僕はそれでもダムが嫌い

白地トオル

それでも大丈夫です


 「あーそれでも?日程調整なんかは主任にお任せするつもりなので―——」


 僕は手元でくゆるコーヒーの湯気を見つめながら、受話器をゆっくりと降ろす。水色のフラットファイルから一枚のプリントを取り出すと、片目でそれを上から下に眺め、熱いコーヒーをすする。そのプリントには那覇市内の旅館、その名称と住所が羅列されている。昨日、那覇市のHPから拝借したものだ。


 「主任、なんだって?」


 同僚の教員が椅子を回転させ、僕に向かって問いかける。


 「いや、特には。主任も相当悩んでるよ、あれ」


 「そうか……、また会議だな。早いとこ決めたいな」


 修学旅行—―――学生諸君にとってこれほど胸躍る単語も多くはないだろう。惰性で通う退屈な学校生活から脱する一大イベントである。彼らにはこのかけがえのない経験を存分に享受してほしいと切に願う。

 

 が、その一大イベントを陰ながら演出するのは我々、”教師”である。


 宿泊先や移動手段の手配、企画内容の立案、厳正的確な危機管理―――様々な事務が我々の双肩に重くのしかかる。当然のことであるが、教師としての本分も忘れてはいけない。旅行の日程を考え、授業は通常より進度を上げる。自ずと授業計画は修正する。生徒達には悪いが、授業の質は保証できない。この時期になると、自習プリントを刷るプリンターの音は止むことがない。


 彼らには存分に楽しんでもらいたいと思う反面、大変な重荷になっていることは教師全員が口に出さずともふつふつと募らせる思いである。



 「あ、今日飲みに行ける?」


 同僚がグラスを持ったようなジェスチャーをする。


 「ああ、別に


 「じゃあまた後で声掛けるわ」



 

 僕は一つため息をついて自分の机に向き直ると、少しばかりぬるくなったコーヒーで喉元を鳴らす。コーヒーカップを降ろし、視界が開けるとそこには見慣れた女性教諭が仁王立ちしていた。


 「………」


 「あ、あの、志藤先生?何か御用でしょうか?」


 その女性教諭は御年50歳のベテラン国語教師だ。堀の深くなった顔の小じわと切れ長の細目に僕は意識が吸い込まれそうだった。というのも彼女は何かと若い教師に説教するのが日課らしく、例によって僕もこうして仁王立ちする彼女の前で幾度となくお叱りを受けてきたのだ。最近はその人間臭い顔の曲線を見るだけで、嫌気がさしてきていた。


 「先生、先ほどお電話で何とおっしゃってました?」


 「はい?電話ですか?」


 「ええ」


 果たして何かまずいことでも言っただろうか?志藤先生の話はしていない。主任と修学旅行の日程の打ち合わせをしていただけだ。

 僕は何度思い起こしても不可解な点はなかったと自負する。同時に、彼女が何かを聞き間違え、僕に突っかかてきているのだと苛立ちさえ感じ始めた。


 「あの……何のことでしょうか?」


 「それで大丈夫です、と確かにそうおっしゃいましたよね」


 「は、はあ…」


 さっきの主任との会話で?僕が言ったのか?確かに最後の方でそんな言葉を口走ったような気もするが、特に気にするところではない。特に気にすることのない、意味のない言葉だからだ。


 「さっきも若山先生との会話の最後―――別に大丈夫だけど、とそうおっしゃいましたね?」


 若山は先ほど僕と話していた同僚だ。そのセリフは朧気ながら覚えているが、一体それが何だというのだ。


 「はい、まあ…」


 「の意味分かってます?」


 僕は一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。

 大丈夫の意味が分かっているかどうかだって?確かにその言葉を辞書で引いたことはないし、はっきりとした意味を分かって使っているわけではない。ただ、それに答えるとすれば「問題ないです」とか「いいです」とか、承諾する場面で用いられるものじゃないだろうか。普段の会話から推測すれば、その辺りの解釈になるんだろう。


 「大丈夫というのは、安心できる状態や確かな事実に対して使用される言葉なんです。先生の使い方は社会人として、生徒を指導する教師という立場として間違っています―――」 


 志藤先生の言葉をまとめるとこうだ。「貴方の使っている言葉は若者言葉で、生徒に悪い影響を与えかねない。人を教え導く立場にあるというなら、普段の言葉遣いから気を付けろ。それが教師たるもの最低限の約定だ」―――つまりはこんな内容だ。付け加えるように職員室で飲み会の話などするな、とも言われたが。


