第9話 勝負ですわっ!!③
「黒鉄さん!」
呪詛が構築した世界の端。
そこで横たわっている人物に声をかけると、億劫そうにこちらを見た。
「やっと見つけた!なにしてるんですか!」
「居心地良くて寝てたんだよ」
「…色々思うところはありますが、私も人のことは言えないんでいいです!来てください!大変なんです!アメリアさんが…」
雛乃が言い終わる前に、背後で爆発音がする。
黒鉄が起き上がり、その音の正体を目で追った。
「なるほどな…」
真っ黒な
その美しい青い瞳は憎しみに満ちていた。
「っ…!」
(取り憑かれてる…!)
雛乃が肌に感じる悪寒に身震いをしながら、ごくりと唾を飲み込む。
「アメリアさんほど心の強そうな人がどうして…」
呪詛が生きている人間に取り憑くことは容易ではない。
雛乃が悠里にしたように自ら許可を出すか、心の弱っている者につけこむぐらいでしか彼らは身体を得ることができない。
ここは呪詛の領域で彼らに有利に働くとは言え、アメリアは専門家だ。
そうそう簡単に身体を明け渡すはずはない。
しかし現実アメリアは呪詛に取り憑かれ、その力はとんでもなく膨れ上がっている。
となりに召喚された狼も、先ほどの倍の大きさだ。
その状況下にも関わらず、黒鉄は通常通り指示を出した。
「…雛乃。お前はアメリアだ。俺は狼をどうにかする」
「えっ!?アメリアさんなら黒鉄さんの方が適任じゃないですか?」
「ならお前狼いけんのかよ」
「うっ…かと言ってアメリアさんもいけるかわかりませんけど」
雛乃の及び腰を無視して、黒鉄が銃を取り出し照準を向けた。
狼が唸る。
「さあ、お前に俺が殺せるか?」
「アメリアさん!聞こえますか!」
「どうして私だったの…私じゃなくても良かったじゃない」
雛乃の問いかけに返ってくるのは、アメリアの口から出てくるアメリアのものじゃない声。
快活な彼女の背中は曲がり、その表情は暗く狂気に満ちている。
雛乃がごくりと唾を飲み込んだ。
(駄目だ…深いところまで取り憑かれてる…)
それでもこのまま雛乃が矢を射れば、アメリア自身の体に傷をつけることになる。
場所を誤れば重症か、もしくは死につながるかもしれない。
「……」
雛乃が構えていた弓を下げた。
「…あの、あなたの名前を、教えていただけますか?」
「……」
アメリアの瞳が雛乃を捉える。
そしてゆっくりと口を開いた。
「…カヨ。皐月カヨ」
「カヨさん。私は相原雛乃といいます。私と少し、話をしませんか?」
「…いいわ」
その瞳からわずかに殺気が消えた。
雛乃は言葉を選びながら、慎重に声を出す。
「…どうしてそんなに人を呪うのか、教えていただいても?」
「…乱暴されたの。知人の男に」
「そ、そんな…」
「それだけじゃないわ。その後、私を待っていたのは地獄だった。地獄だったのよ…!」
カヨが暴行を受けてすぐ、夫の態度が変わった。
彼女を軽蔑するような目で見るようになり、態度も冷たくなった。
「義理の母から…入れ知恵を受けていたらしいわ…あの人は私のことがずっと気に入らなかったから、良い機会と思ったのでしょう」
愛する妻が暴行を受けたという事実は、育ちの良い夫が受け入れるには重すぎた。
姑はそれを良い事に、彼に色々と吹き込んだようだ。
混乱した夫は徐々に母親の言うことを間に受けるようになり、カヨを責めるようになった。
「体裁が悪いからという理由でっ…同心にも医者のもとにも行かせてもらえなかった…」
どうしてこのような仕打ちをするのか、理解ができなかった。
「そうして離縁状を突きつけられた私は…それを了承したことを記す文書を無理やり書かされたのよ…」
カヨは当然拒否したが、屋敷に閉じ込められ三日三晩に渡り責められ続けた。
離縁状の内容も酷いもので、カヨが淫乱な女で浮気をした為離婚すると書かれていた。
そんなものを表に出されては、彼女は一生再婚できなくなるどころか、一族の恥として母もろとも勘当される恐れがある。
カヨはそれを阻止する為抵抗したが、彼女への批難は苛烈を極めた。
「拒否できなかったあなたが悪いと言われたわ。誘うようなことをしたのでしょうとも」
カヨはあの日、顔が変わるほど殴られた。
その状況下で一体どうして、あれ以上の抵抗ができるだろうか。
若い彼女にとって、暴行も強姦も心が押し潰されそうな経験だった。
