13:14/林万尋は動じない
「降ってきましたね…」
昼休憩も残すところあと15分、思いがけず樹さんと2人きりになれたレストスペースの窓を、雨粒が叩き始める。予報では『夜から降り始めて明日未明に台風最接近』のはずが…退勤時間に当たるとなれば最悪だ。
「ほんとだ………あ、そうそう、ジュエリーショップでしたよね。どこがいいですか?」
純粋な樹さんは、僕の少々露骨な思惑にも気付いた様子はない。僕が渡したココアを受け取ると、すぐにポーチを机に置き、空いた手でショップを鋭意検索しようとスマホを取り出している。
「そうですね…、樹さんは好みのブランドはありませんか?」
「私は特にないんですが……アクセはまだ敷居が高いですし…」
水を向けると、樹さんは少しだけ顔を赤くして、制服ベストの第一ボタン辺りをそっと右手で押さえた。社内では決して見せないけれど、そこには、僕の告白を改めて受け入れてくれた日に贈らせてもらったネックレスが付けられているはずだ。
思い返せばあの時、キスは無理ですと言われてしまったもののハグまでは許可をもらえて、僕は完全に浮き足立っていたんだろう。その勢いで指環を渡そうだなんて、今思えば付き合いたての中学生じみた独占欲を明け透けに見せてしまった僕は、樹さんの「今日という日の記念の品なのだから、自分だけが一方的にもらうわけにいかない」という言葉で目が覚めた。僕が心から好きになった人は、男性が女性にアクセサリを贈るのが当然だなどと考えたこともなく、贈り物は互いに贈り合いたいという真の公平さを兼ね備えた人だった。その貴さに目眩を覚えるほど感動した僕は、けれど同時に、この27年の人生で味わったことのない思いが込み上げてくるのを止められなかった。
恐縮しきりの樹さんに、彼女が一番目を奪われていたシンデレラモチーフのネックレスをどうしてもプレゼントしたい、と真剣に申し出て困らせた。しまいには、これは僕が勝手に購入するもので、僕が勝手に貴女に付けてもらいたいと願ってしまったのだからとまで主張した。代わりのものを何かこちらも、と焦る樹さんに次回でいいと言い含めてまで、どうして自分がらしくない強行手段に出たのか、ここまで天邪鬼な人間だったのかと連日悩んだ結果――僕はとある結論に行き着いた。
樹さんは本当の意味で自立した女性であり、そんな彼女だからこそ、僕は『どうか僕にだけは甘えてほしい』と願っている。
どんなに小さな望みであっても、いつも自分を抑えぎみな彼女が口にできる場を提供し続けていたいし、それを僕が叶えたい。
女性に対してこんな気持ちになったのは初めてで、それはきっと…樹さんという人を好きになったからだ。
「…でも、実は主任にオススメなものがありまして…!…ほら、これ、女性向けだとは思うんですが、フーさんモデルで…いかがですか!?」
今も樹さんは、きっとあの時から僕のために調べてくれておいたのだろう画像を差し出してくれる。スマホには蜂の巣がモチーフのネックレスがひとつ映し出されていて、僕は一瞬で目を奪われた。
「調べてみたらなんかフーさんモチーフって蜂蜜とろーり系だけのものが多くてですねでもやっぱり主任的にはフーさんの姿が最重要じゃないですか、だけどフーさんの全身が入ると途端にかわいい系にシフトしちゃうというか男性が付けるのはちょっとなってかんじになっちゃうことが判明したのでその点これは!横顔だけで大人っぽくもありクマでもあり!宝石もオシャンティ且つ蜂蜜も表現しててしかもアシンメトリーで上品な雰囲気が主任に似合いそうかなって!!ただゴールドがお嫌いじゃなければって点と私がプレゼントしていただいたものよりかなりお安いのでそこだけ申し訳ありませんというかんじなんですがどうでしょうか…!!!」
ものすごい小声の早口で、ネックレスの説明を情熱的に行う樹さん。今ひと目見ただけで気に入った品だけれど、僕だけのためにここまで選定を重ねてくれたこと、樹さん自らプレゼントしてくれようとしていることを加味すると…頬が緩むのを止められない。
「ありがとうございます。…樹さんのそんなところが、愛しくて…仕方ないです」
「え、ええっ?!ちょ、それはさすがに大袈裟では…!」
「本心ですよ。…ええと、これは、ネットで購入するんですか?」
「実店舗がありますよ!会社からそんなに遠くないので、もし気に入られたら見に行くだけでも…!」
「はい、とても好みですので、必ず購入しますね」
「あっ、いえ、これは私がこの間のお返しにー!!」
