4. 業務時間外

 仮眠室。

 2階総務スペースの奥、常夜灯のような小さな照明が足元に点いた短い廊下の先。

 入社時から存在を聞いたことはあったけどほぼ100%男性社員しか使わないらしいし、うちの部署は営業本部であって実際に営業してるわけじゃないから、部内の誰かが使ったという話も聞いたことがない。正真正銘本邦初公開、近づくのも見るのも入るのも初めてだ。なんとなくイメージ的にそーっと気配を消して近づいてしまうが、そもそも私はこの中の眠れる森の後輩を起こしに来ているので無駄極まりない気遣いである。そう思いつつもなお、私の手は通勤バッグ(ブラックレザー/アナスシ)と春秋通勤コート(ライトブルー/アニエスビー)をそーっと入口に重ねて置いてしまうのだった。日本人の性はいつだって悲しい。

 『仮眠室』と表札が付いてる以外、見た目はごくごく普通のドアでそれ以上でもそれ以下でもない。ここまでの人生で彼氏とか弟なら経験あるけども、『よく知らない男の人が寝てる寝室のドアを開ける』という荒ぶる所業は初めてなのでほんともう余計な緊張MAX状態。ていうか顔見知り程度の男性が寝てるところに単独で寝起きドッキリ敢行in会社って多分ほとんどの女がやったことないと思うけども!いやしかしここまできたら後には引けぬ!行くぞッ!ドアを今ッ!開けるッッ!!!

 「し、……失礼します………」

 極限まで高まった脳内テンションは、割り込みで発動した『無駄極まりない気遣いその②』の能力の前にあっさり敗れ去った。渾身の静けさをこめた右手がドアノブをゆっっっっっっっくりと回し、そーーーーーーっとドアを手前側に引く。ここまでセリフ以外完全な無音。私アサシンの才能あったっぽい。バッグとコートに見送られ、ついに部屋に侵入する。

 室内は思っていたよりも狭くて、四畳半…がそもそもよくわかんないけど多分四畳半もない…くらい?奥の壁に小さな常夜灯、入口側の壁には時計とエアコンと内線電話ってかこれあるなら内線番号誰か教えてくれれば良かったのに!ここまでの苦労はいったいなんだったのか!!…と叫びたくなるが時すでに遅すぎてああもう。

 そして毛布がこんもりと人型に盛り上がったシングルベッドが隅にある。毛布の上に広げてかぶせてあるジャケットが邪魔をしていて顔が見えない…どうして壁のハンガーに掛けなかったんだ皺になるやろと一瞬思うがそんな余裕もないほど眠かったに3000点。しかしベッドの足元には黒い革靴がきちんと揃えて置いてあった。うんやっぱりとても礼儀正しい若者だなあという思いと、うわあほんとに今ここで寝てるんだなんか生々しいなあという思いが複雑に混じってとりあえず超いたたまれない。よしこれ以上近づくのはいたたまれなさすぎるのでここから大きい声を掛け…でもこれワンチャン人違いとかないよね?実はドッキリで偉い人が寝てたりしないよね?ね?

 …結局私は『無駄極まりない気遣いその③』を発動、足音をスーパーサイレントモードに設定するとベッドの頭側に回る。クラスいちの真面目キャラのみが買うことを許されそうな、なんの特徴もないのが特徴の黒縁眼鏡が枕元に置かれてるのが見えて、その先に…

 いた。

 目標捕捉!確かに昼間廊下で見た、玉城と呼ばれていた後輩社員だ。仰向けでまっすぐ気をつけの姿勢のまま、胸辺りの毛布がゆっくりと上下に動いている。…っていうかこの人なんか不自然なまでにいい姿勢で寝てません…?寝相が良すぎて逆におかしいってすごいな!宿直2日目の仮眠室っていったらもうベッドから片足落ちてるとか、そういう惰眠貪りレベルを想像していただけに地味にびっくりした。

 「………!」

 その時私はうっかり気付いてしまった…壁側の肩が毛布からはみ出てきちんとかかってないやん!ごくごく自然にそれを直したくなってしまったのを慌ててこらえる。今はすっかりかわいくなくなってしまった5つ下の弟の布団をかけ直してあげる係は、長いことおねーちゃんであるこの私だったのだ。そして弟を持つ長女の大多数がそうであるように、何を隠そう私も年上派である!甘えさせてくれるお兄ちゃん属性に大変弱いです!そして大抵デートの段取りとか旅行の申し込みとかで自分の方が頼りになっちゃって失敗します!なんかもう世の中そういうものです!もちろん今は全然フリーです!!!

