第5話
「ま、ただの食あたりですじゃ。一晩寝れば良くなりましょうぞ」
じいや、ことマーマデューク。愛称「デュー」という可愛らしい呼ばれ方をしている人間年齢換算推定八十歳の医者は、到着して診察し、開口一番そう告げた。
そのまま、「お大事にの」と朗らかに去っていく彼の様子からすると、本当に大したことは無い様だ。現に、壮絶なまでの味音痴料理を食してぶっ倒れた二人は、今では用意されたベッドですやすやと安らかな寝息を立てている。
案内された室内の装飾も、上品で落ち着いた雰囲気を演出していた。これならば、二人の身も心も安らぐだろう。
それを確認し、アリスは潔く部屋を後にした。静かなクレスやシエルの背に声をかけなかったのは、自分の心が彷徨い過ぎて定まらないからだ。
一人になりたかった。
城に入るまでのこと、魔王と出会った時のこと、食事の時のこと。
アリスとしては、正しい判断を下してきただけだ。
勇者としてあるべき振る舞い。魔王に対する拭えぬ不信感。仲間を攻撃された故の激昂。
城まで白昼堂々とご丁寧に馬車で案内し、勇者に憧れていたと抱き付き、歓迎しようと張り切る魔王の在り方こそが異常なのだ。
「……ま、さっきの俺達だけ見たら、むしろ俺が悪者なんだろうけどな」
自嘲気味に笑って、アリスは割り当てられた部屋のベッドに腰を掛ける。そのまま、荷物から一冊の書物を取り出した。
ずっしりと重厚な年季を感じさせながらも、全く色褪せぬ
そう。これは、特殊な書物。
初代勇者、アレクシエス・ミシェリアから始まった、代々の勇者が記す活動記録だった。
正式名称は、『世界の情勢推移および人から夢と希望を託されし立場の者としての責任と義務による誠実なる奉仕活動記録』と言うらしいが、面倒なのでアリスは『勇者日記』と名付けている。
実際、中身はほぼ勇者達の日記に等しかった。
「……大体、『今日の夕飯の魚は至高の香り。ここに宣言しよう。今日、この日をマグロデーと名付けることを!』とか、どこに夢と希望と責任もろもろ入ってるんだっての」
ぱらぱらと捲ってみても。
『素晴らしい。この満点の星空。ああ、君と見上げたい。よしきた来い!』
『俺の娘天才。夫になるもの、灰にしてくれるわ』
『ああ、今日も僕は美しい。鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番美しいのは……この僕さ!』
――などなど。
激しくどうでも良い日常を書き殴っているものばかりだ。むしろ最後に読んだページは、ばりっと破り捨てたい。
もちろん、真面目にその日の出来事を綴っていたり、大きく情勢が変動する事件を記録している者もいたが、大半はむしろ知りたくない一面ばかりが書き連ねられていた。名称だけ立派でも無意味だというお手本だ。
「……それでも紛れもなく、これは歴史の証拠品、か」
こん、と軽く表紙を叩く。アリスを含め、96人の勇者が綴ってきた日記は、乾いた音で応えてくれた。
傍目からすると専門書の厚みしか見て取れぬが、実際に開いたなら殺人的な記録量だ。
人間は、魔族ほど魔法の扱いに長けてはおらず、常人離れの身体能力を有する勇者とて例外ではなかった。
しかし、この勇者日記は、初代勇者が生み出した紛れもない『魔法書』だ。
この日記は『勇者』の血筋を引き、かつ『勇者』の地位に就いた者だけしか開けぬ様に細工が施されている。どれだけ魔力の高い秀才が開封を試みても、全て失敗で終わるという曰く付きの代物なのだ。
記録によれば、世界で追随を許さぬ魔力の持ち主である魔王でさえ音を上げたらしい。手にしようとした直前、魔王の存在自体を拒否する様に己を炎で包み込んだそうだ。