 周囲の教員はその一連のお説教を無関心な様子で眺めていた。








 「くっそー!何であんなこと言われなきゃいけないんだよ!」


 お酒の話などするなと言われたが、僕は約束通り同僚と居酒屋に来ていた。 

 

 「若山も聞いてただろ?Sのあの説教」


 僕の顔はいつもより赤くなっていた。きっといつも手を付けない日本酒なんかに手を出したからだ。普段は酒の席でもおとなしい自分だが、今日はよく舌が回った。主にS(志藤先生)についてのことだ。


 「まあ、いつものことじゃんか。あの類の説教」


 「だけどさ、あんな先生たち全員がいるようなとこで言わなくてもいいじゃんか。ホント嫌だった、あの時間」


 若山はお皿に盛りつけられたチャンジャを口に運ぶ。目線を落としながら、それを咀嚼する。


 「確かにSの説教は目に余るものがあるよな。最近のトレンドは人の言葉尻を捉えるやつな。お前も今後は気を付けた方がいいよ」


 「はあああ、めんどくさいな」


 僕はお腹から声を出して膿を出し切るようなため息をつく。


 「校内を歩くときは辞書持ち歩いてればいいんだよ、これ名案じゃね」


 「いや、あの人のことだ。辞書なんてかざしても、言葉はそう一義的に捉えられるものじゃないですから!キリッ……とか言いそうじゃん」


 僕は目を細めて眼鏡を上げる仕草をする。


 「確かに!言いそう!」


 若山はそう快活に笑いながら、グラスに残っていた少量のビールを一気に飲み干す。グラスをゴトン、と置いたところで気の抜けたような顔をする。


 「あれ、でもさ……」


 「どうした?」


 「いや、一義的に捉えられるものじゃない…って言ってたけどさ、って言葉もさ結局そうなんじゃねえの?元々の意味はどうあれ、色々な使い方があっていいわけだろ」


 「ああ……」


 僕は幾分か酔っていたので彼の言葉をよく理解できなかった。それでも彼の口調から志藤先生に対する反抗と受け取ったので、僕も同調するようにグラスを干した。


 「まあ、結局さ、なんで怒られなきゃいけないのって話だよ」


 「…………だな!」


 若山もそれからは深く考えようとしなかった。

 呼び出し鈴を押して、今日何杯目か分からないビールを注文する。僕は彼と何度もグラスを打ち合わせ、微睡の夜に身を沈めていった。



 それから何時間経ったか分からない。終電に乗ると言った若山と駅前で別れてから僕は徒歩で自宅に向かっていた。はっきりと目は開かないが、幸いにも歩けないほど酔ってはいなかった。いつか理科の教材ビデオで見たカフェインを摂取した蜘蛛のようなフラフラとした足取りで一歩一歩進んでいく。

 

 気づけば僕は光ある方に歩を進めていた。


 「あ、コンビニ……なんか買って帰るか」


 お酒ばかり飲んで少し味気のあるものが欲しくなっていた。

 店内に入ると僕は真っ先にカップ麺のあるコーナーに向かった。種類は多いが、普段から食べるものは決まっているのでそれほど時間をかけず、一つを手に取り、レジへ急いだ。


 「っらっしゃいませー」


 ロボットのような受け答えをする店員。



 「お箸一膳でっすか?」



 「え、あ、はい」



 「ポイントカードはお持ちですかー」



 「いえ」



 「今キャンペーンやってて、すぐにお作りできるんスけど」



 「いや、大じ―――」


 丈夫です、と言いかけたところで口をつぐんだ。

 こんなにも自然に大丈夫という言葉が出てくることに不自然さを感じてしまった。今日あんなことを言われたせいだろう、僕は「大丈夫」と出掛かった言葉を制止した。では何というのが正解なのだろう。ゼロコンマ何秒の間に僕は代わりになる言葉を探した。


 「い、いや結構……です」


 「あ、あ、はい、そうスか」


 レジ袋に入った品を受け取り、僕は店を後にした。

 何だか酔いも一気に醒めていて、はっきりとした足取りで帰路を辿っていた。




 *




 今日は久しぶりの休日なので気分転換にと、大学時代の旧友に会いに来ていた。都内から電車で三時間―――こんな用がなければ、この地には温泉療養しか来る目的は見つからないだろう。