 …あかんなんか全然関係ないところで普通に悲しくなってきた。早く帰ろう疾く帰ろう。毛布に向かいそうになる手をぐっとこらえて、私は彼の肩辺りに手を伸ば―――


 「えっ?」


 どさり、という音と一緒に身体に衝撃が走った。一瞬で視界がぐるりと回って、目の前に人の顔がある。が、ただでさえ暗い常夜灯の逆光になって表情が見えない。


 「―――誰だ」


 唐突に口元らしき部分の影が動いて、低い低い声が聞こえた。そのたった一言を聞いただけで心臓がものすごい勢いで音を立て始め、目に見えない何かに押さえつけられたようにまったく動けなくなる。営業本部の山本です、早くそう答えなくちゃと頭では思ってるのに、掴まれてるらしい右腕と左鎖骨も、口までが石になったみたいで半開きのまま声が出せない。


 「…いい加減にしてくれ」


 さらに押し殺した呆れのようなものが声に乗ったのがわかった。これは本当に玉城くんなんだろうか。ああいったいどこで何がこうなっちゃったんだろう、拙者初犯ゆえ見逃してはいただけまいか。あああ本当にこんな時に心の底からどうでもいいけど、私多分なんらかの精神的ストレスがリミット越えるとなぜか脳内思考が武士口調になるんだな……なんで今気付いちゃったんだろう絶対これパニックで現実逃避してますやん……


 「………ん?」


 次に聞こえた妙な声とともに、押しつぶされそうだったプレッシャーがさくっと緩んだ。と思ったら、よく見えないままの顔が近づいてくる。近づいて……ってあれ近づくのが止まんない止まんないちょちょちょっとそれ以上は、え、えええ待って待って待たれよ心の準備の前に心臓口から出る……!!!


 「あ」


 もう少しで鼻と鼻が触れる限界までどアップになったところで顔が動きを止めた。そこまでくっついてやっと見えた玉城くんの表情は…すんごい眉間に皺を寄せていて、それが目の前でみるみるうちに真ん丸に目を見開いていく。


 「わ…わああぁぁぁああぁぁああああ!?!?」


 掠れた奇妙な悲鳴と一緒にどさりと再び重い音がして、私の上から人影が消えた。それと同時に私は大きく息を吸い込んでいて、それで初めて自分が息を止めていたことに気付く。人影がなくなった目の前には……何もない。壁?いや壁にはいろいろ備品が付いてたはず―――これは天井だ。でもなんで天井……?

 酸素不足の頭でなんとかそこまで考えつつもしばらくはあはあと肩で息をしていると、

 「本当に、本当に大変申し訳ありませんでした!!!」

 声がする方に目だけをちらりと向けると……ベッドから落っこちたと思われる人が床で土下座していた。そのまま微動だにしない。

 まてまて、まてまてまてまてまて待って待って。ちょっと状況を整理してみよう。

 ――いや、手掛かりゼロだし無理やこれ。

 状況判断を3秒くらいで諦め、とりあえず身体を起こす。……起こす?起こすってことは……つまり私はベッドの上にひっくり返されてた、のだ。しかも気付かないくらい一瞬で。……うわなにこれめちゃくちゃ恥ずかしくないですか。ってちょ、照れる前にまず若干乱れてたスカートの裾を慌てて直しつつあああタイト履いててよかったってこんなに思った日はないですと心から朝の自分チョイスに感謝する。

 よし、身支度が整ったところで改めて眼下の後頭部を見る。…そういえばさっき、眼鏡外したとこ初めて見たけど全然顔の印象が違ってた。必殺・無特徴黒縁眼鏡のせいで無害そうな眼鏡の人だなー以外の印象があまりなかったのに、ものすごくワイルド…というか男っぽかったような。個人的には普通にイケメンの部類にランクインするのではないでしょうか。そ、そんな顔が目の前に迫っ………いやこれは深く考えるのやめよう!ははは!とりあえずこの後頭部とコンタクト取らないと!!