しかも、本自体は無傷のままである。初代勇者は、よほど優れた魔法の使い手だったらしい。
「……ほんっと、色々書かれてるよな」
くだらない日常、今日思ったこと、その日の天気、仕掛けた悪戯。
――魔王の存在など見当たらない、平和なひととき。
「……っ」
頭を振って、アリスはぱらぱらとページを捲る。
先代勇者である父、ディアルドが亡くなった八年前に、アリスは勇者の地位を引き継いだ。
その際、一緒に『勇者日記』も引き継ぎ、毎日ではなくとも変化があった日には、この日記を開くことにしていた。少しでも、真実を多く記すために。
アリスの手によって抵抗なく開かれた日記に、視線を落とす。
だが、書面に羅列された文字は一文字だって頭には入ってこなかった。
「……泣きそうな顔、してたな」
ちくりと、小さな針が刺さった様な感触に、アリスは舌打ちしたくなる。
何故、自分がこんなに罪悪感を抱かなければならないのか。そう思う一方で、素直に謝罪の念も込み上げてきた。
きつく言い過ぎたとアリスも自覚している。
それに、自分は魔王に連絡を取って国境を越えたわけではない。明らかな不法侵入であり、その上魔王に剣を向けた。宣戦布告をされても申し開きが立たない。
百年前。
三代前の魔王と四代前の勇者が、和平の道を開くきっかけとするため、『勇魔不戦条約』を締結した。
その時から勇者と魔王は表向き、敵対関係ではなくなった。
まだまだ問題は山積みだし、互いに憎悪を抱く者も少なくない。
だが、国境付近に構えた街を起点に、二種族が仲良く友好を深めている光景もちらほら見かけられるようになった。
それは、前代魔王と勇者の時代から急速に発展した様にも思う。
彼らが玉座に就いてから、ずいぶんと積極的に政策を施行していった。次々と交流会に繋がる提案も出されたし、法律も異種族に寛大な内容へと変更された。
それを是としない重役は当然いたし、前代勇者である父も、取り成すのに苦労を重ねていた。
それでも顔は疲弊だけではなく喜びに彩られていたことを、息子であるアリスは間近で見てきた。母親のアリシアが早くに他界してからは、唯一の証人となった。
父は、誇りだった。
己の信念に真っ直ぐに生き、夢物語で終わるかもしれない理想を最後まで貫いた。アリスにとって世界で一番尊敬する、誉れ高き勇者だった。
だからこそ、アリスはその意志を継承したかった。幼き頃からの、誰にも譲れない願いだった。
だが。
〝意志を、継い、で〟
最初に、条約を――。
「……っ。俺は……」
こんこん。
混濁した暗闇に真っ逆さまに落ちそうになる寸前、控えめに叩かれるノックの音が上がった。ぐらぐらした頭を押さえながら、アリスは視線だけを扉に流す。
制御していようと、魔王ほどの魔力の持ち主になると接近を隠せるものではない。正体はおのずと知れた。咄嗟に日記を仕舞う。
「……開いてる」
ぶっきら棒に事実を投げると、数秒ほど間を置いてから、かちゃり、とまた控えめに扉が開かれる。
おずおずという表現が合うほどに遠慮がちに入室してくる姿は、初対面の時の闊達さが微塵も嗅ぎ取れなかった。しぼんだ風船の如く覇気が無い。
「失礼します」
恐る恐る部屋に滑り込んだ魔王の後方からは、銀製のワゴンを押してシエルが続いてくる。依然として何を考えているか読み取りにくい無表情だが、その堂々たる姿勢は魔王を庇護するに足る存在感だ。
それでもクレスの方を『魔王』と認めてしまうのは、持って生まれた天性の素質とカリスマだろうか。
風格、とでも言うべきか。訴えてくる気迫が段違いだ。
――こんな、しょげた犬みたいに縮こまってんのに。変な奴。
内心だけで感懐を述べて、アリスはベッドに腰を掛けたまま、さりげなく机のメモ帳を開いた。
