第23話 思考の熟成

我々は流される。

それは意図せずに流されることもあるし自分の意見を噛み殺しながら集団の中にいる多くの個人がうなずいた方向に舵を切る。

時にそれを自己の否定ととるものもいるし、一過性の悲劇と嘆き次に進む者もいるだろう。

我々は今、何を頼りに生きているのだろうか。

何を基準にものを判断しているのか。

何処に向かって生きているのか。何をなしたいのか。

価値ある人生とは何か。

鬱患者は多くのことを感じながら生きている。

私は鬱とは病気という形ではあるが哲学的思考を身に着ける一つの機会だと考える。これまでの経験によって育んだ自我が社会・環境を処理しきれずオーバーヒートした状態が鬱という病気なのではないかと私は考える。

これは引きこもりにもいえることである。

私は鬱と引きこもりが同じ心理状態とは思わないがその克服の過程には共通点があると考える。

私の友人に昔、鬱を発症していた人がいる。私は常にポジティブな思考であったのに対し会話の中で時々深い目をして驚くまでに自己否定へと至る瞬間が多々あった。私にとってこの経験は貴重なものだった。

私はこれまでの人生の中で一部の時期を除けば自己嫌悪や自己否定を深く行うことはなかった。

しかし、あの時の友人は全てをマイナスの方向へと解釈し深く深く、その目で見据えるものを落としていく。

あの体験は忘れられない。

あそこには間違いなく意思があった。

流されるものがなかった。

ネガティブ思考とは究極の自己否定であると同時に強固な意思なのではないかと私は考えるに至った。

今でこそ友人は治ったという表現が適切であるかはわからないがなんともないように見える。

まるであの時とは別人のように明るい。

そして同時に強い意志を、自分の中にぶれない基準というかルールというものを持ったように見えた。

私も小学校の一時期であったが行きたくないと感じ休みがちになった期間があった。両親が共働きであったため、その期間は家に一人でいた。

何もする気が起きなかった。

テレビをつけては消し、

本を開いては閉じ、

ゲームをつけては消しを繰り返した。

勉強もゲームも読書も散歩も昼寝も食事も何もしたくなかった。

ただただ孤独だった。

家族という環境に不満はなかったし友人関係もうまくいっていた。

成績も特別悪いわけではなかったし、体調も悪くはなかった(少し体重は多かったがw)。

こんなにも健康なのに私は精神が不健康の状態にあったのだろう。

何もしたくなかった。

だから私はひたすら窓から外を見るという時間を過ごしていく。

暇つぶしのつもりだったがなかなかに座持ちがいい。

雨の日は雨の景色を眺めながら、

晴れの日は雲や青空を見つめながら、

ずっと外を眺めていた。

今、思えば軽度の引きこもりだったのだろう。

流れる景色を見ながら私は多くのことを感じた。

この時間は私の現在の思考法を身に着けるための重要な時間だったと思う。

感情は無で常に瞑想状態ともいえるだろうか。

この時間こそ私の思考を熟成させ今の自分へと繋がっていく。

私は心理的孤独を体感しそれを克服したのだ。

何が克服させたのか。

それは恐怖だった。

どれだけ自分が足を休めようと時間は過ぎる、

雲は流れる、

日は沈む。

自分がこの社会や地球環境の中で立ち止まることを空間と時間は寛容に許してくれるのだ。

ゆえに怖かった。

自分という歯車が止まろうと咎めない。

無言を貫きただ見せつけるのだ。

それでもなんでもなく動く社会を環境を空間を時間を。

私は今でもこの恐怖を感じることを心がけている。

次にこの恐怖を忘れたら私はきっと死んでいるだろう。

だから私は停滞を恐れる。

進歩を称賛する。

自由を求め、多くを感じ、そして必要な人・物を大切にする。

そのように心がけている。

私はあの時から思考が熟成するための基盤を持ちその後の経験を持って生きている。自分の意見を持ちそれを表現する。

生まれた国家を重んじ家族を重んじる。

私は集団の時間を好むのと同時に個人の時間を尊ぶ。

これは自己を見つめなおす時間。

自己との対話を行うためだ。

自分の経験を対話の中で言葉にし、それを自分の中で理解し発展させることで今の自分よりましな自分になれる。

私はそう信じている。

私が思うに人間は完璧ではない、

それは科学の力を借りようと信仰の力を借りようとも変わらない。

人間が作ったすべてのものは完全ではない。

完全とはこれ以上の進歩の否定だ。

人間は常に間違いミスをする。

それは欠片も悪いことではない。

それをバネに進歩することが重要なのだ。

弁証法的思考法などの哲学的な思考はこれらを大きく助ける。

進歩とは理性によって実現される。

自分を理解することで人は進歩する。

その手段として私は自己と対話し、他者と関わりそれぞれの意見を聞き理解する。

答えはない分野は多くの答えが生じそれを意見しあうことは当然だ。

これは素晴らしいことではないか。

個々人が独立した精神を持ちそれを表現しあっている。

私の理想の空間だ。

人の数だけ思考法がある、

答えがある、

視点がある。

これはいいことだ。

思考の熟成とは個々人の自我の萌芽を育て独立した個人という個性の花を咲かせることだ。

何を基準にして判断するか、

何を頼りに生きるか、

それは自分だ。

自分が認めたものだ。

自分が信じたものだ。

自分を認めてくれるものだ。

すべての理由の根源は自我に求めることでこれは独立した個人のスタートラインに立ったと言えるだろう。

我々は個人だ。しかし、孤独ではない。

一人であっても独りではない。

我々の思考に終わりはない。

すべての悩む人に伝えたいのは、あらゆる難関を克服し進歩してもらいたい。

進もうという意志があればその体が限界の時を迎えるまで我々は大事を成せるということだ。

思考の熟成こそ個人を生み個人は流れるだけの集団を導いていく。

それは多くの自己の進歩と難関の克服により培われた個性がきらびやかなものへと昇華してみえるからだ。

多くの人が個人となり独立した精神を養い終えたとききっと世間は安定するだろう。

なぜなら人間の不完全さはより多くの人間の助け合いによって是正されるのだから。

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