 「あ、あの……」

 「はいっ!」

 弾かれたように即答が返るが、玉城くんは顔を上げないままだ。こんな時でも相変わらず土下座の姿勢がとても美しい。背筋が伸びたままぴしっと両肘が同じ角度で曲がっている……って、状況に頭がまったくついてきてないのにこんなどうでもいいことだけはスッと入ってくるのがすごく不思議。

 「あの、大丈夫ですか…?どこかお加減でも、」

 「あ、いや、ちょっとボケっとしてて…もう私も何がなんだか……?」

 「………ですよね。僭越ながら、こちらからかいつまんでご説明してもよろしいでしょうか…?」

 「は、はい」


 「まず…その、変な話ですが、私の実家はとある流派の古武術道場を営んでおりまして」

 「道場…?」

 「はい。兄が跡目を継ぐ予定だったものの、外国人女性との結婚を許されず、つい先日…いわゆる、駆け落ちをしたようで」

 「駆け落ち…??」

 「はい。跡目の話が次男の私に回ってきたものの私に継ぐ気はなく、一方弟には才気もやる気もありまして、辞退するつもりが父母を始め親類一同が許さず」

 「許さず…???」

 「はい。その、お恥ずかしい話ですが、昼夜を問わず説得…というか、闇討ちに来られまして」

 「闇討ち…????」

 「はい。今日は宿直で寝ぼけていたのもあり、つい習慣で…その、先輩を引き倒すという大失態を…」

 「習慣で…?????」


 ……………うん、えーと、よくわからんがよっくわかった。なんというか、『何もかもが理解できないまま理由に納得がいく』という謎の新境地を開いてしまった。正直これって夢かな夢だろ夢だと言ってくれレベルの話だけどつじつまが完璧に合ってる、てかぶっちゃけこのぶっ飛んだ理由以外で説明つかないでしょこんなぶっ飛んだ状況。

 だって私は知っている。ひとっつも疑わずに先輩の宿直を二晩連続で替わるような人が、その場しのぎの嘘なんかつくはずがない。彼はきっと、信頼できる人なのだ。

 と、いうことは……

 「……つまり、えーと私は、ご家族の闇討ちと間違われた……?」

 「おっしゃる通りです。残業の方がいると聞いていたのにこの失態、誠にお詫びのしようもございません…!」

 驚くなかれ、実はここまで玉城くん普通に土下座のまま会話が進行している。口調も完璧敬語というか一人称がワタクシになってるレベルです、きちんとしたお家でお育ちになったのねどころじゃなかったきちんとしすぎてるお家だったよ。……とか合点がいってる場合じゃない。そろそろ耐久土下座を解除しようよ玉城くん、君の誠意はちゃんと通じてるから、もう大丈夫だよ。

 「うん、わかった。もうお詫びは充分だよ、だから顔を上げて」

 私は枕元の眼鏡を取って差し出す。多分彼はこれがないと何も満足に見えないんだ。こんな暗がりの中だと、相手の顔さえも。

 「あ……あの、もし許していただけるなら、念のため私が触れた箇所を診させて頂いてもよろしいですか…?!」

 「へっ?え、あ、うん」

 眼鏡を掛けると、玉城くんはやっと顔を上げた。暗い照明の下できちんと見た彼の顔は、今にも泣きだしそうだった。その場で立ち上がるとわざわざ両手を上げて手のひらをこちらに見せながらゆっくりと近づき、失礼します、と言ってから私の右手をそっと取った。そこで私はやっと気付く。


 ――彼の手は大きくて、ごつごつしていて、そして震えていたんだ。


 「玉城くん、」

 「…先輩、怖かったですよね。本当に不快でしょうが、もう少しだけ我慢していただけると…」

 なにか、なにか言わなくちゃ……私がそう思っている間に、彼の手はまるで壊れものに触るみたいに、さっき私の右腕が掴まれてた辺り、それから肩を何度かやさしく握った。

 「痛く、ないですか?」

 私はぶんぶんと首を振る。彼は聞こえるほどホッと大きく息を吐くと、次はブラウスの衿近く、左鎖骨の辺りにそうっと慎重に指のひらを置いた。やっぱり指が震えたままで。

 もちろん状況的に心臓がうるさく騒いではいたけど、私は…もう怖いとか恥ずかしいとか、一切思っていなかった。玉城くんはこんなにも真剣に私の身体を傷つけてないか必死に確かめてるんだから、先輩の私がうろたえてる場合じゃない。

