第25話 さむい村
「や、村がありますね。あれがラシン村ですか?」
ジェイが遠くに見えてきた村の入り口を指差しながら訊ねると、ルシェラはマフラーを口元まで引き上げながら、コクリ、コクリと頷いた。
入り口は、両サイドに赤いレンガ造りの柱が一本ずつ立っていて、その奥に三角屋根のついた背の低い家々が整列する小さな村があった。
川が近くに流れているおかげか、周囲には青々とした草木が春風に揺れ、温かみのある和やかな田舎風景が広がっていた。
遠目からもわかる賑やかな喧騒は、小さな村だが、都会に負けぬ活気に満ちていた。
「賑やかなところみたいですね。人が沢山います。ねぇ、ルシェラ、ラシン村はどんな村ですか?」
ジェイが、今夜、三日振りの約束された安眠に頬を上気させながら訊ねると、それとは対照的に、少女の顔色は心なしか血の気が引いたように青白いばかりで、胸に抱えた荷物を抱きしめる手に、微かに力が入る。
「さむいところです」
ぽつり。地上に一番最初に落ちた雨粒のような声。
「……さむい?」
と、小首を傾げて、ジェイ。
ライゼはどこか遠くを眺めながら、赤い髪の中で、尖り気味の耳をぴくぴく動かしていた。
こうして、村の入り口までやってきた三人であったが、そこでライゼが、いの一番におかしなことに気がつく。
「なんだ……?」と、口の中で呟きながら、彼はふと、ルシェラに視線を向けた。
二人の間に挟まれて歩くルシェラは、顔色以外の表情は至って冷静そのものであったが、ライゼにはその仮面の下にひた隠した冷静ではない本音の顔が存在することを見抜いていた。
少女のその足取りには堂々たる靴音が着いて回っている。
そうこうしながら、彼らが同時に村の中へと足を踏み入れた瞬間、ジェイも彼と同じ違和感に気がついた。
村の外まで漏れ聞こえていたはずの喧騒が、三人がやってくると同時に、この世から音声が消滅したかのように、ぴたりと止んでしまったのである。
その途端、村中を満たしていたはずの温かな雰囲気は、たちまち真冬の冷風に脅かされた。
そこらにいた住人たちの視線は細い針の形に姿を変え、降り注ぐ驟雨のようにジェイたちに突き刺さった。
そのあまりの威圧感に、ジェイだけでなくライゼですらも思わず歩みを止めてしまうほどだ。
そんな二人を他所に、少女は俯き気味にマフラーを引き上げると、歩調を速めて針の筵の中を恐れることなく突っ切ってゆく。
住人たちの好意的でない視線は、少女から、そして彼女の後を慌てて着いてゆく謎の二人組へと移動した。
見ず知らずの人間たちに、言われも無い罪を糾弾されているような気がした。
村人たちの視線は、他所から来た旅人たちを珍しげに眺めるそれではなく、明らかに敵意寄りだった。
あちこちから耳に届くひそひそ声は何を言っているのかわからないが、声を大にした状態では憚られる内容であることは確かだった。きっと、耳の良い
ジェイは冷や汗が流れるほどの居心地の悪さに苛まれながら、ライゼを見上げた。――彼もジェイを見ていた。
村の奥まったところに建つ平屋。家の中には暖炉があるのだろう、屋根から煙突が空に向かって突き出ている。
白く塗られた外壁に、古い木の扉と四角窓が嵌め込まれた玄関先に立つと、住人たちの姿はすっかり見えなくなった。
隣向かいには人気のない家が建ち並び、窓には内側から板が打ちつけてあった。
「この区画だけ、彼女以外に住人はいないのか……」と、ジェイがそんな風に考えていると、ルシェラは小さな手で扉の施錠を解き、二人を中へ招き入れた。
「お邪魔します」二人の声が重なる。
灯りの点いていない室内は、昼間なのに薄暗く、寒々とした空気に満ちていた。
曇天のせいかとも思ったが、それは間違いで、リビング、キッチン、寝室が一つになった広々としたワンルームには窓が三つ付いていて、その全てに黒く分厚いカーテンがかかっていたのである。
正面には立派な暖炉があった。最近は使っていないのか、薪を燃やした形跡がなく、きれいに掃除されていた。
広い内装に対して家具は非常に少なかったが、本だけは山のようにあった。
食卓の上には、真ん中に置いてあった蜀台の周りに、重たそうな本が七冊ほど積み重ねられ、古びた寝台の枕元や、キッチンの隅、安楽椅子の足元には、さながら小人たちの砦を連想させる屈強な城壁が出来上がっていた。玄関傍の小さな本棚にも書物はきれいに並べられ、上には今にも雪崩を起こしそうな形成で書物の雪山を築いていた。
