第9話 ルカの気持ち

 あれは、今の家に引っ越してくる一週間くらい前だった。

 私は今度引っ越すことになった家とこれから住むことになる街の様子を見たいと思い、両親に断って一人で出かけた。

 目的の街に向かう電車に乗り、窓から見える風景を眺めながら前に住んでいた街での生活を思い出す。


 私の両親はとても仲が良くて、娘の私から見ても恥ずかしいくらい甘々な日々を送っている。

 毎日のように見せつけられる両親の親密さに呆気にとられながらも、自分もこういう風に一緒に過ごせる相手が見つかればいいなと思っていた。

 両親は小さいころから『ルカに好きな人が出来たらその人のために頑張りなさい』と口癖のように言っていた。小学生の頃はまだその意味がよく分からなかったけど、そのうち自然に理解できるはずだと思っていた。


 中学に入る頃から、周囲の男の子から声を掛けられることが多くなった。

 そのことを友だちに聞くと『えっ? 自覚ないの?』と驚かれた。

 自分が特別可愛いという思いは全くなかったが、男の子たちはそう思っていなかったようで、ことあるごとに『好きだ』とか『付き合ってくれ』と言ってくるのを見て、だんだんと自分の容姿が恨めしく思うようになった。


 だからと言って、女の子が芸能人に憧れる気持ちと根本的に同じなのだから、男の子全部が悪いわけではないことも理解している。

 でも一番気に入らなかったのは、私に告白してくる男の子たちの『目』だった。

 彼らの『目』は、私を見ているようで見ていない。

 私の中身などどうでもよく、ただ付き合うことで自分が優越感に浸れるという、ちっぽけなプライドを満足させるために向けてくる『目』なのだ。

 小さいころから両親の嘘偽りのない愛情を受けながら育ってきた私には、本当の自分を知らないままに好意を寄せてくる男の子の気持ちが理解できなかった。

 そして、いつの間にか積極的な人付き合いをしなくなっていた。

 幼なじみのように小さいころから長く付き合ってきた間柄であれば、お互いの長所や短所、考え方を十分に知ることができるけど、残念ながら私にはそういう近しい関係の人はいなかったので、私が望むような相手、私を心から理解してくれる人と出逢うことは難しいのだろうと思っていた。

 私のようなかたくなな考えを持った人間には、これから先、好きになる人なんて現れないかもしれない。まだ人生は始まったばかりというのに諦めにも似た気持ちで過ごしていた。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 地図を頼りに引っ越し先の家になんとか辿り着く。

 新しい家は閑静な住宅街の中で駅からも比較的近くにあり、これから通うことになる高校まで徒歩10分と立地条件は悪くない。

 これからここに住むことになるんだ……と感慨にふけりながら、今は何もかかっていない表札の跡を指でなぞっているとお隣さんの玄関が開く音がした。

 音のした方を見ると、いかにも若奥様という感じの女性と目が合った。


「こんにちは」

「あら、こんにちは。そちらは今空き家ですよ」


 にっこりと微笑ながら話しかけてくる。


「ええ、知ってます。私、今度ここに引っ越してきますから」

「あら、そうなの? これも何かの縁だわ。これから隣同士になるんだし、時間があるのなら少しお話しましょうよ」


 お隣の奥様はそう言って私の手を掴む。

 その行動は傍目から見れば少し強引に見えるかもしれないけど、不思議にも私にはとても優しくされている感じがして断ろうという気持ちが起きなかった。


「じゃあ、中に入って。お茶でも飲みましょう」


 お隣の家に案内されて玄関に入ると、男の子の靴と女の子の靴が並んでいるのが見えた。


「うちは息子と娘が一人ずついるの。どっちも私にとっては大事な子供たちよ」


 にっこりと微笑む奥様。

 子どもたちはどんな人なんだろう。うまく付き合えればいいんだけど。

 そんなことを考えていると


「ごめんなさい、そう言えば名前も言ってなかったわね。私は神馬翔子。見てのとおりのオバサンよ」


 うふふ、とほほ笑む翔子さんだったが、自分でいうほどオバサンではなかった。というより何でこんなに若くて綺麗なんだろうと驚きの方が大きかった。


「あ、私は初芝ルカといいます。これからよろしくお願いします」


 翔子さんは何故か少し困ったような顔をして「こちらこそよろしくね」と返してきた。

 それからリビングに案内されて、翔子さんと紅茶を飲みながらいろいろな話をした。

 私のする話に微笑んだり、最近の若い人はすごいわねと少し驚きの表情を浮かべたり、うちの娘もあなたぐらい落ち着いてくれるといいんだけど、と苦笑したり、話題によってクルクルと変わる表情を見ていると、何だか自分のことを分かってくれてるんだと嬉しく思えてきて、いつの間にか昔からの知り合いのように遠慮することなく話している自分に気付く。

 そのうち話題は、今、私が抱えている、ここに来るまでの間に心の中で思い返していた悩みのことになっていた。


「そうなの……ルカさんも大変だったのね」

「いえ、そんなことはないですけど……」


 さっきまで赤の他人だった翔子さんに、これまで誰にも言えなかった悩みを打ち明けてしまったことに少し後悔しながらも、それを当たり前のように受け止めてくれたことに喜びを感じていた。


「でも、あなたにふさわしい人がもしかしたらすぐ近くにいるかもしれないわね」

「えっ……」

「あなたには私と違って未来がある。自分が他人と違うのは当然なの。他人がどう思おうが自分を信じ続けることは難しいかもしれないけど、自信を持って」

「はい……」


 そして翔子さんは、ふうと深く息を吐いた。


「親のエゴかもしれないけど、あなたのような人がもし、うちの息子と一緒になってくれたら私はとても嬉しい。けど、これは単なる私の希望。あなたは自分の目で周りをしっかりと見渡して、そして素敵な人を見つけてね」


 その後、私は翔子さんに見送られて玄関を出た。そのときの優しくも悲しげな目をした翔子さんの表情が今でも忘れられない。


 翔子さんの家を出て、門を開けると目の前に同い年くらいの男の子が立っていた。

 私は彼の顔を見つめたまま、身体が固まってしまった。

 それは、私を見ている彼の顔が翔子さんに似ているだけでなく、彼の『目』が翔子さんと同じだったからだ。

 優しさに満ち溢れていながらも深い悲しみを湛えたーーー『目』。

 彼の目に魅せられた私は胸が熱くなるのを感じてドギマギしていると、彼が不審そうな顔をしていることに気付いて慌てて口を開いた。


「あの、今度隣に引っ越してくることになった初芝です。あの、たった今、お母様にご挨拶を……」

「えっ……」


 呆然とした表情になる男の子。信じられないものを見ているかのように私を見つめていた。


「あの……?」

「ええと、オレの母はもういないんですけど……」

「は?」

「母は10年前に亡くなってるんで……」


 私はこのとき、二重の衝撃を受けていた。

 ひとつは翔子さんがもうこの世には存在していないこと、そして、どうやら私は翔子さんの息子である彼に恋をしてしまったことだ。

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