2

 朝焼けの少し前。まだ夜を纏った冷たい風が吹く空が、ジェイドは一番好きだった。そろそろ春とはいえ、まだ凍えるほど寒い。弾くと高い音をたてそうな空に、そっと指を伸ばす。視界の端から端へ指を走らせる。そうしていくと、ある一点でちりんと言う音が耳に届く。指を止めた。ちりんという音はジェイド以外には聞こえない。だがその音は嘘を吐いたことがない。それは《ここ》という合図のようなものだと思っていた。

 くるりと、指をまわす。空に円を描く。そしてその人差し指に熱がこもったのを感じると同時に、素早く握りこむ。

 いつの間にか止めていた息を吐いた。周りにいた仲間たちが駆け寄ってくる。

「ジェイド、採ったのか」

「見せて見せて」

 ジェイドは少しだけ勿体ぶって微笑んでみせた。そうっと、手を開く。

 ――手の中に、空があった。

 正しくは、空を閉じ込めた石だ。たった今、ジェイドが空から採取した空の石。

 爪ほどの大きさだ。螢石に良く似た沈んだ藍紫をしているのに、透明度が高く澄んでいる。透き通った石の中で、藍紫は渦を巻くようにゆるやかにうねって動いている。摘んで空に掲げてみる。ちょうど昇り始めたばかりの太陽の光に、石は鮮やかに煌めく。

 周りに集った仲間たちの口から、感嘆の息が漏れた。

「すげえ綺麗だな」

「うん。さすがジェイドにいちゃんだな!」

 仲間内でも一番幼いアニルが、目を輝かせながら興奮した様子で言った。

 朝風が吹き付ける。街外れのこの丘は、採星屋たちがこぞって訪れる絶好のポイントだ。街は眼下に広がり、空を邪魔するものは何もない。もちろん、ジェイドもこの場所を好んでいる。ただひとつ難点なのは、風が強くて髪が乱れることくらいだ。

「すげーな、すげーな。ジェイドにいちゃんの石がやっぱりいっちばん、かっこいいな!」

「はは、ありがとう、アニル」

 興奮冷めやらないのか、白い息を吐きながら力いっぱいアニルが笑う。ジェイドは丁寧に切りそろえた自らの金髪を手で抑えながらくすりと笑った。

 ――当然だろう、と、思いながら。




 自分が特別だと判ったのは、十歳の誕生日を迎えた日だった。

 採星屋になれるのは、街の人間でもほんのひと握りだけだ。それは血でもなく、育ちでもない。ただ、才能と呼ぶに相応しい《何か》の力があるものだけがなることが出来る職業だ。

 だから、十歳の誕生日を迎えるとき街の住民は選別される。石を採り出せる者と、そうでない者とに。

 ジェイドはその儀式の時、ちりんというあの音を初めて聴いた。そしてその音に動かされるように空から石を採り出した。空から石を採り出せるものこそ、採星屋としての素質がある者だ。けれど、ジェイドは違った。それだけではなかった。

 その時、春の嵐が去った空から採り出した石は驚くほど鮮やかで美しかったのだ。

 石の鑑定屋が、言った。稀に見る才能だと。

 それから六年がたつ。未だに、ジェイドを上回る才能の持ち主は現れない。そしてたぶん、これからも。

 ジェイドは理解していた。自分は特別なのだ、と。

「ジェイド」

 呼びかけに、ジェイドは開いていた本を置いた。振り返る。扉の傍、つんつんとした短い茶髪に、人好きのしそうな顔立ちの少年が立っている。

「やあ、眞。何か用かい?」

 眞はくしゃくしゃ、と髪をかくと、どことなく皮肉げにくちびるを歪ませて笑う。――いつもの癖だ。

「石を見に来た。――何を読んでいたんだ?」

「詩集だよ。優雅だろう?」

「あー、はいはい。石は?」

「いつものとこだよ。何だい、その言い方」

「お紅茶を片手に古い詩集を読むジェイド様はとっても絵になってお美しくいらっさいますねっと」

「よく判ってるじゃないか」

 にこりと笑うと、眞が鼻を鳴らした。そのまま部屋の隅に移動する。ジェイドの部屋は物で溢れていた。古い型の螺子式時計、分厚い表紙の百科事典に詩集。水の膜で出来たシェードの洋燈に、いくつもの万年筆。そのどれもが《美しい》から集めたものだった。――正確には《美しい自分によく似合うと思ったから》だが。

