解放

「明日香、ご飯ここにおいとくわよ」

 母親が晩御飯を部屋の前に置いていく。私が引きこもり生活を始めて早数週間、毎日欠かさず持ってきてくれるのはとてもありがたい。……が、今日私がそれに手を付けることはない。

「もうそろそろ潮時か……」

 言い聞かせるように大きめの声でそう言って、私は机の上に用意しておいたシーツを手に取った。既に結ってロープ上にしてある。これを天井の梁に垂らせば首を吊ることはできるだろう。

 ベッドを軋ませながら上に乗り、シーツを投げて梁の上に通し、下でもう一度結んだ。これで準備は完了だ。心臓がどくどくと脈打っている。

「……お父さん、お母さん、ごめんなさい」

 ありがちな言葉を口にしてシーツに体重をかけていく。梁がギシギシと音を立て、もがくような音ががさがさと鳴った。ポケットから生徒手帳が落ちる。数十秒後、一切の音が立ち消えた。

 部屋はそこからずっと無音に包まれた。


※ ※ ※


 俺は久しぶりに学校に来ていた。月子が「私の分も授業を受けてきて」としつこかったからだ。そうは言いつつも本音は自分のせいで俺の成績が下がるのが嫌なんだろう。本当はずっと月子のそばにいたかったけど言う通りにしないと一日中言われ続けそうだったので一応来ることにしてみたんだ。

 そしたら数学は既に意味が分からないことになっていて、あとからまとめて先生に聞く羽目になった。月子の言う通りにしてよかったかもしれない。これを一か月続けていたら危うく留年だ。

「よう」

 放課後、早く帰って月子のもとへ行こうとしている俺を呼び止める者がいた。――藤井だ。

「そんなに急いでどこ行くんだ? カノジョのとこか? おい」

 にやにやしながら距離を詰めてくる。今までだったらここは大人しく話を聞くところだけど、今はそれに付き合っている暇などない。

「ごめん、俺急いでるから」

 藤井の脇を通り抜けてさっさと行こうとすると、手首をちぎれるくらい掴まれた。――予想はできていたけど。

「何勝手に逃げようとしてんだ。お前は俺に逆らえねえだろ。逆らったらどうなるか、分かってんだろうな」

 そう言いながらギリギリと手首を握る力を強めていく。何度も癖で謝りそうになったけど、それじゃあもうダメなんだ。こいつの言うことなんか聞いてちゃダメなんだ。月子を守れるのは俺しかいない。俺が屈したら辛い思いをするのは月子なんだ。

「もうやめてくれよこんなこと!!」

 大きな声が出た。腹から声を出す、というやつだろうか。大きい声ゆえに、廊下を歩いている奴らが一斉にこっちを向く。それを見て分が悪いと感じたのか、藤井は一旦腕を離す。

「そんな熱くなるなって~、お前が醤油派なのは分かったからさあ」

 藤井がまるで雑談でもしてたようにわざと明るく言うと、他の人たちはまた元のように動き出した。変に周りの目をかいくぐれてしまうところも、俺は心の底から嫌いだった。

「お前、分かってるだろうな」

 他人の目がなくなったと分かるや否や、低く小さい声でそう告げた。今までのへらへらしていた時とは違うその言い方。俺はこいつを怒らせたことがないから知らないけど、もしかしたら今本気で怒っているのかもしれない。そうしたら直接暴力を振るわれるだろうか。当然、俺はスポーツも何もやっていない貧弱な人間だから喧嘩になればまず勝てない。それに藤井のことだ、ただ一発殴っただけで満足はしないだろう。場合によっては命に関わるかもしれない。そう思うと決意したとはいえ肝が冷える。

 藤井は再び俺の右手首を掴んで爪を立ててきた。このままやられれば思い切り刺さるだろう。流血沙汰になれば多少は他人の目も引くか……。

「ちょっとそこ」

 諦めかけていたその時、俺らに向かって話しかけてくる人たちがいた。

「福原さん……それに永沼……!」

「あんた、暴力で他人従わせるとか頭ん中昭和すぎでしょ。女をとっかえひっかえしたり弱い者いじめしてみたり、他になんか楽しい趣味ないわけぇ?」

「……てめえ、黙って聞いてりゃ――」

「それ以上何かするようならこちらにも考えがある」

 早口でまくし立てる福原さんに加え、永沼が冷静に前に出る。

「お前が悪の限りを尽くしているのは学校中誰もが知っている。お前には自覚はないかもしれないが、いじめにしても女性遊びにしても派手にやりすぎだ。正直な話、被害者が団結して提訴しようものならお前は一瞬で少年院送りになるだろう。そもそももう高校生だからな、教員が庇ってくれることもほとんどないぞ。それでもなお杉田や僕らに手を出すか」

 とんでもないことばかりしてはいるものの、藤井はアウトラインを弁えていやがる。女子を犯すというのも、その一件だけ見れば「合意があった」とかいって逃げられるかもしれないものばかりで、俺に対しても自分の証拠が残るようなことは絶対にしなかった。でも、永沼の言う通り被害者が結束すればその数はとんでもないことになる。それを分かっていない藤井ではあるまい。

「そーゆーコト。もう先輩たちにも話通してあるから。電話一つであんたは警察行きだからね。ウケる~~笑。……つーわけだから、早くあたしらの前から消え失せてくんない?」

「ぐ……この……」

「今度ススムとツキコに手出したらその時は、分かってるよ……ね!!」

 最後に福原さんは思い切り藤井の股間を蹴り上げた。体格がいいと言えども本気の前蹴りを股間に入れられるのは相当応えたらしく、藤井は股間を押さえてうずくまった。

「じゃあススムいこー」

「え、あ、うん……」

 このまま放置すると仕返しが怖いな……と思う反面、相手の弱みが大きすぎるので何がどうなろうと最終的に負けるのはあいつなんだということもあって少しほっとしていた。

「ありがとう、福原さん、永沼」

「いいっていいってー、あたしらトモダチっしょ?」

「友達……か」

 友達。それって普通、趣味とか気が合うとか、そういうプラスのことから始まっていくものだと思う。でも俺らは自殺部というなんとも物騒なところで出会った。活動も当然マイナスなことばかりだった、はずだった。それがいつの間にか、友達と言われても違和感がないようになっているのはなんだか不思議な感覚だった。

 ――それと同時に、ある思いは一層強くなった。

「あの、二人とも――」

「あ、そうだ。あたしたちもツキコのお見舞い行っていい?」

「へ? あ、うん。もちろん。月子も喜ぶよ」

「あれー!? いつの間にか下の名前で呼んでるー!! ねえねえ何があったのー? 教えろよこのこのー」

 死なないで。

 言いたくてもなかなか言えない言葉。いつも通りわあわあ言ってる福原さんと、それを心なしか嬉しそうに見てる永沼と。それを見てると言わなくても伝わってるんじゃないか、考え直してくれるんじゃないか……と状況に甘えてしまう。

 このまま言わないで死んでしまったら、俺は一生後悔する。少なくとも今日病室に着いたら聞こう……雑談の中で俺はそれだけを胸に焼き付けた。

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