「何か用か」
端的に質問してやれば、クレスは狭めていた肩を更に狭めて視線を垂れる。
頭も一緒に垂れ下がっていく様子は、「本当に魔王なのか」と糾弾してみたかったが、無駄な労力なので声には出さない。
「あ、の。先程は本当にとんだ失礼をして、その」
「二人はまだ寝てる。多分起きんのは明日だろうから、謝罪ならまた今度にしてくれ」
「でも」
「でもも何も無い。用がそれだけなら出て行け」
どんどん尖っていく己の声音に、アリスは舌打ちしたくなった。
しかし、それでも感情を抑制するのが難しい。個人的な二つの感情がせめぎ合っていて、正直どちらに降参すべきなのか迷っている状態だった。
が。
「あの、……私、勇者様にも謝りたくて。あと、感謝、を」
「……は?」
おどおどしながらも一歩も引かずに面を上げるクレスに、アリスは訝しげに眉根を寄せる。
感謝。
あれだけ罵倒した自分の、何に感謝をするというのか。
疑問は声に出さずとも、空気にはっきり表れていたらしい。一旦視線を伏せてから、再び顔を上げて彼女は真っ直ぐ見つめてきた。
「食事についてです。私、確かに間違っていました。人間と魔族の味覚が異なるというのは、私も本で読んでいたのに」
読んでいたのか。
その事実にもビックリだが、その上であの料理を出したことにもビックリだ。
けれど、次の言葉ですぐに疑問は氷解した。
「でも、勇者様たちの好みを考慮せずに、魔族流のおもてなしを優先してしまいました。そうすることが、魔族のことを知ってもらう最短の道なのだと。勝手に思い込んで、よく吟味しなかったんです。……歩み寄るなら相手の視点に立つことも大事なのに、私、舞い上がっちゃって」
「……………」
「だから、勇者様に指摘された時、目が覚める思いでした。ありがとうございます。そして、すみませんでした」
深々と、それこそ床に額をこすり付けそうなほどに頭を下げるクレスに、アリスは刺された様な顔をした。胸の辺りが、鋭く痛みを訴えてくる。
相手は魔王だ。これは演技なのだと説得しようとしても、一方で「信じてやれ」と心の声が聞こえてくる。
彼女は、変だ。
魔王なのに、全然飾らない。土足で踏み込んだアリスに対して、思いつく限りのおもてなしを遂行し、挙句の果てにはきつすぎる説教に対して感謝まで捧げてくる。
これが演技ならば、相当な罠だ。
〝楽しみだね〟
――かつての楽しそうな声が、聞こえてくる。
一向に頭を上げない魔王。恐らく、アリスが何か言葉を発するまでは銅像の様に微動だにしないだろう。
もはや、もう一方の心に素直になるしかない。
アリスは一度大きく息を吸い、根負けして細く吐いた。
「……良い。そこまでしてもらう義理もねえよ」
「――、……え」
こちらの溜息に一瞬体を竦ませたクレスは、弾かれた様に顔を上げる。
先ほどよりも瞳に輝きは宿っているが、何故そんなに弱気なのか。こちらが本気で悪者になっている気がして、八つ当たりもかねてアリスは
「こちらが挨拶もなしに乗り込んだ時点で、既に非はこちらに存在してたんだ。本当に謝らなきゃならないのは俺の方だろ」
「え。……で、も」
「急だったってのに、大急ぎでもてなしも用意したんだろ。その気持ちは、……まあ、正直ありがたかった。だから、もう良い」
「勇者、さ」
「――悪かったな。俺もきつく言いすぎた」
自分の心に
その全てが溶け去ったわけではない。
だが、あの日から一歩も動けないままでは、永遠にこの目の前の魔王と向き合うことは不可能だ。
だから。
「まだお前を疑っていることに変わりはない。けど、それだけで一方的に傷付けて良い理由にならないのは確かだ」
「……っ」