「うわぁ、すごい」
書物好きのジェイの目が興奮に輝いた。
「今、灯りつけますね」
ルシェラは持っていた荷物をキッチンの床に置いて、蜀台の蝋燭に火を灯した。
ジェイとライゼも荷物を降ろし、ぽっと明るく色を変える部屋の壁を見た。
「お茶淹れます。そこへ掛けていてください」
テーブルの上の本を床に下し、キッチンでてきぱきとお茶の仕度をするルシェラ。
ジェイは「はい……」と、生返事をしながら、家の中をきらきらした目で見渡す。
「おい、女の子の部屋、じろじろ見てんじゃねぇ」
ライゼは小声で注意する。
テーブルの上に三つのマグカップが並べられた。白地に、向日葵、黒猫、林檎のイラストが描いてある、何処にでも売っていそうな品物だ。
「ありがとうございます」と、ジェイ。
ルシェラは、二脚しかない椅子を客人二人に勧めた。
「いや、俺はいい」
と、ぶっきら棒に突っ撥ねたライゼの態度に、またもムッとしたジェイだったが、それに続いた、
「お前が座れよ、ルシェラ。女の子立たせて、俺が座ってるのは、おかしいだろ。客人へのもてなしは、この紅茶一杯で十分だぜ」
ライゼは済ました顔で林檎柄のマグカップを取ると、近くの壁に寄りかかりながら、湯気の立ち昇る紅茶を啜った。
その途端、ジェイは一瞬でも彼を咎めてしまったことにひどく羞恥を感じながら、批難がましい視線を解いて、バツが悪そうに足元を見た。
食卓には、ジェイとルシェラが向かい合って座る。
「いただきます」
「どうぞ」
三人は静かに紅茶に口をつけた。
ほっと、その場の雰囲気が弛緩したタイミングで、
「荷物を運ぶのを手伝っていただき、ありがとうございました」
ルシェラは深く頭を下げ、たんたんと言った。
「お役にたてたのなら良いのです。それよりも」
と、ジェイは急に声量を落とし、
「びっくりしました。みんな、僕らのこと見てましたよ。この村に旅人が立ち寄るのは珍しいことなんですか?」
「そうですね。小さな村なので、あまり他所から人は来ません」
小さな声でそう言ったルシェラに、
「それだけじゃねぇだろ」
というライゼの声が続いた。たちまち若者たちの視線が、壁際の年長者へと向かう。
「よく見たら、村人たちの目は俺たちよりもルシェラ、お前の方を向いていたように見えたぜ」
彼の言葉は確信を突いていた。その証拠に、ライゼを見つめる少女の双眸には、冷静でありながら、明らかな動揺が見え隠れしていたからだ。そんなことには全く気付きもしなかったジェイが、
「え、そうだったんですか」
と、驚いて目をぱちぱちさせている。
「お前、なんかあったの?」
ライゼはカップの縁を唇で挟んだまま言った。湯気の向こうに見える幼い少女は、カップをそっとテーブルに置くと、瞬きの回数を増やし、遠くを見るような目つきになった。
「実は……あたし、エーデ病を患っていて……」
「エーデ病!」
ジェイは見るからに驚きを隠せていなかった。
エーデ病。エーデ、とは異国の言葉で『荒野』を意味する言葉である。その病を罹った者の肺が、まるで渇いた荒地のような状態になることからそう命名されたという。
「ええ。主な症状は、息苦しさ、耐え難い喉の痛み、渇き、声の掠れ、咳……それだけ聞くと、ただの風邪だと思われるでしょうが、エーデ病は、風邪とは決定的に違う特徴があります」
「なんだそれは」
「死に至ります」
……その一言を放った彼女の口調は、尚もたんたんとしていた。
「不治の病か……」
「エーデ病は決して人に移るものではありませんので安心してください」
「それがどうしてあの住人たちの態度に繋がるんだ」
「あたしがエーデ病を発症したのは、今から四ヶ月前です。はじめはただの風邪かと思って、この村の医者にかかりました。でも、薬を貰っても一向に回復の目処が立たなかったので、少し足を伸ばして、ここから二十キロ西にあるヴィヴリーオ街まで行きました。そこには大きな病院がありますので。そこで診断されたのがエーデ病でした」
「本で読んだことがあります。エーデ病はとても珍しい病で、年間の発症者数はカラルナ大陸内でも、三十人~四十人程度と知りました」
ジェイが本で得た記憶を手繰り寄せるように、考えながら言った。
「そんなに少ねぇの」
ルシェラは頷く。
「死んだあたしの両親は、二人揃ってエーデ病でした」
「エーデ病は、遺伝はしないはずでしょう」
ジェイが驚いたように言った。
