俺の先輩は

司田由楽

正義の味方なんかじゃない

第1話再会

『優しいな、シノは』

 不本意ながら一番記憶に残っていたのは、妙に穏やかで優しくて、それでどうしてか寂しげな笑みだった。先輩の表情の中で一番苦手なやつを鮮烈に覚えているというのは当たり前と言えば当たり前なのだろうが、皮肉というか、なんだか空しい話だ。

 そしてどうしてそんなことを思い出したのかというと、斜め向かいに座った人がやけに先輩に似ててこっそり観察していたら、やけにも何もどうやら本人らしかったことに気付いたからだ。カツ丼を食べる手を止めておそるおそる尋ねてみることにした。

「皆方(みなかた)先輩?」

「んむっ? ……えっと」

 つるんとうどんを吸い込んだ先輩がちょっと困った顔をしたのを見て、苦笑交じりに名乗る。

「高校の後輩だった品川です。品川(しながわ)広夢(ひろむ)」

「しながわ……あっ……シノ、か?」

 うっすらと記憶に残っていた声にあだ名で呼ばれ、懐かしさに口元が緩む。

「そのあだ名は結局誰にも呼ばれませんでしたがね……お久し振りです、先輩」

「ああ、久し振り。……まさか、こんなところで会うとは思わなかった」

「俺も予想外でした」

 漂う空気が若干ぎこちないのは仕方ないことだろう。なんせ二年は会っていなかったのである。俺が入部して半年たった時、陸上部でトップレベルの実力を持ちながら突然辞めてしまったこの人――皆方秋先輩は、ありとあらゆる部員を徹底的に避けてひっそりと卒業してしまったのだ。この人の進路は誰一人知らなかったが、まさか俺と同じ大学に進んでいるとは。奇妙な偶然もあったものだ。

「大学にはもう慣れたか?」

「まあまあですかね。授業が長いのはまだ慣れないんですけど」

「そのうち馴染むさ。サークルは何か入ったのか?」

「いろいろ見て回ってるんですけど、まだ決めかねてます。先輩は?」

「今は特に何も。バイトが忙しくてな」

 最後の一口を食べ終えた先輩は、ナプキンでさっと口元を拭うとてきぱきとトレーの上を整理して立ち上がった。

「用事があるから失礼する。講義があるなら遅れないようにな」

 そう言ってさっさと立ち去ってしまった先輩の背中を俺は呆けたように眺めていたが、連絡先くらい聞いておけばよかったな、と思った時には、その人は影も形も見えなくなっていたのだった。


 予想外の再会を果たした余韻でぼんやりと午後の講義をやり過ごし、駅前の本屋で漫画を買って帰る途中、見たこともない団体が演説しているところに出くわした。

 小さな子供が退屈そうに立っているのが少し気になって足を止める。何の話をしているのだろう。募金活動か何かだろうか。普段見る団体とはまた違う顔ぶれだ。

『日本ではまだ、これらの症状についての理解は――』

 演説の途中から聞き始めたものだから、何の話をしているのかよく分からない。病気か何かだろうか、と適当に推測して突っ立っていると、子供と目が合った。どうしよ、と一瞬迷ってぎこちなく笑ってみると、ふいと視線をそらされてしまった。まあそうなるか。

『同じ境遇の人たちのために私たちは――』

 真摯で、必死な声だった。それでも足を止めて聞いている人は決して多くはなく、俺もじんわりと興味が薄れていくのを何となく感じ取っていた。

 くるりと帰り道に足を向けた途端、爆発音が鼓膜を叩いた。一瞬遅れて悲鳴が上がり、ざあっと人の流れが止まる。爆発音がした方を向くと、さっきまで演説を聞いていた人が倒れている。

「救急車っ……!」

 携帯を取り出そうとして、更なる悲鳴に振り向かされる。今のはまるで、子供の泣き声みたいな……!

 現実味のない光景に、ぞっと背筋が凍る。覆面で顔を隠した男たちが、さっきまで演説していた女性と子供を取り囲んでいる。泣き叫ぶ子供から引きはがされ、女性は金切り声を挙げている。繰り返しているのは、もしかして子供の名前なのか。いや、そんなことより警察を!