「だから、不法侵入以降から、さっきの件について謝罪する。勇者、アリスティードとしてな」
「―――――――」
悪かった。
もう一度謝って、頭を下げる。
認めてしまえば簡単なものだ。ついさっきまで砂や泥を飲み込んだみたいに苦かった胸の内が、晴れていくのをアリスは感じた。
自分は、つくづく押しに弱い。一国の主としては
相手は魔王という宿敵なのに。自分は本当に、甘い。
己に呆れながら、アリスが何気なくクレスを一瞥し――飛び上がらんばかりに驚愕した。
「っ、おい?」
ぱた、ぱた、と音がする。
その出所は、彼女だ。頬を濡らして、ぱたぱたと襟元に落ちる滴の音に、アリスは不遜な態度から一転、困惑と焦燥で反射的に立ち上がった。
「ちょ、待て。そんなにきつかったのかよ。悪かったって……」
「ご、めんなさい。すみません、嬉しく、て」
泣きながら笑うクレスの瞳は、尚も濡れている。
しかし、深くて澄み渡る紫紺は、揺れながらもとても綺麗だった。その様にアリスは一瞬詰まりながらも、疑問で強引に言葉を追い出す。
「……はあ? おま、嬉しいって」
「だって、許してもらえるなんて思わなかったんです。私、勇者様のこと、とんでもないくらい怒らせてしまったから。口も利いてもらえないかもとか、出ていかれるかもとか、色々考えて」
はにかみながら、ぼろぼろと零れる涙を両手で拭うクレスに、アリスは思わず立ち上がった格好で呆けた。泣いている理由がまた純粋で、ぐっと言葉に詰まってしまう。
彼女の深い紫紺の瞳は、本当に優しかった。澄みきった水晶を連想させるほどの透明さは、恐らく見る者全てを惹きつけるだろう。不覚にも、一瞬だけ見とれてしまった。
クレスの笑顔は、嬉しくて嬉しくてたまらない。そんな風に物語っていた。こちらが勘ぐっていた不純な動機など、一切混じってなどいない。
――何だか、馬鹿らしくなってきた。
散々疑って、警戒していた自分が滑稽に映る。手を振り下ろした先が空を切ってばかりな自分は、どれほど虚しかっただろう。
まだ魔族を、魔王を信じてはいない。八年前から続く火種もくすぶったままだ。解決など、何一つしていない。
けれど。
〝きっと、アリスも好きになるよ〟
――あの、能天気なまでに底抜けな笑顔に。少しだけ、アリスも向き合いたくなった。
「あー、ったく。もう良いっての。俺は怒ってなくて、お前も嬉しくて万事解決。それでいいだろ」
がしがしと頭を掻いて話を切ろうとすると、クレスがぱあっと光輝く笑顔を広げていく。
本当に犬みたいだなと苦笑していると、ぱん、と目の前で手を合わせられた。にっこりと何かを企む――という言葉は彼女に似合わないが――様に提案をしてくる。
「あ、でも。お詫びにと思って、……その、お口直しになるか分かりませんが」
「ああ?」
シエル、とクレスが一声かける。すると、「かしこまりました」と洗練された一礼をしてから、彼はワゴンの上の布を上品に取り去った。
取り払われた下から顔を覗いたのは、茶色のクリームに彩られたデコレーションだった。
芸術的なまでの完璧な飾り付け――とは程遠い。
のっぺりとスポンジに塗られたクリームの上には、でこぼこな出来栄えの塊がふてぶてしく居座っていた。顔の辺りらしき箇所に三つほど穴が開いていたので、辛うじて人形かと予測する。
その人形の隣には、一輪の花を催そうとしたのだろうか。盛大に失敗したのか中央がクレーターの様にへこみ、その周囲をチョコクリームの山がいくつか不格好に飾られていた。
そして、人形っぽい塊と山盛りのクリームを囲う様に、流れる曲線――を描こうとして手元が狂ったのか、かくかくと不規則に折れ曲がった、濃い目のこげ茶クリームの直線が嵐の様に走っていた。