それなのに味方は誰もおらず、来る日も来る日も心無い中傷を受け続けて、ついに彼女の心は折れてしまった。
「冷たい雪の日。今でも覚えてる。私は離婚されて家を追い出された。あの理不尽な三行半を突きつけられて」
家になど帰れるわけがなかった。
だから、たったひとつ櫛だけを片手に、彼女は肌着だけの姿になって、屋敷の近くで自害した。
「流れ落ちる血を見た時に、ふと気付いてしまったの。私が暴行を受けたことは、偶然なんかじゃなかったんじゃないかって」
あの男は出入りの業者だった。
当然義母とも面識があり、またあの日離れの蔵の掃除を頼んだのは彼女だった。
近くの庭で掃除をしているからと言っていたのに、居なかったのは。
その可能性が提示された時、彼女の心はまるで半紙に落とした墨のように、一瞬で真っ黒に染まった。
「憎い…憎い憎い憎い!!」
身を焦がすような激情に駆られて彼女は死んだ。
当然まっとうに天に行けるはずもなく、その憎しみに身を委ねて元の夫の家を呪った。
「まずは夫をじわじわと殺したわ…義母は泣きながら床に伏せる息子を看病していた。私を見殺しにした使用人も全員呪ってやったら、あの家には誰も寄り付かなくなった」
孤独になった老人は急速に弱っていった。
「そうしたら義母はその歳じゃあり得ないほど老けて、やがて、」
カヨが空を見上げた。
世界の果てを見るような、遠い目だ。
「死んだわ」
カヨの顔から、一瞬毒気が消える。
けれど再び雛乃に視線を戻した時には、その顔は醜くゆがんでいた。
「あの女は息子が呪い殺される時、私に謝罪してきたわ。すべて自分が仕組んだことだと。息子をとられた腹いせだったと。その為に、私を地獄に落としたのだと」
これでカヨの復讐は終わった。
あっけない、満たされない終結だった。
「…憎いのよ」
カヨの低く暗い声が響く。
「憎い…憎くて憎くてたまらないの…どうして私は止まらないの…?わからない…わからない…」
カヨがぶつぶつと呪いの言葉を呟く。
憎しみの炎は、彼女自身をも焼き尽くしているのだろう。
目的を失っても、自身を苦しめながら前に進んでいる。
その狂った目で、カヨが胸に手を当てた。
「この子も私と同じ。可哀想な子。この世の全てを呪ってる」
「アメリアさんが…?」
「この子は初恋の相手に暴行された」
雛乃が目を見開いた。
教え子への強姦を犯した赤津が、罪に問われることはなかった。
アメリアが確かに赤津に恋心を持ち、夜中に逢いに出かけてしまったこと。
当時は強姦罪は軽犯罪と同程度の刑罰にすぎず、大した罪には問われないこと。
また目撃者がいない為、アメリアの証言に頼るところが大きく、尋問によりその出来事を何度もほじくり返される可能性があること。
なにより嫁入り前に身体を汚されたことが表に出れば、アメリア自身の将来に影響が出る。
それを加味した上で、両親は口をつぐんだ。
単なる世間体だけで下した決断ではなかった。
悔しくて仕方がないのは両親で、それをアメリアは誰よりもよく分かっていた。
「そのことが、より一層、私の心を蝕んだ」
「!アメリアさん…?」
突如紛れたアメリアの声に雛乃が顔を見るが、すぐにカヨの声へと変わった。
「あなたにわかる?私たちの気持ちが」
「……」
「わかるわけないでしょう?貴女の体は綺麗だもの!」
あの日から、カヨの人生も、アメリアの人生も変わった。
カヨは命を絶ち、アメリアはあれだけ練習したピアノに触れなくなった。
おそらく一生、彼女は男性と肌を重ねることはできないだろう。
本来経験できたはずの幸せを、あの一瞬ですべて握りつぶされた。
中途半端な同情などなんの意味もない。
(わたくしの心には誰も触らせない)
「カヨさ、」
「来ないで!」
カヨが鞭を振り上げた。
その瞳には憎しみの炎が宿っている。
「私は身体を手に入れた…。もう誰にも邪魔させない。邪魔するのなら、あなたも殺す!」
「っ…!」
雛乃が地面に視線を落とす。
アメリアが呪力を行使する時に感じたあの感覚は、呪詛に近かった。
彼女は
ぎゅうと唇を噛み締めて、顔を上げて彼女を見た。
「それでも、あなたをここから出すわけにはいかない」
「ならば…ならば、死ね!」
ぐんとカヨが鞭を持った腕を振りかぶる。
雛乃が前に出た。
まっすぐ射抜くように放たれた鞭は、避けた雛乃の頬をかすめる。
「くっ…!」
カヨが攻撃に備えた瞬間、突然彼女を温かい光が包んだ。
(!!)