 そしてそれらの片隅に、小箱がある。石はいつもその中に入れてあった。

 眞は白い布を取り出し、無造作にそれを手にとった。今朝採り出したばかりの夜明けの石だ。

「ふうん。小粒だな。相変わらずいい色だ」

「当然でしょ。今日はその大きさがちょうど良かったんだよ。そこ以外は美しくなかった」

「鑑定は?」

「済んでるよ。そっちに紙あるでしょ」

 眞が横にあった鑑定結果の紙を手に取る。顎に手を当てて、じっくりと考えこんでいる。

「どう?」

「東の星飾屋にあたってみよう。このサイズの星は最近あまりなかったからな」

「そう。任せるよ」

「相変わらず投げっぱなしだな、お前は」

「失礼だね、眞」

 少しだけ首を傾げてにこりと笑う。この角度が一番、自分が美しく見えると知っているから。

「僕は採星屋だからね。石を鑑定するのは鑑定屋、売買するのは眞、君のような渡し屋。そして飾るのは星飾屋。適材適所。僕は君を信頼しているだけさ」

 眞が右頬を僅かに歪ませた。

「よく言うよ。見下してるくせに」

「え? 当然でしょ?」

 ジェイドは驚いて、鮮やかな緑の目を瞬いた。

「だって僕は、最高ランクの採星屋だよ?」




「ジェイド様、今朝の石も美しかったんですって?」

「よう、ジェイド。元気そうだなぁ」

 街を歩くと、人々からよく声をかけられた。愛想は、安売りしたところで問題ない。ジェイドはにこにこと微笑みながら街を歩いて行く。煉瓦の道に、石造りの建物が並ぶ通りは人が多い。花壇にももうすぐ開きそうな花が植えられていて心地よい。

 ジェイドは空を見上げた。

 薄い水色の空は、春を迎える色をしている。雲は流れているし、陽射しはあたたかい。でもそれは、昼だけだ。夜になるとそこにあるのはただのっぺりとした、暗闇だけになる。

 昔話によると、馬鹿な子供と馬鹿な神のせいで星が失われたという。いまこの空に、本物の星が瞬くことはない。かつてはあったという大きな星――月ですら、見当たらない。ただそれを嘆く者はもういない。人は、手に入れたからだ。空から石を採り出す能力を。そしてそれを、飾る能力も。

 空から採り出した石は星になる。そして星は、星飾屋によって空に縫い付けられる。

 いま、夜空を飾るのは彼ら職人の作品だ。

 だが――それらの仕事は、誰でもつける仕事だ。それは美しくはない。最も尊いのは採星屋だ。

「ジェイドくん」

 ふいに、通りがかった太った男が声をかけてきた。煤けたつなぎを着て手には長いブラシを持っている。磨き屋だろう。美しくないな、と胸中でつぶやく。もちろん笑顔は崩さなかったが。

「こんにちは。お仕事、お疲れ様です」

「いやいや。星を磨けるのは本当に楽しいもんだよ。君の星は磨くと本当に美しく輝くんだ。本当に!」

「そうですか。ありがたいですね」

「素敵なんだよ、本当に! ああ。そうだ。ジェイドくん、君は見たかい? かささぎの新作を」

 かささぎ。

 男の口から飛び出た名前に、ジェイドは笑顔を危うく崩すところだった。

「いえ、興味もないので」

「いやいやいや、ぜーったい、見るべきだよ、本当に! あ、ほら。ねぇ、かささぎ!」

 男が、声を上げた。たまらず一瞬ジェイドは顔をしかめた。余計なことを、と胸中で呻く。男の視線の先、流線の美しい家の脇にその少女はいた。

 黒く長い髪。細く長い手足。飾り気のない白の装いに身を包んだ少女。

 かささぎだ。

 男の声に、かささぎは話していた少年から顔を上げてこちらを見た。相変わらず冷ややかな目だ。面立ちは美しいとジェイドは思っていた。だが同時に、いつも無表情でつまらないとも思っている。

 星飾屋かささぎ。関わり合いになりたくはない。だが、こうなったらそうもいかないだろう。ジェイドは得意の笑みを浮かべて、かささぎに歩み寄った。

「やあ、ご無沙汰。はかどっている?」

「普通」

 冷めた口調で言うと、かささぎはジェイドから視線を外す。視線を下に向け――そこで、ジェイドはようやく気づいた。

「アニル。何してたんだい?」

「ジェイドにいちゃん! あのね、石を渡してたんだ!」

「直接? 渡し屋は」

「オレのは、だってまだ、渡し屋ついてくんないからさ」

 アニルがへへっと恥ずかしげに鼻をかいた。なるほど、とジェイドは頷く。採星屋とはいえまだ未熟なアニルは、美しくない小さな、屑のような石しか採り出せない。それを商売道具にする渡し屋もいないだろう。

「かささぎねえちゃんは、オレの石も貰ってくれるからさ」

「綺麗だからね」

 かささぎがいつも通りの、つまらなそうな口調で言う。何となく面白くなくて、ジェイドは微笑んで見せた。

「アニルの石で綺麗だと言うのなら、僕の石を今度差し上げようか?」

「結構よ」

 かささぎが首を振る。

「貴方の石、美しくないんだもの」

 ――美しく ないんだもの。

 さすがに一瞬、ジェイドは笑顔を忘れた。かささぎを見つめてからもう一度微笑みを張り付ける。

「そうか。残念だよ。ではまたね、星飾屋かささぎ」

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