まあ、つまり。一流のシェフが手がけたわけではない、手作り感満載な生チョコレートクリームのデコレーションケーキが、大皿の上に寝そべっていた。
そう。
晩餐時、酷い目に遭わされ、しばらく拝みたくもなかった元凶の材料。
災厄のチョコレートが横柄に目の前に居座って、アリスの視界を直撃した。
たっぷりと一分、それを凝視した後。
「――お前、喧嘩売ってんのか!?」
「きゃあああっ!?」
先ほどの反省など、どこへやら。
アリスは再び大噴火を巻き起こした。
「え、ええ!? そ、そんな、違います!」
「お前、ほんと馬鹿だろ! 夕食時にあれだけチョコで嫌な思いしたのに、何で! よりによって! チョコケーキなんだお前は! 嫌がらせ以外の何物でもないだろうが!」
「きゃあっ! あの、勇者さ」
「何が『感謝』だ! ぜんっぜん教訓になってないじゃねえか! それとも、その耳は飾りか! 頭は空っぽか!」
「きゃああ! ち、違うんです! そう思われるかもですけど違うんです!」
「何が違うんだ! チョコなんて見たくも……」
「そ、それです!」
「って、はあ?」
「それが嫌なので、すみません、敢えてチョコケーキを選んできました!」
必死になって食い下がるクレスに、アリスはいよいよ我慢の限界パラメーターが振り切れそうになる。
けれど、それが表で大爆発する前に、クレスは一生懸命身を挺してケーキを庇った。
「わ、私たち魔族にとって、チョコレートは本当に大切な時に使うものなんです!」
「だから何だ」
「もちろん、普段からお菓子として食べたりしますけど。我々にとっては、初代魔王が愛用していた伝統もあって、チョコレートは本当に特別なもので、思い入れが深いんです。だからこそ、祝儀には必ずチョコがどの料理にも使われるんです」
「知ってる。で?」
「だ、だから。どれだけ味覚が違うとしても、チョコレート自体を嫌いになられるのは悲しいです。好みは確かに人それぞれですけれど、……勇者様たちは元々チョコがお嫌いなのでしょうか」
尻すぼみになっていく質問に、アリスは意地悪な回答を返したくなる。
だが、また泣かれると困る。故に、素直に返答することにした。
「……いいや」
「っ! よ、良かったです……!」
否定してやれば、ぱあっとクレスの顔が分かりやすく笑顔になっていく。
何て感情表現が豊かな魔王なのだろうか。政治手腕から鑑みるにかなり優秀なはずなのだが、交渉には全くもって向いていなさそうだ。
「……チョコレートを嫌いになられるのは、私たちを否定されたみたいで、余計に切ないんです」
「……」
「あ、あの……そちらの国でも、チョコレートケーキは普通に食べるのですよね? だったら、これでチョコの名誉を挽回出来ないかな、と」
自信が急降下していくのに合わせてか、クレスの声量も急速にフェードアウトしていく。ちらちらとケーキとアリスの間を視線が往復し、遂にはどん底に落ちた様に俯いた。
それっきり言葉を発せずにいるクレスを見かねてか、シエルが補足を加えてくる。
「自慢ではないですが、魔族は例外を除いて大のチョコレート好きです。チョコにはうるさいです、原産地ですから」
「はあ」
いきなり熱弁を振るわれた。
シエル自身の表情は全く微動だにしていないし、語る口調は淡々としているのだが、底知れぬ気迫を感じられる。よほどチョコが好きらしい。
「それに勇者様の国、ミシェリアでもチョコレート菓子はポピュラーと聞き及んでおります」
「……ああ、まあ」
「特に我々が輸出しているチョコレート菓子については、そちらでも絶賛されているとか」
堂々たる振る舞いと口調で自画自賛される。
