魔法使い

毛糸

第1話


「すぅ──はぁ──」


 肺一杯に吸い込んだそれを、夜空に向けて解き放つ。独特の匂いを放つ煙は直ぐに夜闇へ溶け込んで、冷たい風となって頬を撫でる。

 闇に覆われた、人の気配のない小さな公園。街の中にありながら、その喧騒がこちらまで届くことはない。


 静寂が支配しているこの空間は、昼夜を問わず人の気配が無い。まるで、ここだけ世界から切り離されているような、そんな気さえしてくる。


「はぁ──」


 もう一度白い煙を吐き出す。今度は、内側を空にする様に深く、深く吐き捨てる。全てを吐き出し思考を止めて、天を仰ぐ。

 なにも見えない。雲は闇と同化し、星は街灯に遮られた一面の闇色の空。何を思うでもなく、考えることもなくただ仰ぐ。


 存在するのはベンチに座る俺一人。感じるものはこの臭いだけ。それ以外、此処には何も無い。


 この世の理不尽も、世間の不条理も無い。


 時間だけが消費され、得られるものすら皆無。


 だから此処には何も無い──


「……?──」


 そんな何も無いはずの世界に、何かが紛れ込んできた。それは徐々に近付いて来る。次第に大きくなってくる。


 一人の女性が公園へと入って来る。厚手のコートを羽織り、マフラーを巻いている。そしてその腕の中には、泣きじゃくる赤ん坊を抱き抱えていた。

 その腕の中で護るようにしっかりと抱きながら、揺らさぬようにゆっくりと歩いて来る。子供は依然泣き止まない。


 俯いている彼女は、俺の存在には気がついていない。赤ん坊をあやすので精一杯らしい。徐々に距離が詰められていく。


「っ!?──あ……」


 俺の視線に気がついたのか、それともこの煙の匂いに気がついたのか、ようやく俺を認識して、小さく声を上げた。


「ごめんなさい……気がつかなくて──」


 そう言って彼女は踵を返して立ち去ろうとする。


「あ、いや──大丈夫、もう終わったんで──」


 もう少し気の利いた言い回しでもできればと後悔しながら、くゆらせていたそれを始末する。そしてすぐさま立ち上がると、彼女の足はピタリと止まった。


 赤ん坊の夜泣きで苦情でも言われたのだろう。だから彼女はこんな所まで来てしまったのだ。誰も何も無いこの場所に──


「すみません──」


 彼女は振り返り、俯いたまま消えそうな声で小さく答えた。


 これ以上此処に居ては、彼女に気を使わせてしまうばかりだ。そうそうに立ち去ろうと、彼女の横を通り過ぎようとした。だが、俺の足は何故か彼女の前で止まった。


「元気な子ですね。さっきからずっと泣きっぱなしだ──」


 そう言って少しだけ腰を曲げ、赤ん坊に手を伸ばしていた。


「え──あのっ?!──」


 何故こんなことをしているのか、自分でも分からなかった。ただ、泣きじゃくるこの赤ん坊が、どうしようもないくらいに寂しそうに見えてしまった。


 母親は後ずさりするが、俺の手からは逃げなかった。


 そうして俺の小指が、赤ん坊の手の近くまでくると、その子は小指を握りしめた。小さな手で、もう二度と離すものかと訴えるように力強く握りしめた。


「え──」


 そして、俺の小指を全力で捕まえた赤ん坊は途端に、いとも簡単に泣き止んだ。今度は静かな寝息が夜へと溶けていく。


「えーと。これで、今夜はよく眠れそうですね──」


 自分自身でも驚きながら、母親へと声を掛ける。意図せず、顔をのぞき込むような姿勢になっていた為、彼女と視線が重なった。


「はい──」


 彼女は短く答え、静かに微笑んだ。暗がりの中でもその整った顔立ちが、俺の視線を釘付けにする。


 小指が解放されるの待ってから二人と別れて帰路につく。その道中、頭から彼女の顔が脳裏から離れなかった。闇の中であっても自ら光り輝く宝石のように澄んだ瞳が、瞼の裏に焼き付いている。だがそれ以上に、その目の下にくっきりと大きなクマをつくったその顔は、母親と呼ぶにはまだ若かった。




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