 普段の週末は担当顧問になっているバレー部の練習に付き合っているので、僕は良い気晴らしになるかとこうして遠路はるばるやって来た。



 「やあやあ、いらっしゃい」



 「元気そうじゃん、ハカセ。元気?」


 僕がハカセと呼ぶその男は、いつもの天然パーマを風になびかせながらやってきた。彼は博識で頭の回転が速く、その綿あめのような髪型からハカセの愛称で親しまれていた、その人だ。


 「朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや」


 ハカセは空を指さしながら、そう答えた。


 「それは―――」


 「論語さ。高校でもやったろ?」


 「それぐらい分かるよ。こんな僕でも今は教師だ」


 「悪かったよ。早速だが昼ご飯にするか?」


 僕は自分のお腹をさすってほほ笑んだ。


 「そうしよう、実はペコペコなんだ」



 彼が連れていってくれたのは地元で親しまれている洋食屋だった。創業八十年、戦前から続いている老舗で、今の店長が五代目なのだという。名物料理は鉄板の上に乗せたハンバーグにじっくり煮込んだトマトソースをかけた「鉄板!トマトバーグ」だ。店長曰く鉄板のダブルミーニングに気づけば半人前、気づいて敢えて口に出さないのが一人前なのだという。はっきり言って謎のこだわりだ。

 

 ここに来るのは随分と久しぶりだ。

 店長が僕を驚いた顔で指さしてキッチンにいた奥さんを呼び出してきてくれたのは恥ずかしかったけれど、少し嬉しかった。


 「いつ食べても美味しいだろ?ここのハンバーグ」


 ハカセが口元に付いたトマトソースを拭きながらそう言った。


 「ああ、このタネを食パンでしてる感じ、懐かしいよ」


 「バ、バカ、あんまし大きい声で言うなよ。最近、牛肉の値段が高騰してケチってること隠してるらしいんだから」


 ハカセは目を大きく見開いて人差し指を口元で立てた。


 「そうか、ここも営業厳しくなってきてんだな」

 

 「ここはましな方さ。国道挟んで向こう側の……海岸沿いの方は不景気の余波をもろに受けてる。どこも空き家ばかりだ」


 「へえ、そうだったのか…。官公庁の研究施設なんかが多いからもっと栄えてるのかと思った。それにここも数年前までは、それほどじゃなかっただろ?少なくとも僕が……ここの大学に在籍してた頃はさ」


 「ああ、高速新幹線の建設が始まる前まではな。の停車駅が決まってからここらの地価は一気に下がった。みんな先を見越して隣の県に引っ越していったよ」


 高速新幹線―――世界で最も速く移動ができる車両として近年注目を集めている。その停車駅が決まったことは昨年テレビで散々報道されていたのを覚えている。


 「そうか。高速新幹線の……」


 「まあ、心配するなよ」


 「心配というか、やっぱりここには少なからず愛着があるし、その面影がなくなっていくのはちょっと寂しかったりするんだ」


 「平気だって、何たってこの地にはこのハカセがいるんだからな!俺に任せておけばだよ!」 



 その瞬間、なぜか心臓が跳ねた。

 ここ数日で「大丈夫」という言葉は自分の中で禁句になっていたらしい。その言葉を安易に使ってはいけないと赤信号が点滅していた。


 それにこの男だけには使ってほしくなかったのだ。



 「あ、あの、今って」


 「え?」


 「いや、気を悪くするつもりはないんだけど……その、大丈夫って言葉は若者言葉になり得るからさ。ハカセも立場的に良くないんじゃないかってさ……」


 ハカセは拍子抜けしたような顔をした後、顔をくしゃくしゃにしながら大声で笑いだした。周囲の客の注目が集まっている。僕は何だか恥ずかしくなって、そのジャングルみたいな頭を掴み、掠れた声で言った。


 「何が可笑しいんだよ。僕は結構、真剣だぞ」


 「真剣だから可笑しいんじゃないか。『はじめてのおかいもの』って番組見たことあるだろ?小さい子供たちが一人で買い物してくるっていう、あのテレビ番組」


 「それがなんだ」


 「子供たちが買い物っていう未知の領域に飛び込み、そこで遭遇する様々な困難や成功に一喜一憂するさまは見ていて面白い。それは紛れもなく彼らが『真剣』だからだ。演出なんてこれっぽっちも気にしない、目の前の出来事だけに感情を露わにする。だから面白い」


 ハカセの目は僕をまっすぐ見ていた。それが彼の言うように真剣と形容するなら、確かに急にこの状況が可笑しく思えてきた。


 僕は彼の頭を放す。


 「でもそんな言葉づかいを気にするようになるなんて……本当に教師になっちゃたんだな」


 「いや、これは―――」


 職場の上司に注意されたからとは言い辛い。同世代の人間に自分の失態は知られたくない。別に彼を敵視しているわけではないが、人間ならそんな風に思っても仕方のないことじゃないだろうか。