 しばらくしてそっと手が離れた。

 「――骨や筋はなんともなさそうです」

 「うん、ありがとう」

 「いえ、そんな!ですが、………もしかしたら、いえ多分、痣になる、可能性が」

 「わかった。平気だよ」

 「へ…平気って、先輩」

 「もういいよ。大丈夫だから」

 「だ、大丈夫ではないです!」

 彼の口から、こらえきれなかったように声が漏れた。

 「先輩の、…女性の肌を傷つけるなんて……!いったい、どうやって、償ったら……」

 絞り出すような、苦しそうな声。それを聞いて私は唐突に気付いた。


 違うよ玉城くん。傷ついたのは、私じゃなくて玉城くんだよ。


 「ほんとに私は大丈夫。痛くなかったし、痣になってもそんな見えるところじゃないし」

 「い、いやでも」

 「それに、怖いとか思う前に、なんか気付いたらくるって回ってたというか」

 「それは、あの、たまたま先輩が綺麗に受けてくれただけで…」

 それでもなお何かを言い募ろうとする彼に、とうとう私は震え続ける彼の手を両手で掴んだ。わっと声をあげて驚く彼に構わず、震えを吹き飛ばすようにぶんぶんと大きく振る。

 「玉城くんはたくさん謝ってくれたから、もう自分を許してあげて。ね」

 「あ………」

 玉城くんの目は一度大きく見開いて――それから顔全体がくしゃっと歪んだけど、彼は泣かなかった。深呼吸の音が何度か聞こえると、それに合わせて震えが少しずつ止んでいって……しばらくすると、玉城くんは別人のように落ち着きを取り戻していた。

 「…申し訳ありません。完全に取り乱していました」

 「うん」

 「大変お手数をお掛けしました。…初めてだったんです。武術の心得のない方に技を掛けたのが」

 「そっか、そりゃ怖いよね」

 「はい。アキラ先輩が無事で本当に良かったです。ありがとうございます」

 「う……うぇ?」

 心臓が突然跳ねたので自分でも予想外の声が出た。それはやっと玉城くんが笑ってくれたからではないはずで、震えなくなった手でそっと握り返してくれたからでもないはずで、

 「あ、すみません、名前違ってましたか…?昼間そう呼ばれていたように思って…」

 「う、えと、ううん」

 合ってます、うん合ってるけどね、たまに同じ間違いされるけどね、それファーストネームのほうです…。名字は山本です…。こ、こういうニアミスだけど重大なミスっていつどうやって修正したらいいん

 「ああああああああああ!!」

 「うわああああああああ!!なな、ななななななに!?」

 「先輩時間!俺の話なんてしてる場合じゃありませんでした、もう夜ですので早く帰社しなければ…!!」

 「はっっっ!!!」

 慌てて腕時計を確認すると…

 「うわあああもう21時過ぎてる!?」

 次の瞬間、彼はおたおたする私の手をしっかり握ると即座に仮眠室を飛び出し、ドアの外でまず私のバッグとコートをひっ掴んでエレベーターに乗り込み振り返って閉まるボタンと1階のボタンをそれぞれ2度押しした。ここまでで多分1分切ってる。さすが武術家?、状況判断も行動もものすごく早い…これがきっと本来の玉城くんなんだろう。

 「先輩、コートどうぞ」

 「そ、そだね」

 「電車の時間大丈夫そうですか?」

 「う、うん、まだある」

 わちゃわちゃと袖を通し終わった直後にチーンと音が鳴ってドアが開く、と同時に我々はスタートを切って早足で玄関に向かう。明かりは非常灯しかなくて廊下はかなり暗いけど、玉城くんはすごくしっかりとした足取りで先導してくれる。気付けばいつからか私は彼の二の腕を掴んでいた。この薄闇の中だし、多分もう自分が私を掴まないように逆に掴ませるスタイルにしてくれたんだと思うんだけど、なんというか……シャツごしでもわかるほど彼の腕は筋肉質だった。ガテン系モリモリ上腕二頭きーん!とかじゃなく、脂肪とか余計なものが一切付いてなくて引き締まってる的な……中肉中背とか思っててほんとすみませんでした。こ、これはいわゆる脱いだらスゴイとかいうやつなのでは……