 固まりかけた思考を慌てて動かして、携帯を取り出す。一一〇番、と打ち込んだところで、逃げようとした誰かにぶつかって携帯が吹き飛ぶ。拾いに行こうとした寸前に、かすかな声を耳が拾った。拾ってしまった。

「たすけ、て」

 幼い、小さな泣き声だった。ざわりと全身の毛が逆立つ。そうだ、今警察を呼んだところでどうなる。間に合う保障は、あの子が助かる保障は? だって今にも連れ去られるところだってのに! ぐっと足を踏み込み、手を伸ばそうとしたその刹那。

「シノ、伏せろ!」

 凛とした声に脊髄反射で膝をつくと、頭上を突風が走り抜けた。頭を庇いながらどうにか顔を上げると、まず最初に目に痛いほどの赤が視界を横切った。覆面男に勢いよく体当たりして、ふらついた足をすかさずすくって転ばせる。子供を抱き上げて一番近くにいた俺に押し付けると、体勢を立て直す隙も与えず拘束する。そのまま間髪入れずに地面に転がっていた拳銃を勢いよく踏み潰した。細かい鉄のかけらが飛び散り、見て分かるほどに銃身が歪む。

 呆然と座り込む俺を、黒い覆いに隠された目がじっと見下ろす。顔全体を覆う赤と黒のスリムなヘルメット。赤色の地に黒のラインが走るライダースーツのような服には、関節や胸を守るためのものかシルバーの装甲のようなものがついている。

「怪我は?」

 短い問いに首を横に振ると、その人はしっかりと頷いて踵を返した。もうこちらを振り向くことさえしない。

「武器を捨てて投降しろ! お前たちはすでに包囲されている。大人しくしていればこれ以上の危害は加えない」

 厳しい声音での警告が覆面たちに叩きつけられる。包囲されているという言葉の通り、パトカーのサイレンがけたたましく鳴り響き、武装した警察官が周囲を取り囲んでいる。それでも覆面たちはどこか迷いのある動作で、敵意を、武器をその人に向けた。ふっと短いため息が聞こえる。

「ダメだ。許可を。安全の確保が最優先だ」

 その呟きから短く間をおいて、その人は小さく頷いた。

「ありがとう。気を付ける」

 たっ、と地面をける音がして、赤い影が走り出す。腰のベルトに差してあった警棒を素早く引き抜き、近くにいた男の小銃を叩き落とした。バランスを崩してよろける男の腕を取って引きずり倒す。どういうわけか、倒された男はしばらく身動きが取れないようで這いつくばったまま呻いている。

「っあぶな……!」

 警告の声が届く前に、まっすぐに飛んできた瓦礫を握った拳で弾き飛ばし、振り向きざまに警棒を投げつける。

「うぉっ……!」

 警棒をかろうじて避けた男に、距離を詰めた赤い風が襲い掛かる。

「抵抗するな、と言っている!」

 そこはかとなく苛立たしげな叫び声をあげたその人は、覆面の胸ぐらをつかんで引き寄せ、勢いよく頭突きをかます。がくんと膝を折った男を軽く揺さぶって、赤い怪人はよく通るアルトで冷たく尋ねた。

「主犯は君だな。適合者が一人しかいないうえに、こんな雑なやり方で人攫いだなんて……どれだけ切羽詰まっているんだ。独断か?」

「うるせえ! 警察の犬め、お前みたいな奴がいるから、いつまでたっても理解されねえんだ!」

「警察に協力はするが、私の所属は組合だ。根拠のない言いがかりは止してもらおう」

 ダメ押しのように頭突きをもう一発。白目をむいた男をそっと地面に横たえさせると、駆け寄ってきた警察官の問いに答えてどこかへ行こうとした。

 その背中が昼に見たものと重なって、考えるより先に口が動いていた。

「先輩! 皆方先輩でしょう!」

 手に縋りつき、声を振り絞って引き留める。今のは、今のはなんだ!? 聞き覚えのある声、見覚えのあるフォーム、そして、俺を呼んだらしきその呼び方! じっと見つめるとその人はふらふらと首を横に振った。

「違う」

「他の人が呼ばない呼び方しながらしらばっくれんのはやめてください! 何着て何してるんですかアンタ!」

 周囲の人たちや警察官がざわついたのが分かったが、そんなことには構っていられない。

「だ、だから私は違うと……」

「嘘つくならそんな分かりやすく動揺しないでほしい! 説明してくださいよ、アンタ、いったい何者なんですか!」

 怪傑……じゃなくて先輩(仮定)は振り払おうにも振り払えないと言った様子でぐずぐずしていたが、不意に耳に手を当ててぼそぼそと何かを呟いた。

「なに……いや、彼は……しかし……むむ……」

 ちら、とメット越しの視線を向けられて背筋が伸びる。

「シノ……いや、品川。今からついてきてほしい場所がある。そこで全て話す」

「やっぱり、先輩なんですね」

「そう連呼するな」

 短く吐き捨て、膝立ちになっていた俺をぐいと引き上げて立たせると、先輩は額がくっつきそうなほどに顔を近づけた。

「そこでのことは他言無用、絶対に話さないこと。分かったな」

 低い声で念押しされ、慌てて首を縦に振る。感じたこともないような迫力だった。何が何だか分からない分、漠然とした不安が募るばかりだった。

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