「樹さん…実を言いますと」
「はっ、はい!」
「貴女には、買って頂くより、これを僕に付けて頂く役をお願いしたいです」
「わかりました!これを付け…………付け…???」
「…それから、先程の件ですが」
混乱中の彼女にそれ以上時間を与えずに、僕は紅茶に口を付けると話を本題に戻す。僕ばかりが喜ぶ話題が続いてしまって、申し訳なさを感じるほどだ。
「あ、はい、えーと……ひょっとしてあれですか?先程の方の中にどうしてもお断りしたいお相手がいたりして、予防線を張っておく必要性が、とかそういうフェイクでは…?」
「………はい?」
……どうも話の方向性がおかしい。けれど、樹さんはスマホを置き、姿勢まで正して僕を見ていて…しごく真面目だった。
「あの、なんと言いますか、主任は………沢山の女子社員の憧れ的な方なので、そういうマンガのような事態もありうるのかなと」
「とんでもない、樹さんが思っているほど持て囃されてはないですよ」
「………………ハア………」
即座に否定するが、何故か樹さんと目線が合わない。誤解を恐れた僕は、本当に社内では女性社員にほぼその類いの話題を出されたことはないと追加説明するも、やはり彼女はどこか遠くを見ているようで――若干の焦りを感じる。
僕は周りに人気がないことを確認し、自分の紅茶と樹さんのココア缶を取り上げ机に置くと、彼女の空いた左手を取った。
「どちらにせよ、今は樹さんとお付き合いしていますし、…僕は本気です」
「?本気?……とは」
「――樹さんさえよければ、僕は、いつでも」
まだお付き合いも序盤な上、樹さんは男性との交際そのものが初めてなのだし、年配者でもある僕がはっきりと結婚を迫るというのはあまりにも重すぎる。それも見据えて貴女と真剣に交際している、という姿勢だけが伝われば、今はそれで十分だ。ただ、僕の側にはなんとなく……『この人は特別だ』という予感があるのも確かだった。
胸の内に隠した逡巡と、溢れる思慕とを乗せて――僕は樹さんの手をそっと持ち上げると、手の甲に…正確には薬指の根元に唇を寄せた。
「え、あ、しゅ…!?!?!?」
途端に真っ赤になってくれたということは…この先、期待する余地はありそうかな。すっかり満足してしまった僕に、樹さんが胸を撫で下ろしながらため息混じりに呟く。
「あのー………主任は、たまに本当に王子様に見えるときがあります……」
「一般的な父子家庭育ちですが、そうまで評価していただけてとても光栄です」
「!そうでした、もう色々伺ってるのに、つい…」
眉根を下げて、樹さんがようやく心からの笑顔を見せてくれる。
先程は辛い思いをさせてしまったようだし、交際公開という若干のイレギュラーも発生したものの、次回の素敵なデートの約束ができて、最後にこの笑顔が見られて、思いがけず最高の昼休憩を過ごせたように思う。
さあ、名残惜しいけれど…そろそろ時間も迫っている。僕は樹さんの手を離そうと――したところで、逆に力を込めて握り返された。
「…でも、そうなると……私だけで即答できるお話ではないので、まずは親にも相談しないとですよね?」
「え?………あ、はい、…そうですね、」
それはまったく想定外の言葉で、僕は…情けないことに、まともな返事が返せない。
「今日は確か…ほら、台風が来るから父も兄も帰りが早いはずですし、帰宅したら話してみます」
「えっ、今日…お話、頂けるんですか??」
「?はい。主任にお越し頂く前に、先に私から話をしておいた方がよくないですか?」
雨の音は激しさを増してはいたが、聞き間違いはない…と思う。
心臓の鼓動が、繋いだ手から聞こえそうなほど体中に響き始めて…もし紅茶を持ったままだったら確実に落としていただろう。うまく呂律が回らないまま、僕はなんとか言葉を絞り出す。
「それは、勿論…有り難いのですが、…この件で、もう僕が、お宅にお伺いしても…よいのでしょうか?」
「!気付かなくてすみません、主任のお父様にもお話しないとですよね」
これは、この展開はまさか……僕の勘違いではないはずだ。
動揺があまりにも激しすぎて、頭の中が真っ白になりかけている。…いや、それよりも、僕は今…どれだけ赤面しているのだろう?ようやくそこに考えが至った僕は、すぐに口に片手を当てて顔を覆うが時すでに遅く…気付いてしまった彼女が、不思議そうに小さく首を傾げてしまう。
「…万尋さん?どうかしましたか?」
――ああ、ここでごく自然に名前を呼ばれてしまったら……もう駄目だ。黙っていられない…!
