第15話
十年と少し前。エドガー・コルネリウスは入門仕立てのエクソシストであった。
年齢で言えば二十歳を少しばかり過ぎた頃。成人はしたと言っても、経験値だけで測ればそれはまだまだ子供と同じ。聖職者という肩書を持ったとしても、まだまだ「人間」としての欲を捨て切れていなかった。
若いエドガーは、とある聖職者についていた。
彼の名をドナテロという。
ドナテロは頭の禿げかけて腹の出た中年の男だった。決して美しい容姿ではなかったが、人脈に恵まれた人望に厚い、人格者であった。
ドナテロはことあるごとにエドガーにこう語りかけた。
「エドガーよ、俗物を捨てなさい。愛に生きるのだ。全ての生き物を愛し、慈しみ、死に感謝を述べるのだ。そうすればきっと、新しい道が開けるであろう」
「先生、なぜ死に感謝をせねばならないのですか」
「植物、動物、人間、虫。地球上に生まれ落ちたものは、いつの日か必ず死を迎えるときが来る。病、事故、あるいは殺人。その方法は様々でも、いつか必ず天に還らなければいけないときがやってくる。これは摂理だ。神々が私たち生命に唯一平等に与えた権利なのだ。命が誕生し、人生を全うし、天に還る。それはすなわち、神の子に戻るということだ」
「……つまりは一仕事を終えてお疲れ様でした、家に帰っていいですよ、ということですか?」
若いエドガーの解釈に、ドナテロは困ったような表情でぴかぴかの額をつるりと撫でた。
聖職者ドナテロは人望に溢れていたが、若いエドガーには少しばかり頼りがいのない弱い中年に見えて仕方がなかった。
なにせ彼は、浮浪者と間違えて強盗を招き入れ金品を持っていかれる、道端で倒れていた浮浪児に騙されて追剥に合う、はたまた痴呆の始まりかけた老婆に脛を蹴られぎっくり腰になったということもあった。
エドガーはドナテロを信頼していたし尊敬していた。けれど、それ以上に頼りないと感じていた。
更にエドガーは、聖職者として祈りを捧げるばかりの日々に少しばかり飽きていた。それはそうだ、いるのかいないのかわからない神々に祈りを捧げることで、本当に誰かが救われることなどあるのだろうか。
「先生、神様は本当に私たちのことを見ていてくれているのでしょうか」
「ああ、エドガー。神様はあの白い雲の向こうから、私たちの行いをずっとずっと見ているのだよ」
「私たちは一体いつ救われることができるのですか?」
「エドガーよ、それはとても難しい質問だ」
「なぜですか?」
「それはね、神のみぞ知る、というやつだよ」
ふふ、と顎髭を撫でる上司の言葉は、若い彼にはわからなかった。彼がその言葉の真の意味を理解するのはもっと先だ――本当に、心の底から後悔するほど、知ることとなる。
その日は突然やってきた。
ある日エドガーがいつものように庭の掃除をしていると、いつになく厳しい表情をしたドナテロが呼びに来たのだ。
「エドガー、すぐに出る。支度をしなさい」
「出る? 出るとは、どこに行くのですか?」
「いいから黙ってついてきなさい。さぁ、早く」
ドナテロと共に馬車に揺られてどれほどか、到着したのは民家であった。塀があり、庭があり、ブランコが揺れている、どこにでもある二階建ての一軒家であった。
珍しく速足で歩くドナテロについて家に入る。そこにいたのは夫婦であった。
「お願いします、もう、一週間もあんな状態で……様々な医者を試しましたが、なにも手の施しようがなくて原因が不明で」
「私たちはもう、ドナテロ先生しか頼れる人がいないんです。どうか、どうか、息子を助けてやってください」
剥げかけて腹の出た中年男性に抱き付いて泣きわめき助けを請う夫婦は、一見したら気が狂っているようにしか見えなかった。いや、事実、十年経ってから考えると、この時すでに、彼らの気は狂いかけていたのかもしれないが。
夫婦の導きにより、エドガーとドナテロは二階にある部屋を訪れる。その扉には、ポップなネームプレートでこう記されていた。「ウィリアムの部屋」と。