驚くカヨが下を見れば、雛乃がぎゅうと彼女の身体にしがみついている。
手放された弓が、ガランと地面に落ちる音がする。
「何、を…」
「ごめんね…」
驚くカヨに、雛乃が呟いた。
「ごめんね…私、わかってあげられない」
カヨの、アメリアの言う通りだ。
雛乃にはそのような経験はない。
ここで理解できると言ってしまえば、それは嘘になってしまう。
(でも)
「でも、誰に否定されても、自分が自分を否定しても、それでも生きて、生きて幸せになりたかった気持ちだけは…ほんの少しだけわかるから」
雛乃がカヨを見上げた。
伸ばした手が顔に触れる。
「あなたに、幸せになってほしい」
小さく呟いた言葉は確かにカヨに届き、彼女は動揺したように後ろに下がった。
「む、無理よ…私は幸せになれない…もう遅い。遅いの。もう全て終わってしまった」
「…櫛」
雛乃が口を開く。
「櫛、すごく綺麗ですよね。ご両親に準備していただいたんですか?」
「え、ええ…母に」
母親が、何を売りに出しても、絶対に手放さなかったもの。
カヨが嫁入りで恥をかかないように準備された、底なしの母の愛。
「苦労をさせたからって…もう二度とこんな苦労をしなくていいように、ね、願いをこめたと…」
(そうよ。母さん自身あれほど苦労したのに、それなのに、それを棚に上げて、)
母親は泥だらけの顔をしながら笑ってくれた。
「し、幸せになってね…と、言ってくれたの…」
カヨの両目からぼろぼろと涙がこぼれる。
頰が熱くなる感覚は、彼女の意識を現実に戻した。
(ああ…私。私は、何をしているのだろう)
「母に…母に会いたい…」
「カヨさん」
顔を上げると、髪が銀色になった雛乃が、優しく微笑んでいる。
「私がお手伝いします。恨みも憎しみも全部置いて、あるべきところに行きましょう」
差し出された手を握ろうとして、カヨが躊躇した。
「でも…また同じことが起きるかもしれない…私はまた…」
「それについては問題ありませんわ」
凛とした声が、カヨの言葉を阻んだ。
アメリアが意識を戻し、彼女の口から意志を紡ぐ。
「わたし…わたくしは、この国でもっと活躍しますわ。女性を見る目を変えてやります」
この国では未だ女性蔑視の文化が根強く残っている。
女性は結婚したら働かないもの。
女性は勉学に励むより家を守るもの。
女性は慎み深く我慢強くあるべきもの。
「その全てを変えます。貴女が生まれ変わった時に、今度は幸せになれる世の中にしますわ。だから。だから、安心して、生まれて来なさい」
〈そう…〉
カヨが微笑んだ。
アメリアの体から離れ、天に向かってゆっくりと消えていく。
雛乃が彼女の手を離した。
「あなたに、永遠のやすらぎを…」
〈ありがとう〉
(ああ、なんて心地良いの…)
カヨが目を閉じる。
自分は真っ直ぐに天に行くことはできないだろう。
それだけのことをしてきた。
(でも大丈夫。絶対に乗り越える)
いつの日か、今度は母と共に、幸せになれることを信じて。
「よいしょ!」
来た時と同じ穴から、雛乃が身体を出した。
戻った事務所はいつも通りで、少し安心する。
中央の櫛を見れば黒い靄は消え、ただの物に戻っていた。
「私、念の為櫛を結界の中に入れてきますね」
「ええ。わたくしは穴を閉じますわ」
雛乃が櫛を持って廊下に消える。
それを見届けたアメリアは、黒鉄に向かって口を開いた。
「わたくし、貴方様の助手になることは諦めますわ」
「…そうか。小遣いが上がるって言うから、楽しみにしてたんだけどな」
その軽口に少しだけ笑い、アメリアは続ける。
「…最初から、勝てる相手ではありませんでしたわ」
呪詛を単なる自分勝手な化け物としてしか見ていなかったアメリアに対し、雛乃は違った。
(…恐ろしい闇だった)