「よくご存知で。ええ、そうなんです。遺伝もしなければ、接触感染、空気感染もしません。いつの間にか体内にいるのです。ただ偶然、病気の方が人を選ぶと言われるほど、突然発症するのです」
「じゃ、さっきの発作ってのも、その病のせい?」
「はい」
エーデ病の発作は、時間がたてば次期に治まるものだが、その間、体内に入ってくる酸素は通常時の半分になってしまう。発作を抑える薬を服用すれば、すぐに落ち着く症状であるが、話を聞くとルシェラは、たまたま今日は薬を持って出かけるのを忘れていたという。どうしてだ。どうして、命に関わることなのに、大切な薬を忘れたりなんかできるのだ。
ルシェラの説明に「なるほど」と頷いたライゼは、腕を組みながら、
「わかったぜ、あの村人たちの視線の意味が。あいつらは、お前のエーデ病が人に移るものだと思っているんだろ」
ルシェラは、「そうみたいです」と頷いた。
「そんな。エーデ病は人には移りません」
ジェイが身を乗り出して抗議する。
「ところがね。人間というものは、無知であればあるほど、信憑性の無い憶測や噂に惑わされやすいのよ。きっと誰かが、ルシェラのエーデ病は遺伝ではないが、家族のものが移ったのかも、なんて適当に吹聴すれば、エーデ病の知識が乏しい人間たちはそれを鵜呑みにしてしまう」
ライゼの言葉に、ルシェラは一度、頷き、
「あたしは完治、延命の手段を探しました。でも数々の医学書を読んでも、生きるための方法は書いてなかった。エーデ病に見初められてしまったら、必ず、死ぬ!」
ルシェラはテーブルの一点をきつく睨みつけながら、今にもマグカップを叩き割りそうな雰囲気だ。テーブルにちょこんと乗っかった手が怒りの拳を握り締め、ぶつけようの無い激情を腹の底へ押さえつけているようだった。
「……ある人は、あたしが早く死んでくれたらいい、なんて言ってますけどね」
「はァ! 何ですか、それ」
ジェイは感情的になって叫んだ。
「怖いのですよ、エーデ病が。あたしがこの病を診断されるや否や、どこから聞きつけたのか、村中に噂が広まりました。それからと言うもの、この村の商店街はあたしに物を売ってくれなくなりました」
「だから街道を、あんな大荷物抱えて歩いてたんだな」
「仕方ないことですけどね。誰だって、ビョーキは怖い」
ルシェラは感情の篭っていない顔で軽く言った。
情熱を欠いたその声は、いずれ己に襲い掛かってくる森閑とした死の影に立ち向かう、救われない勇者の姿を彷彿とさせた。
「ときに、ルシェラよ」
ライゼが妙に畏まった口調で言うと、少女は無言で彼を見上げた。
「この村に宿はあるのか?」
今までの会話から完全に脱線した問いかけに、ルシェラは完全に虚を衝かれたような顔で応えた。
「いえ……近くのルノ村にはありますが、ここには……」
「そうかい」
ライゼは壁から背を離すと、テーブルの傍まで歩み寄ってきて、
「頼みがあるんだけど。どうか、数日、この家に俺ら二人を泊めてくれないかな。もちろん、
ジェイが、がたん、と立ち上がって抗議する。
「何を言っているのですか。一人暮らしの女の子の家に男二人が泊まらせてくれ、だなんてデリカシーに欠けますよ」
ルシェラは憤慨するジェイを宥めた。
「いいえ、あたしは別に構いません。丁度、人手が欲しいと思っていたので」
「話が早くてありがたい」
「寝床を提供するのは構わないのですが、あたしと一緒にいてはデイスさんたちも奇異の目で見られてしまいますよ」
ルシェラは、心が痛むといった表情でライゼを見上げた。
「いいんだよ。俺だって奇異の目にゃ、慣れてんだぜ」
「え……」
ルシェラの首が疑問に傾いだ。
ライゼは頬の辺りに、ジェイの湿った視線を感じながら、決して言うつもりのなかった言葉を口にする覚悟を決めた。
「俺、妖人族なんだ」
涼しげにそよいでいたルシェラの表情が急に固まる。
妖人族に御目にかかったのは、どうやらはじめてだったらしい。
ライゼは真面目な相好を崩して、苦笑しながら「怖いかい?」
己の素性をあっさり暴露しておきながら、余裕綽々といった風情の連れを、雪の女王の息吹じみた目で睨みつけながら、頬杖をついたジェイ。長いことその目に晒されて、頬が凍傷を起こしかけた頃、ライゼに向かって、少女は強気にもこう答えたのである。
「いいえ。あたしは、死だって恐れちゃいませんよ」
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