その扉のポップさとは裏腹に、部屋の中はひどいものであった。倒れて中身が飛び出た箪笥。端から端まで吹っ飛んだとしか思えない体勢で寝ころんでいる学習机。中身の入っていない本棚は真っ二つに割れた状態で放置され、床一面に本や衣服が散乱している。そして、液体。緑色の――カエルを押しつぶせばこんな色が出来上がるのではないかというような緑色が、あちらこちらに点在していた。
そんな、やんちゃというには散らかしすぎている部屋の中心にベッドがある。今は様々な液体で汚れているが、元々は綺麗なベージュなのだろうと勝手にエドガーは推測した。
あちらこちらに散乱した衣服と本を踏むことなど躊躇せず、ドナテロはベッドに近寄った。少年がいる。両手両足を縄でベッドに拘束され、身動きのひとつも取れぬようにされた少年が、そこにいた。
「君がウィリアム君かね?」
ドナテロの呼名に、ウィリアム少年はごほり、と緑色の液体を吐いた。人体から排出されることは決してないであろうその液体は、どろどろという粘着性を帯びてシーツに飛び散り染みを作った。
「夫妻がこうしたようだ。縛り付けないと暴れるからと言って」
ドナテロの言葉に、エドガーは部屋の外で待機している彼の両親を思い出す。顔に痣のできた母親。眉の上の切り傷。ぐるぐると腕に包帯を巻きつけた父親は、口元に絆創膏を貼り付けていた。四十路にもなっていないであろう若い夫婦のはずなのに、その顔は疲れきり、恐怖で怯えているようだった。
倒れたデスクの下に写真が落ちている。活発そうな黒髪の少年が、仲間たちと腕を組んで笑っている。屈託ない笑顔だ。だがどうだ。今こうして目の前にいる少年は、黒い髪をぐちゃぐちゃに振り乱し、顔にいくつもの傷を作り、血管を浮かし、殆どぼろきれと化しているような寝間着をなんとか羽織っている状態だ。写真のような年相応の愛らしさなどどこにもない。。
あまりの状況に近づくことのできないエドガーを置いて、ドナテロは倒れた椅子をベッドの脇に置いて腰を掛けた。それからフーフーと荒く呼吸をする少年の名前を呼ぶ。
「気分はどうだい? ウィリアム」
ドナテロの呼名に、ウィリアムは凶悪に白目を剥いて、折れるのではないかというくらい力を込めて歯を食いしばり、緑色の液体を吐いた。自然界にはあり得ない粘着性を帯びたそれは、べちゃりとドナテロのローブにかかった。突如湧き上がってきた胃液に、エドガーは思わず口を押える。が、ドナテロはそんなこと気にしないという様子で、続けた。
「君がとても悩んでいるという話を聞いてやってきたんだ。お父さんとお母さんは、君のことをとてもとても心配している。何か悩みでもあるのかい? 私は君を救いたい。もし悩みがあるのだったら――」
ドナテロが全てを言い終わる前に、べしゃり! という音を立て、緑色の胃液が彼の顔面に叩きつけられた。
ウィリアムは今にも両手の拘束が切れてしまうのではないかというくらい激しく全身を震わせると、ゲラゲラゲラというひどく下品な笑い声を立てた。
「司祭! お前は司祭! クソ司祭! クズで役立たずでインポな司祭!」
ドナテロはローブの裾で大きく顔面の液体を拭うと、
「お前がウィリアムについている悪魔か」
「俺は悪魔! お前は司祭! 司祭! 司祭司祭司祭!」
トチ狂ったかのように笑い続けるウィリアムの顔は、十代の少年のそれではなかった。今にも飛び出しそうなくらい開き切った瞳孔もむき出しの歯茎もそこから伸びる白い歯も、すべて悪魔が持つものだ。
「お前の名前はなんだ。何が目的でウィリアムに憑りついた」
「ウィリアム! こいつの名前はウィリアム! 馬鹿で可哀そうなウィリアム!」
「お前の名前はなんだ」
「お前はこいつがどうして俺を呼び出したか知っているか!? 何を悩んでいたのか知っているか!?」
「お前の名前はなんだ」
「こいつは見た! こいつの親父が別の女とホテルから出てくるところを! 胸がでかい女のビッチなケツを撫でながらホテルから出てくるところを! 馬鹿なウィリアムは、自分のお袋が剥げた男と家でヤっていることを知っていた! 毎日自分が座っているソファで知らない男に跨っていることを知っていた! 馬鹿なウィリアム! 可哀そうなウィリアム!」
ゲラゲラゲラという笑い声に乗せられる卑猥な単語が、エドガーの心を破壊する。なんということだ、幼い子供は自分の家族を守るため、悪魔に心を売ったのだ!
