか、散々見下してきたD組の生徒に話すことになるとは思っていなかった。
ここでやめようと思えば止められたはずなのに、咲は淀みを吐き出し続ける。
「両親からは過度な期待を、周りからはツキモノだけで選ばれたという偏見を、そして姉からは……姉が手に入れるはずだった栄光を奪い取った私への、思いつく限りの罵倒を浴びせられた。その全員が、私の人生に淀みを作った奴ら全員が……私ではなく、Sランクというツキモノしか見ていなかった……!」
彼女の手のひらにあった美しい水の芸術は、いつの間にか弾けて土の中へ消えていた。それを複雑な表情で睨みつけながら、咲は必死に涙をこらえた。
たとえ弱音は吐いたとしても、涙だけは見せない。彼女なりの意地である。
だとしても、自分が今とても弱っていると思われることを咲は承知していた。
メッキのはがれた自分に悠一がどんな言葉をかけてくるか、想像ができない。
数秒にも数分にも思えるような時間が経つ。やがて悠一が弱さに折れかけている咲にかけた言葉は。
「だから、自分をちゃんと見てくれる火野さんに入れ込んでるんですか? ありきたりな話ですね」
優しさなど欠片も含まれない突き放すようなものだった。
「ずいぶんと綺麗な理由で悲しむんですね。もっと人間らしく薄っぺらくて自分のことしか考えていないような汚い理由かと思ってました」
冷めた目で咲を見下ろしながら、抑揚のないトーンで悠一は話す。
見限ったとばかりに彼は席を立ち、咲から離れようとする。そんな悠一に対して咲は、反論ではなく肯定を返した。
「意外と私のことを理解しているんだな。……お前の予想通り、そんな綺麗な理由で私はあの人のそばにいるんじゃない」
「……へえ」
ピタッと悠一が足を止める。
悠一がどんな表情でそう漏らしたのか、俯いたままの咲は確認しない。
彼の顔を見たくないからではない。自分の顔を見られたくないから。
「私を見ているかツキモノを見ているかなんて、もうどうでもいい。私はもう誰にも見られたくない。好意も悪意もいらない。私は……私は、今度こそ誰かの影として生きたかった!」
「だから神が憑いた火野さんを?」
「ああ! 私は千聖さんに入れ込んでいるわけじゃない!千聖さんの影になるために……いや、千聖さんのツキモノの影になるために傍にいるだけだ!」
護堂院咲という個人を無視し、強力なツキモノだけを見ていた奴ら。自身を追い込んだ人間と全く同じことを、彼女は千聖に行っている。
その行為がどれだけ他人を苦しめるのか、涙を流すほど理解しているというのに。
「千聖さんは私がようやく見つけた光なんだ……私をこの苦しみから解放してくれる希望なんだ……! なのにあの男は私からその光を奪おうとする! あいつを千聖さんから遠ざけたいのも、千聖さんの名誉のためだなんて綺麗な理由じゃない! 私の光を奪われたくないだけだ!」
淀みが黒い感情となってとめどなく湧き出てくる。
行き先を失った感情は彼女の口から憎悪となって吐き出されていく。
自分のことしか考えていない、醜くて愚かな言葉の数々。自身の弱さを隠していたメッキが、一言話すたびに剥がされていくような感覚。
すべてを言い終わった後、初めて自分の弱さと向き合った咲は……自分という存在の汚さに耐えきれず涙を流していた。
「弱いんだよ私は……。他人のために動いたことなんてない、私は私のためだけに生きてきた。……私がこんなに弱いから千聖さんも篠宮を――」
「そんなことないですよ」
自分の弱さと初めて向かい合い苦しむ咲に、彼女の正面に立った悠一がそう声を掛けた。
彼女がこれから強くなるための優しく温かい言葉――ではなく。
「もっと弱く生きればいいじゃないですか」
その言葉は、堕落に誘う甘美な響きを伴っていた。
「人間なんて誰しも弱さを持っている人間ですよ。あなただけじゃない、火野千聖だって篠宮凌我だって弱さを持っている。だったらあなただけが強くあろうとする必要なんてないじゃないですか。もっと自分に甘くいってもいいんですよ。弱さを認めてそれを乗り越えるのは素晴らしいことなんかじゃないんです。弱さを認めて、もっと弱さに溺れればいい。人間は弱くあるべきです。もっともっと、どうしようもない生物であるべきなんですよ。だからあなたもその弱さを否定しないでください。自分のことしか考えていない? 最高じゃないですか! 人は自分という個をこの世界に残すために生きているんですから! あなたは自分の弱さに誇りを持つべきだ! 愚かで醜くて浅はかで生き汚い! それこそが人として正しいあり方なんですから!!」
狂気。
悠一の言葉が咲の言葉に届けるものはそれしかない。
大切なねじが外れてしまっているような言葉のそのすべてが、佐藤悠一という人間を人間でない何かに貶めていくような感覚。
拒否するべきだ。拒絶するべきだ。お前とは違うと声を荒げて叫ぶべきだ。
理性はそう告げている。だが、人としての弱さが彼の言葉に歓喜してしまっている。
「彼女の人格になんて興味を持つ必要はない、彼女のツキモノの影として一生を費やすことに生きがいを感じればいいんですよ! 火野千聖に依存すればいい! 篠宮凌我を思う存分憎めばいい! 篠宮凌我を消して火野千聖を自分だけの光にすればいい!! だから……だからこそあなたはこの手を取るべきだ!!」
ゆっくりと顔を上げた先、視界に映る悠一の笑顔は、悪魔のように優しく、天使のように凄惨で。
彼が自分に差し出す手が、まるで救済のようにすら思えてしまう。
「俺と一緒に――篠宮凌我を消しましょう?」
その手を取れば人として戻れなくなる。
けれど――彼女はその救済に手を伸ばさずにはいられなかった。
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