カヨに取り憑かれたアメリアは、深い絶望の中にいた。
それはまるで底なし沼のように際限なく下に落ちていき、ゆっくり身体中を締め付けられるような感覚。
苦しくて苦しくて、伸ばした手の先も真っ暗で心が壊れそうになった時、そこでアメリアは光を見た。
「雛乃に触れた瞬間、温かく柔らかい、不思議な力を感じましたわ。あれが、神通力というものでしょう」
それは穏やかにカヨとアメリアを包み込み、憎しみが焼きついた心を癒していった。
その光に一体どれだけ救われたか。
「あれだけでもとんでもない力でしたけど、それ以上に強烈に感じたのは、共感」
同情ではない。
あの時確かに雛乃はカヨの心を理解し、だからこそ彼女は耳を傾けた。
(雛乃…貴女は一体、どんな地獄を経験したの)
「……」
黙りこくるアメリアの耳に、廊下からズダダダダと足音が入ってくる。
扉が勢い良く開いた。
「黒鉄さん!!金庫勝手に開けましたね!?」
「……バレたか」
黒鉄がぼそっと呟き、そのまま窓から軽やかに身を投げた。
「えっ、あー!いつの間に!!」
雛乃が窓から外を覗き込めば、地面まで縄梯子が繋いである。
黒鉄が普段からは考えられない速さで歓楽街に消えていく様子が見えた。
「やられた…!」
雛乃ががっくり膝をつく。
その後ろ姿に、アメリアが声をかけた。
「雛乃。…カヨは地獄に落ちてしまったのかしら」
その言葉に、雛乃が立ち上がってアメリアを見る。
「そうですね…。例えどんな悪人でも呪い殺してしまったのなら、罰は受けると思います」
「そう…」
「でも、大丈夫です!この国の地獄は裁判制度があってその罪の背景を考慮してくれる上に、罪を償ったらちゃんと解放してもらえるらしいですから」
もちろん推測にすぎない。
そう考えられているだけの話だ。
それでもアメリアは少しだけ微笑んだ。
「大丈夫ですよ。次はきっと、幸せになれます」
「そうね…ならわたくしも休んでいるヒマはありませんわ」
アメリアの眉がきりりと上がる。
「助手の道は諦めましたけど、次なる目標ができましたわ!まずは仕事を探しますわ。ゆくゆくは起業が目標ね」
「あ、アメリアさん、力強いですね…」
「時間は有限ですわ!ぼやぼやしている暇なんてありませんことよ!」
その言葉の後に、アメリアは窓に映る空を見る。
「カヨに、約束してしまいましたから」
「……」
雛乃が嬉しそうに微笑んだ。
続いてその表情は悪戯っ子のそれに変わる。
「アメリアさん。私、お付きの者にはなれませんが、お友達になっちゃ駄目ですか?」
「え」
アメリアの表情がぴたりと止まる。
「一緒に買い物に行ったり外食しに行きませんか?寂しい時は呼んでください。面白い話ができるかはわかりせんが、話を聞いてさしあげることはできますから」
「…こんな」
アメリアが呟く。
その身はわずかに震えている。
「こんな、10個も離れていそうな年下の友達なんて…」
「な、生意気ですか?」
「そうは言っていないでしょう!よろしくお願いしますわ!」
アメリアがビッと手を差し出した。
その顔は耳まで真っ赤で、わずかに口元が綻んでいる。
それに少し驚いた後、雛乃が手を握り返した。
「よろしくお願いしますね」
「仕方がないから、仲良くして差し上げますわ!」
さて、ここで余談だが、実は見た目年齢25歳以上のアメリアは現在20歳。
見た目年齢13歳以下の雛乃は18歳である。
なので実質2つほどしか歳は離れていないのだが、お互いが勘違いしている為気がつかない。
このことが後々悲劇をもたらすことになろうとは、つゆほども知らないふたりであった。
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