 「それはともかくとして、さっき『大丈夫』の使い方が若者言葉って言ったっけ?そこから訂正しよう」


 「訂正?」


 ハカセは座り直し、襟を正す。背筋を伸ばしたかと思えば、一つ咳ばらいをする。まるでそうすることが常態であるかのように。


 「実はこのハカセが言った『大丈夫』は本来の意味で言えば、正しい使い方だったんだ。『大丈夫』は『あぶなげがなく安心できるさま』とか『強くてしっかりしているさま』とかそういう意味を持ってる。だからこの街を俺に任せておけば大丈夫―――というのは頼りがいのあるナイスガイという意味に他ならない」


 「そう……だったのか」


 「それに『大丈夫』という言葉は、元々中国語の成人男性を表す『丈夫』という言葉から更に立派な男性を『大丈夫』と呼んだところから来ている。つまり誰もが見初めるナイスガイってことだ」


 流石は国立国語研究所の研究員といったところだろうか。正すことは正し、その結論に至った理由を明確に示してくれた。やはり、今日ここを訪れたのは意味があったことなのだろう。


 「実はそのことで話したいことがあってさ―――」



 僕はすべてを話した。国語の担当教諭から「大丈夫」について厳しい指摘を受けたこと、「大丈夫」という言葉が定着しすぎて抜けないこと、そして、つい職場で話してしまい同じ教諭から繰り返し叱責を受けているということ、洗いざらい全てを話した。


 ハカセは腕組みをして、深く頷き―――。


 「お前は真面目過ぎるな」


 苦笑いをしながらそう言った。


 「真面目?」

 

 「そんな風に考え直す人って珍しいよ。まあ、お前みたいな人がいるから俺も研究者冥利に尽きるんだけどさ」


 ハカセは食後のバニラアイスをスプーンで半分に割り、それをさらに半分に割り、さらにさらに半分に割っていき、フロートのようになるまで溶かしていく。



 「それより何でそんなに怒られなきゃいけないのかって思わないか……?」


 「それについては微妙だな。同調しかねるよ」


 「なんで?」


 「俺がそう思うに至った過程についてはめんどくさいから割愛するけど、以前からそれについて考えていたことがあるんだ」


 「それは……?」


 僕はなぜか息をするのも忘れていて、生唾を飲み込んだ時に驚くほどはっきりとのど越しを感じた。



 「お前、ダムは嫌いか?」

 


 「は?ダム?」


 「そう、ダムだ。」 


 ダムと言えば、河川の水をせき止めるあの構造物のことだろうか。しかし、今の話に何の関係があると言うのだ。


 「いや、急にどうした?」


 僕はつい鼻で笑った。こうしてやるのが何となく正解だと思ってしまったからだ。


 「失笑、って感じだな。でも俺は至って本気だよ」


 「だからダムが何なんだ」


 「この世界では絶えず、新語と言われるものが流行ったり廃れたりしている。既存の言葉にも多様な意味がくっついたり離れたりしてる。それは恐ろしくも、この世の自然の摂理で、誰にも止められない一つのなんだ。だがそのおかげで言葉は様々な形をとり、様々な場所で息づいている。現在もこうして多くの人間が淀みなく言葉を使用できているのはそのによって言語活動が活性化されているからだ」


 ここまで話したところでハカセはいつかの女性教諭のように僕の前で仁王立ちをした。


 「ただそのは誰かがせき止めなければ、あてどなく流れ続ける。野を越え山を越え、海を越えて収まりがつかなくなる。その一例がこの世に数千と蔓延る『外国語』だ。お互いにお互いの言っている意味が分からないという、この異常な状況だ。アダムとイブが語用論に長けていて、人間に単語の正しい意味と分かりやすい文法を教えていてくれればこんなことにはならなかった。

 だから人間の手でそれをしなければならない。誰かがその流れをせき止めるダムにならなければならない」


 「で、でも……現実には新しい言葉も認められてるし、辞書にも……」


 「そう、もちろんは止められない。ダムもそうだ、年間に何キロリットルも河に流し続けている。だが一度止めるのとそうでないのとでは大きな違いがある。『本当にその使い方は合っているのか』『それにとって代わる正しい慣用的な言葉はあるんじゃないか』そうやって誰かが手を挙げて、言葉の枠組みをしなければ、この世に言葉は増殖し続ける。地理的な問題だけじゃない、世代間の境界線だって生まれる」