 「そうだ先輩」

 「わあっ!?」

 若干セクハラなことを考えてた罰か、私の動揺は直で足にきた。驚いた拍子に派手につんのめり、私の膝が床にぶち当た…る前に腕がぐいっと強く引っ張られたかと思うと同時に腰が支えられる。

 「大丈夫ですか?!」

 見上げるとすぐ目の前に心配そうな顔。い、一瞬で引き寄せて支えてくれた、んだと思うんだけど、なんかもう靴がほとんど床に当たってない…ほぼほぼ抱え上げられてるんですが……!もう驚くやら恥ずかしいやらで声も出ず、こくこくと頷くしかない私を無事と確認して彼は両手を離す。ああもういちいち優しくソフトに着地させてくれるとか!紳士か!!

 「すみません、それで、携帯のダイヤル画面を出せますか?」

 「は、はいっ!」

 再び歩きだしながら言われるままにカバンを探ってスマホを出すと、玉城くんは失礼しますと言うなりカカカカっと素早く電話番号を入力してすぐに返してくる。

 「これは俺の番号です。登録しなくていいので、このまま駅まで持って帰って下さい」

 「え、ええ?」

 「こんな遅い時間に女性ひとりで帰さないとならないので、念のためです」

 「いやいや、このくらいの時間ならまだ大丈夫だよ!」

 「いえ、この後先輩に何かあったら俺は一生後悔してもしきれません」

 そうこう言いつつ玄関に到着。やっぱり玉城くんの顔はとても真面目で、言葉は飾らず端的だった。


 「駅までの道で怖い目に遭いそうになったらすぐ呼んでください。俺が守ります」


 「は………………はい」

 「先輩が出たら鍵を掛けますが、ここでしばらく待機していますね」

 玉城くんはてきぱきとセコムを操作する。自動音声を聞きながらの操作のあとカードを何回か通すとパチリと緑のランプが点いて、彼は素早く鍵を取り出すと扉に差し込んだ。

 「解錠します!お疲れさまでした、お気を付けて!」

 「は、はい、お疲れさまでした…!」

 あまりの手際の良さに脳味噌が付いていくのが精一杯。私はもはや言われるままに扉をくぐって外に出た。冷たい夜の空気に触れて一気に身体の熱が飛び、それでやっと現実感が戻ってくる。

 そうだ、今日は超ラッキーで超アンラッキーな木曜日、残業終わったら急いで帰って、明日は朝から全体会だ。

 私は急いで歩き出す。ちらりと後ろを振り返ると、扉の影から黒い頭がぺこりとこちらに礼をした。それを見たら、


 『俺が守ります』


 ふとさっきのとんでもない言葉がリフレインしてきて、私は慌てて前を向く。いや守りますって漫画やドラマじゃないんだし現実世界で普通口にすることもされることもなさすぎるセリフじゃないですか、それを堂々と言って言われてこの破壊力たるやもうなんなの…!?

 だって私は知っている。もし本当に私がこの番号に掛けたとしたら彼は一瞬で飛んできて、相手が酔っ払いだろうがヤンキーだろうが絶対に私を守ってくれる。

 それと同時にさっきの逞しい腕の感触を思い出してしまって、私は急いでコートの襟を立てた。もう自社ビルは見えなくなったのに、顔が熱くて心臓がすごくうるさい。

 いやいや、これなんのフラグ?

 え、なんかこれって……ひょっとしてめっちゃときめいてる?

 いやときめくとかそんなばかな、つ…吊り橋効果?的なやつだよね?

 それに相手後輩じゃん?私普通に年上好きじゃん?

 でもめちゃくちゃ頼りになるよ。多分今まで出会った同年代の中で一番。


 ま、まさか。



 ――こ、恋とか?……じゃないよね???

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