「あいつは幸せになりたいと言った! だから俺は取り憑いた! あいつは絶望のどん底にいる! あいつはもう戻れない! こいつの体は俺が貰った!」
「……っつ! 子供の囁かな願いに付け込んだというのか!」
思わず拳を繰り出しそうになってしまったエドガーを、ドナテロが静止する。
「先生!」
「やめなさいエドガー。ここで暴力を振るったとしても、子供の体に余計傷が残るだけだ」
醜い顔で行われる口論に、悪魔の顔が更に快楽で歪む。
「あひゃひゃひゃひゃ! ウィリアムは俺のもの! ウィリアムはもう戻らない!」
耳まで裂けた口から涎を垂らし、びくびくと楽し気に体を跳ねるその姿に、思わず吐き気が催した。
「お前の名前はなんだ」
「名前はウィリアム! 俺の名前はウィリアム・レッドフィールド!」
「お前の名前はなんだ」
「俺はウィリアム! ウィリアムは俺! ウィリアムはもう帰らない! 帰らない!」
「お前の名前はなんだ」
幾度目かの質疑に、少年の姿を借りた悪魔はゲラゲラゲラというひどく下品な笑い声を上げた。そして、ふと事切れたように静かになり、告げた。
「ベルゼブブ」
と。
ドナテロは腹を括ったように表情を引き締めると、後ろで待機をしていた弟子の名前を呼んだ。
「エドガーよ、どうやらこの哀れな魂は、少年の体から出ていく気はないようだ。少々粗行事だが、無理やり出ていかせることにする」
「……儀式を行うということですか」
「ああ。本来なら本部の許可が必要なところだが、仕方がない。申請が降りることを求めていては、この子の体がもたないからな」
血管の浮いたその体は、ひどく醜く痛々しい――いくつもの切り傷と、擦り傷、模様なのかと訝るほどの痣の量は、大切に育てられてきた子供にはあるまじきものだ。
悪魔に取り憑かれた人間は、時間が長引くにつれて徐々に同一化していく。憑りつかれたらなるべく早く、迅速に、離さなければならない。
悪魔祓いに必要なものは、十字架と聖水、そして呪文だ。ドナテロの呪文は本であった。両手を聖水で清め、白い十字架を握りしめ、呪文を唱え始める。
「我々は神の子、地獄の敵天…父の名に於いて不純な魂を振り払う……この世に彷徨う哀れな子羊よ……親愛なる父の名に置いて、滅びの毒を与えることを停止する……」
神の祈りに反応するかのように、ベッドに拘束された幼い体がびくびくと震えた。指の先から首の裏まで青い血管がぶくりと膨れ上がり、形を見せる。見開いた瞳は一滴の光もなく赤く染まり、耳まで裂けた口から歯茎が姿を現した。ぐるん! と驚くようなスピードで首が回り、べしゃべしゃと汚水のように緑色の粘液を吐いた。人体から発生することのないはずのそれの中には髪の毛と蛆のようなものが混じっていて、うようよとフローリングの上を蠢いた。
「その汚れた鎖を断ち切るべき時が来た……邪悪なる窓から解放すべき魂よ! 聖なる祈りによりここから立ち去れ! ベルゼブブ!」
瞬間、少年の体が臍を中心に跳ねた。そして、力強く彼の両手足を拘束していたはずの縄が千切れ、宙に浮いた。少年の薄い腹の奥から、低い動物の唸り声が聞こえてくる――熊か、虎か、それともなにか別のものか――恐らくは、この世にはいない別のものだ。
少年の器を借りた悪魔は大きく体を痙攣させると、盛大に何かを吐きだした。今までのような、緑色ではない――黒く、大きく――虫の団体のようでもあった。それはまるで煙のように宙に舞い、少年の体を抱きかかえるように形作った。エドガーの目には、それが一つの悪魔に見えた。羽根が生え、牙が生え、ローブを羽織い、巨大な鎌を抱えた大きな悪魔――
それを前にした瞬間、エドガーの心には隙が生まれた。恐怖だ。足が震え、冷や汗が噴き出て、腹の底からじわじわと胃酸が湧き出てくるかのような、とんでもない恐怖。
悪魔は、エドガーの心に出来たほんの少しの隙間に気が付いた。そして、群れを作る一匹の悪意をこの若いエクソシストに送ったのだ――悪魔はあざとい。そして、誰よりも、人間よりも、人間の悪意や心の弱さを知っていた。
エドガーの心が悪魔に食われる寸前で、ドナテロが放った聖水が彼を守る。そして、彼の言葉が部屋全体に響いたのだ。
「我が主の言葉にてこの世を去れ! ベルゼバブ!」
神の洗礼を受けた悪魔はまるで霧が晴れていくかのように散らばっていった。部屋全体が竜巻に巻き込まれているかのようだった――気が付いたときには、宙に浮いたベッドも少年の体も、重力に正しく置かれていた。
「……神よ、あなたに感謝します」
十字架を握りしめ感謝の意を捧げるドナテロの後ろで、エドガーはぺたりと尻餅をついていた。その時彼は知ったのだ。悪魔の恐ろしさを。神の力を。そしてその存在を。目の前にいる、ドナテロという師の素晴らしさを。
未だ恐怖に震える心をなんとか奮い立たせ、床を這いつくばるようにしてベッドに近寄った。安らかな顔だ。白い頬に赤みが差し、まるで天使のようにも見えた。あの、恐ろしい悪魔の姿はどこにもない。どこにでもいる、十代のただの少年だ。
ウィリアムは何かに呼び起こされるかのように睫毛を震わせ、そっと瞼の封印を解いた。
「やぁ、ウィリアム。気分はどうだい?」
その、目覚めた彼の瞳に、エドガーは知った。
悪魔に取り憑かれた人間の行き先を。
ぱかり、と開かれた少年の瞳にエドガーが映る。
少年の瞳は、真っ赤な血の色に染まっていた。
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