 「ハカセ……考えすぎじゃ……」


 「現時点では杞憂だとそう言わざるを得ない。だが現実にうねりを上げているはもう止められないところまで来ている。俺がこのアイスを食べ始めてから、実は3点―――典型的な言葉の誤用を犯した。気づいたか?」


 僕はハカセの独特なアイスの食べ方には気づいていた。そこから何分経っただろう、きっと二分も経っていない。その間に3つも?はっきり言って分からない。ハカセが間違えるはずがないというバイアスもあるが、それでもなにか不自然な点があっただろうか。


 僕が言葉に詰まっていると、ハカセは笑みを浮かべた。



 「そういうことだよ。俺としてはその教員のことは悪く言えない、俺も立場こそ違えど同業者みたいなもんだし。きっとそんなグチグチと言い続けるほど無能じゃないけど」



 ハカセはそのまま店長の奥さんに声を掛け、勘定を済ませた。

 「また来いよ」と後ろ姿で僕に手を振った。







 「せんせー、また宿題?最近多くない?」

 「今週、部活忙しいんだけどー」

 「先生、楽したいだけでしょ」


 教壇に立つ僕に向かって好き放題言う生徒たち。

 この時期、この手のクレームは少なくない。僕はコールセンターの職員のように通り一辺倒な答えをする。


 「そのプリントからテスト出すから、しっかり勉強しておくんだぞ」


 生徒らは一斉にため息をつく。


 「それに修学旅行も近いんだから、今のうちにしっかり勉強しておくように」


 実際には、その逆だ。修学旅行が近づくと皆、浮足立って勉強が手に付かない。それでも、くぎを刺しておくのが教師の役目だ。


 「修学旅行行ったら全部忘れてそう」


 「それなー」


 「それにしてもさ、どうする?沖縄だぞ、沖縄」


 「海とか料理とか、あとは……沖縄美女も楽しみだな!」


 「それな!」


 男子生徒たちが沖縄の話で盛り上がっている。

 授業終盤であったが、一応課業中だったので彼らを制止しようと思ったその瞬間だった。



 「先生!沖縄美女と仲良くなっちゃってもっすか?」



 僕は息をのんだ。


 男子生徒たちの下卑た笑い声が遠くで聞こえる。


 彼は今、確かに「大丈夫」と言った。

 それは「ナイスガイ」という意味で言ったのか、沖縄美女を捕まえられるくらいのナイスガイ……そういう意味で言ったのか。いや、違う。彼は僕に承諾を求めたのだ。そんな使い方は正しくない……。正しくない。



 ―――誰かがその流れをせき止めるダムにならなければならない。



 先日のハカセの言葉が頭を駆け巡る。

 そうだ、僕は一人の大人で、社会人で、教師で、ダムを築くべき人間なんだ。


 ダムを築かなければ、この世界は……どうなるんだっけ?


 

 ―――お互いにお互いの言っている意味が分からないという、この異常な状況だ。



 そう、彼によればこの状態が続けば僕らはお互いに意志疎通が取れなくなる、確かにそう言った。真剣な表情でそう言った。今ふと思い返せば、彼は真剣な表情をしていた。でも笑えなかった。一つも可笑しくなんてなかった。

 真剣だから可笑しいなんて嘘だ。買い物に行く子供たちは真剣なんじゃない、そういう状況を与えられたからそうしているだけだ。母親とテレビクルーに言われるがまま、その状況に身を置いているだけだ。全てはに身を任せて…。

 

 この僕の生徒たちもそうなのだろう。型枠にあてはめられた言葉を利用するよう縛られて、でも本当はそれを無碍に扱っていて、自分たちが生み出したと気づかないに身を任せているんだ。


 そのを止めるためにはここで指摘するしかないんだ―——。

 



 「あ、あのな……、当日そんな余裕ないぞ?」


 「なんだよ、先生ノリ悪いなー」


 


 ―――お前、ダムは嫌いか?


 ハカセの言葉が鮮明に聞こえる。

 この先の世界がどうなろうと僕の知ったことじゃない。そしてそれはきっとこの生徒たちも知らないずっと遠い未来の話だ。これからは僕の、彼らの世界だ。もっと自由にさせてくれ。こんなどうでもいい話でも、その話の腰を折らせないでほしい。


 世界が混乱の渦に巻き込まれる時代が来るのだろう。


 それでも僕はダムが嫌いだ。

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