17:52/大島利津の慰撫

 「はい、斎藤…これゆっくり飲んで?」

 全身に力が入らないんだろう、くたりと机にもたれかかって、顔は血の気が引きまくって真っ青通り越して真っ白。

 青天の霹靂が急転直下したおかげでメンタルがボロ雑巾になってしまった彼氏には、もうコーヒーなんか飲ませてる場合じゃなく――ドラマとかでありがちな『気付けの一杯』を注文したのは私も生まれて初めてだ。ここがいつものカフェじゃなくて、17時からお酒も出してくれるお店だったおかげで助かったね。

 私に支えられながら、斎藤がなんとかブランデーグラスの中身を口に流し込む。琥珀色の液体が一筋、口の端から零れたのをナプキンで拭ってやりながら、酔っ払おうが疲労困憊しようがこんなところを外で見せるタイプの男じゃないのを知ってる身としては、本当に胸が痛くなる……後輩が席外すまでよく頑張ったよ。こんな気遣いしかできないけど、私はできるだけ隣の斎藤を視界に入れないように前の空席を見つめる。

 でも現実問題として、ここのお店の人も今日はもう早いとこ閉めて帰りたいだろうし、私たちも電車が動いてるうちに駅に向かわないと。それにきっと、この人なら……

 「ほら、しっかりして。…ある意味大ラッキーだったってことは、頭じゃちゃんと理解できてるんでしょ?」

 グラスが空になってしばらく経ったころ――斎藤の頭がこくりと下がったのが、視界の端に見えた。

 「……いや良かったよ。………良かったけどな」

 「うん」

 「身元がハッキリしたのはデカい………しかも玉城の弟で………遠くに嫁に行かない」

 「うん」

 「………そうだよ、全部お前の言うとおりだよ………けどな………」

 「うん、感情は別だよね。…それはわかるよ」

 学生時代、鏡の前で毎日笑顔の練習をしてた頃の気持ちを思い出す。クラスの女子や姉妹に嫌われていった事実を、成績のせいだと理解はしても、私は納得するまでに一年はかかったから。

 「でも、ねーわ……………」

 また斎藤の声に涙が滲む。私はやっぱり隣を見ないまま右手を伸ばして、見た目よりずっとふわふわな髪の毛をできる限り優しく撫でた。

 ご両親を一度に亡くしてから5年間、ずっと兄妹2人きり。妹の夢のために自分の夢を諦めてさっさと就職、ダブルワークまで犯して現在進行形で学費を貯めてる、妹のために生きてきたような人。

 なのに…文字通り人生を注いできた『妹を守る』って役目がポッと出の男に奪われる、それがどれだけのショックなのか…私なんかにはきっと計り知れない。

 それだけじゃない。同年代よりもずっと大人びていて、要領も人当たりも人一倍よく、人脈広くて最高に世渡り上手――その全てはきっと、妹を養って生き抜くために身につけた処世術だ。もちろん、ご両親の保険金だとか親戚の援助があると斎藤はいつか話してくれたけど、ごく普通の男子高校生がある日突然、家庭の全財産と妹の人生を託されるってことがどれだけの重責か、いち企業の経理やってれば少しはわかる。私や普通の高校生がぬくぬくと恋や部活に青春してた時、ただ生き抜くためにこの人がどれだけの努力を重ねてたのかは…本人以外誰も知らないんだろう。

 だって、傍にいればわかる。沢山の処世術の下に隠した本来の斎藤は、きっとすごく真面目で人情家だから。入社より前のことは知らないけど、主任や玉城くんへの態度をよくよく見てれば、持てる力を尽くして二人の信頼に報いようとしてる姿がはっきり見えるから。ひょっとしたら、玉城くんをかわいがるのは自分に似てるからなのかもね。

 だから斎藤、もしその弟くんが信用できる子だったら、一緒に妹ちゃんを支えてもらってさ。そしたら、たまにはスマートでやり手な仮面を少しだけ外して……自分を休ませてあげてもいいんじゃない?

 ……でも、これは今はまだ言えないね。とりあえず弟くんに会ってみないことには不安は拭えないし、無理に仮面を外させたりしたら斎藤が壊れちゃうかもしれないし。正論は容赦なく言うけど、私だってその程度の分は弁えてます。今はとりあえず、ずっと黙って頭を撫でられてるこの人をちょっとでも元気づけて、妹ちゃんが待ってるおうちに帰そ。

 「でもさ斎藤。妹ちゃんがこの先もずーっと勉強一筋で、気付いたら恋愛するタイミング逃しちゃってたーってなるよりは、よっぽど良かったじゃない?」

 敢えて底抜けに明るい声を出すと、想像通り斎藤はびっくりした顔をする。こんな時は、私のデフォルト笑顔が最大限効果を発揮するはずだ。

 「医者になる夢も大事だけどさ。好きな人と結婚して、温かい家庭を築いてって、兄としてはやっぱりそういう人並みの幸せも掴んでもらいたくない?」

 斎藤はキツネ目を見開いて私を見ると、ぱちぱちと音がしそうなくらい瞬きを繰り返す。何か言おうと口を開いてふと止まり、じっと考え込んで、それから―――


 「………そうだよな…あいつが寂しい思いをしないのが一番だよな………」


 そう言った斎藤の顔は、本当に優しい『お兄ちゃん』の顔だったから、私は笑顔のまま急に涙が零れそうになって慌てて顔を左に逸らす。その一言だけで、2人がどれだけの寂しい夜を越えてきたのかが垣間見えた気がしたから。