「樹さん……貴女という人は………」
「えっ?えっ??」
「僕は今、プロポーズする前にイエスのお返事を頂いてしまったようなのですが、…そういう解釈で、よろしかったでしょうか?」
「……………………へ?…えっ?!…あっ?!?!」
やはり、客観的に指摘されるまで気付いていなかったようだ。樹さんの顔色は一瞬で真っ赤になり…きっと僕と同じくらいになったはずだ。繋いでいない右手をぱたぱたと振りながら、小声の早口でまくしたてる。
「す、す、すみません!!!もう自分の恋愛なんてこれが最初で最後だと思ってたので逆にまったく疑念の余地がなかったと言いますか、えーとえーと、こういうの重い女って言うんでしたっけ?!?!」
樹さんの率直な言葉が更に駄目押しとなって僕の心臓を鷲掴みにしてきて、僕は思わずネクタイごと自分のシャツの胸元を握りしめる。
これで間違いない。誠実さの結晶のようなこの恋人は、僕たちの将来が掛かるはずの乾坤一擲の瞬間を早送りでスルーして、即座に婚約者となる決意を固めてくれていたのだった。
「いえ、まったく重くないどころか、……すみません、僕も言葉が見つからなくて」
「う、うんそうですよね、さっきから万尋さんなんだか困ってるなあとは思ってたんですごめんなさい!!」
「それは…違います。初めは…聞き間違いではないかと緊張して、安心して、それから嬉しさが込み上げて……うまくお伝えできませんが」
「う、でっでも、あんまり嬉しそうに見えないというか…!!」
「それは………僕が困っているとすれば、」
もう…ほんの少しの余裕を見せかけることさえできない。丸裸になった今の僕にできるのは、いつかと同じく――ただ素直に心情を吐露して愛を請うことだけだ。
「…貴女を今すぐに抱き締めたい衝動を抑えられなくなりそうだからです」
「!!!!!」
樹さんの頬がさらに赤みを増したかと思うと、一瞬後には繋いでいた手を引っ込めながら怒濤のような小声でお説教をされてしまう。
「い、いいい今そう言われましても社内なので!包んでください!オブラートに!買ってください!!オブラートを薬局でー!!」
「これでも…精一杯包んでいます。正確には、抱き締めて―――、」
僕はそれ以上喋れない。樹さんの手が、大慌てで僕の口を塞いだからだ。
――だから僕はその先を、言葉にするよりももっと単純に、精一杯唇に込めて手のひらに伝える。
「?!?!?!?!?!」
一瞬後、樹さんがぱっと手を離してくれる。両手を握りしめながら、羞恥と困惑で大きく瞬きを繰り返す瞳は涙で潤みつつあって……彼女が受け止めきれないほど性急に想いを示してしまった罪悪感と同時に、僕だけに見せてくれるこの表情をたまらなくかわいいと思ってしまう自分がいることは、認めざるを得ない。
「ままままま万尋さん~!!」
けれど…これ以上樹さんを困らせるのは本意ではない。僕の人生において、これ以上動じずにいられない日はもう来ないだろうが、歯止めが効かなくなる前に――彼女の速度に合わせよう。
「すみません、では……『最後に、よろしいですか』?」
「!」
今では恒例となった、デート最後の別れのハグ。これは僕らのいつも通りの許可の言葉で、樹さんは未だ不慣れながらも、いつも拒むことなく真っ直ぐ応えてくれる。
そして今も、樹さんは一度深呼吸をすると、僕の背後をきょろきょろと見回してから、ぎゅっと目を瞑って微かに両手を広げてくれたので……僕はその間に身を滑り込ませて、彼女を思い切り抱き締めた。
その直後――廊下にチャイムが響き渡り、樹さんは飛び退きそうな勢いで僕から離れる。
「えっ?!あっ、もう昼休み終わった?!?!」
「樹さん、これを」
「わーすみません行ってきます!先に戻っててください~!」
机からポーチをすくい上げて渡すと、樹さんがぱたぱたと洗面所に消えていく。それを見送って、僕は大きく息をついた。
…かなり危なかった。喜びを隠しきれない僕を精一杯受け入れてくれる彼女が愛しくて、我ながら止まれる自信がなかった……チャイムに救われたようなものだ。
さあ、頭を切り換えよう。これからこなすべきタスクは山積された。まずは…来たるべき訪問日に備えて靴を新調しなくては。念の為、改めてプロポーズを行う場も必要かな。いや…まずは先程のネックレスの実店舗に、ブライダルリングの取り扱いがないかを調べるのが先だ。
「…最高の昼休憩どころか、生涯忘れられない昼休憩になってしまった…」
人事部に向かって急ぎながら、僕はひとり呟き破顔する。
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