なるほど。確かにこの魔王の国リュシファースでは、チョコに対する想いは並々ならぬものがあるようだ。アリスは改めて認識を強くした。
「クレス様はパティシエではありませんが、味は、きっと恐らく多分可能性としては中程度くらいには保障できるものだと思いますので。ご安心下さい」
「なあ。何でそこで、『絶対』って言い切ってやらないんだお前」
「私は、素直に可能性をお話したまでですが」
「ああ。分かった。お前そういう奴だよな。うん」
「そこまで私について理解を深めて頂けるとは……私、感激して涙も出ません」
「お前が泣いたらそれはそれで恐いから、涙出ない体質で良かったな。俺の心の平穏的に」
淡白単調な物言いで、至極真面目に感激を口にするシエルに、アリスは視線を虚空に彷徨わせた。丁寧なのか失敬なのか不躾なのか、いまいち判断しにくい。そんな彼に逐一対応していては日が暮れる。
何だか、今日一日で一週間分の心労が蓄積した。ふーっと溜息を吐き、アリスは近くの椅子に腰かけ、足を組む。くるんと回転式の椅子を回して、机に向かった。
「……わかった。後で食べるから、そこに置いとけ」
「! は、はい! じゃあ、切り分けておきますね!」
陸に上がって死んだ魚から一転、水を得た魚の様に元気良く復活したクレスに、アリスは思わず噴き出しそうになった。意地でもポーカーフェイスを保ったが、本当にこの魔王は変わっている。
魔王というよりは、犬だ。それも小型犬。
――あー、本当に。
こちらの常識や理解を軽くぶち破る彼女達に、アリスも少しだけ肩の力が抜けた。
思えば、出国してから今まで一度も安らぐ暇が無かった。魔王の国で
背後でクレスがケーキを切り分けているらしい間、頬杖を突いて、アリスはメモ帳に文章を書き出した。本日の出来事は、是が非にでも記さねばならないだろう。
故に、二人が退室してから本格的に記述しようと思っていたのだが。
……じ――っ。
「……………」
じ――――――――っ。
「………………………、……何だ」
「え? あ、いえ、その」
集中豪雨の如き視線の束を背中に浴びて、アリスは振り返らないまま尋ねる。
あわあわと右往左往しているのが空気の流れで読み取れて、アリスはこれ見よがしに溜息を吐いた。
「そ、その! ……何をされているのですか?」
「何でも良いだろ」
「そ、そうですよね。すみません、立ち入ったことを……」
しゅんと落ち込んでしまったクレスに、アリスはまたもえも言われぬ感情に支配された。ぺたんと犬の耳が畳まれ、尻尾まで元気なく垂れ下がっている彼女が容易に想像出来る。
申し訳ない気持ちがじわじわと血を巡らす様に浸食していって、アリスは苛立ちを覚えた。
――何で俺が、こんなに罪悪感抱かなきゃなんないんだ。
仮にも魔王相手に。
それとも、『魔王』と『勇者』に固執する自分が時代遅れなのか。
様々な不満を連ねている間にも、存分に視線が背中に突き刺さり。
「……分かった。食べてやる。食べてやるから。あんまり見られると気が散る」
「……はいっ!」
根負けした。
ぱあっと後光が差して花開く笑顔を咲かせるクレスに、アリスはがっくりと肩を落とす。片手で額を押さえ、脱力した。
もし、この喜怒哀楽の落差が演技だったならば役者顔負けだ。
世界でも有名どころの劇団を挙げ連ねながら、アリスは幸せそうに皿とフォークを差し出すクレスに、礼を述べて受け取った。
わくわくと期待と不安を振りまくクレスの姿勢正しい待ち構え方に、アリスは観念してフォークでケーキを切り分ける。さくりと、心地よい感触がフォーク越しに伝わってきた。
とろりと、チョコクリームが官能的に艶めく。脳裏に夕食の時の惨劇が
が。
――だあああっ、どうにでもなりやがれ!