 思春期からこっち、ずっと姉と妹2人に疎まれている私には、正直血縁の良さってのがピンとこないんだけど…その私にすら、斎藤たち2人の絆はちょっと羨ましくなるくらい温かい。天国の斎藤ご両親はほんとに素敵なお子さんを育ててこられたよね。

 「……今日はギャーギャー言って悪かったな」

 頑張って涙を引っ込めてると、横からやっと普段通りの斎藤の声が聞こえたから、私もようやく心の中で安堵のため息をつけた。

 「それだけ妹ちゃんが大事ってことでしょ?あんな取り乱した斎藤、もう二度と見れないかもね」

 わざと茶化してみたけど、斎藤はそこで言葉を切って…しばらくしてからぽつりと呟いた。

 「お前…ほんといい女だわ。俺にはもったいねーよ」

 「何言ってんのあんたがいい男だから傍にいるんでしょ?」

 「…………………そーかよ」

 被せ気味に即答すると、小さく返事が返る。そろそろいいかと右側に目をやると、斎藤はそっぽを向いていて――だけど、耳が真っ赤になっていた。

 最初の頃は、私の斎藤好き度が異様に高すぎてそれどころじゃなかったけど、最近はトマト化もやっと落ち着いてきて…逆に、この人が耳で照れるタイプなのがわかるようになってきた。こうやって少しずつほんとの斎藤を知っていけるのが、今は嬉しい。

 「利津」

 「なに?」

 「……ツトムに会う時同席してくれ。色々はわかっちゃいるが、自分がキレない自信がまったくねぇわ」

 「了解。現状把握能力なら、経理以上に信頼できる人いないでしょ」

 「…違いねぇな」

 いつもの経理ネタ、それでやっと斎藤が今日初めて笑ってくれたから…私はもう少しだけ踏み込んでみる。

 「それが無事に終わったらさ、…ご両親のお墓に報告に行かない?ついにあの子にも恋人ができましたー!って」

 「!………そうだな、……………そうする」

 見たこともない素直さで斎藤が頷いて、そのまま私の右肩に温かい重みが加わった。ふわふわの髪の毛が私の頬をくすぐる。

 「お酒買って、墓前で乾杯してこよ」

 「……………うん」

 このかわいさは反則だなぁ。そう思ったら、私の鉄壁デフォルト笑顔が、いつのまにか本物笑顔に変わってた。

 ずっと独りで頑張ってきたこの人が、少しでも寄っかかれる女で居られたのなら……面倒くさいことばっかりだった私の生き方にも、こういう意味があったのね。

 よかったな。うん、…よかったと思える日が来て、よかった。



 「――よし、雨やべぇし帰るぞ」

 「うん」

 長いような短い時間、寄り添って雨の音を聞いていた私たちは、斎藤のその一言でさっさと帰り支度を始める。いつもながら、こういう切り替え早いところはすごい気が合うわ。

 ブランデーのお陰か、斎藤はちゃんと立てるようになったみたいで、その襟どうなってんの?って形のステンカラーコートを手早く着込んでいる…いっつもそういうちょっと一癖ある服見つけてくるのがうまいよね。しかも格安で……あ、それよりうちの路線はちゃんと動いてるかな?あっぶな、マフラー忘れるとこだった。

 「お前、戸締まりちゃんとしてきたんならウチ来るか?台風すげえみたいだし、ウチのが近いだろ」

 斎藤の極限状態が無事解除され、すっかり気を抜いて支度していた私は……突然の提案にうまく反応できなかった。

 「え、えっ???だって、妹ちゃんが」

 「別に女同士なんだからいいだろ、知らない相手じゃねぇし」

 「そ、れはそうだけど」

 見えない線で、家族とプライベートをきっちり内側に囲ってるこの人の台詞とは到底思えない…どゆこと?????

 私の脳内は大混乱に陥ったらしく、素早くスマホで連絡を取り始めた斎藤の指を「長いなあ」と思いつつぼけっと見ていて……それに気付いた斎藤がぽすっと私の頭に手を置いた。そのままわしゃわしゃと髪をかき回される。

 「わ、わわわ」

 「独り暮らしなんだ、……心配だろ」

 「うん………うん?そっち?!」

 「他にどっちがあんだよお前は」

 「や、ないけど……」

 「凛は………お、いいってよ。どーすんだ?」

 「えっ、あ、じゃあ、せっかくだしお邪魔、してもいいの…??」

 「ん。――それから、利津」

 「うん?」

 思い出したように呼ばれて、未曾有の展開にまったく頭が付いていかないまま反射的にそっちを向くと―――しごく自然にとん、と唇が触れて離れた。


 「ありがとな」


 振り返りもせずに斎藤はそのまま会計に向かい、私は……………鞄を掴んだままの姿勢で体温の急上昇に耐えつつフリーズするしかない。

 ち、ちょっと、これも反則でしょ……あんた今すぐ耳見せてみなさいよ耳をーーーーーー!!!!!!!!

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