ばくりと、一口で切り分けたケーキを食べる。
やけになって、もごっと一噛みすると。
「―――――――」
途端、ふわりと濃厚な香りが舌に広がった。
全体的に甘いが、スポンジに練られたビターな味が程よくマッチしており、実にアリス好みの仕上がりだ。
見た目はお世辞にも美しいとは言いがたいが、スポンジの柔らかさやチョコクリームの滑らかな触感、そして何より味は申し分が無かった。
店では食べられない家庭的な味にも好感が持てるし、どこかホッとする。純粋に感動した。
「……
「はい、そうですか……、……って、え?」
しょんぼりとまた俯きかけてから、クレスは弾かれた様に顔を上げた。その驚き具合があまりに大き過ぎて、アリスは呆れながらフォークを軽く回す。
「何だ。まずいと難癖つけるとでも?」
「え? いえ、でも。ほ、本当ですか?」
わたわたと疑心暗鬼に陥っているクレスは、挙動不審に過ぎる。
しかし、ここまで疑われると更に呆れるしかなかった。今までは自分が片っ端から疑っていたのにと、変な気分になる。
「何でこんなところで、嘘言わなきゃなんねえんだよ」
「わ、私、実を言うと料理はそこまで上手とは言いがたくて。だから、褒められるとは思っていなかったんです……」
「まあ、確かに不器用っぽいけど」
「うっ! そ、そうなのです。シエルにもしょっちゅう言われていて。……あの。気付きましたか」
「何に」
もごもごと口ごもるクレスに構わず、アリスは素っ気なくケーキの続きに取り掛かった。
本当にどうでも良いという仕草が、言葉や全身からにじみ出ていたのだろう。クレスは益々縮こまっていく。
「……その」
「だから何だ」
「……ケーキの上のお人形。実は、私と勇者様をモデルに作ってみたのですけど」
「ふーん……、……ぶっ!?」
人形と予測をしていた塊の正体を暴露され、アリスはとうとう我慢できずに噴き出した。ぶはっと腹を抱えて、そのまま机の上に突っ伏してしまう。
「はっ!? これ、俺と、お前? どう見たって、泥人形が呆けた顔して、ベタベタ徘徊している様にしか見えねえし!」
「ち、違います! 確かに『はにわ』もどきみたいな、おマヌケな顔してるかもですけど! これ、自分の顔を鏡見ながら作ったんですよ! 勇者様は想像で作りましたけど!」
「か、鏡!? 鏡見てこれかよ! いかにも『ほーっ!』て言いながら這いずり回ってそうな顔なのに……お前、どんだけ不器用……ぶはっ!」
「そ、そんなに笑わないで下さいー! は、恥ずかしいですっ」
遠慮なく爆笑したら、クレスは真っ赤になりながら拳を振り回した。
今更ながらに羞恥心が津波の様に押し寄せてきたらしく、湯気がしゅうしゅうと顔や頭上から立ち昇っている。今なら彼女の頭の上で、鍋も沸かせるかもしれない。
「……あー、笑った」
「ひ、酷いです……」
ひーひー言いながら、呼吸困難に陥るほどアリスは笑う。
そのおかげか、胸に巣食っていた
――ああ。本当に。
〝楽しみだね。ねえ、アリス?〟
――本当に、『その日』が訪れれば良かったな。父さん。
「お前って本当、変な奴」
「―――――――」
顔を上げて微笑むアリスに、クレスはしかし何も返してはこなかった。ひたすらにアリスの顔を見つめ続ける。時を、止めた様に。
今までとは別の意味で様子がおかしいクレスに、アリスはさっと真顔に戻って眉をしかめた。
「何だ?」
「え!? あ、いえ! ……その、勇者様が笑ったところ、初めて見たなあって」
「俺だって人だぞ。笑う時は笑う。大盤振る舞いはしないけどな」
「……ふふっ」
仏頂面で弁解するアリスに、クレスは目を細めて。
「勇者様らしいです」
「……………………」
にこにこと。屈託なく『大盤振る舞い』で笑顔を振りまくクレスに、アリスは本日何度目かの溜息を落として、ケーキにフォークを突き刺した。
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