異能社会に君はどう生きるか
tomo
プロローグ 変革の始まり
雪の舞うクリスマスの日だった。鈴原雄一は恋人の北条愛美に小さなダイヤモンドの指輪を送った。石は小さかったが、愛美はそれを喜んだ。指輪をはめた薬指を何度も優しく撫でた。鈴原は交際を始めてからの三年間のことを思い出し、一区切りがついた安心とこれから広がる自分たちの未来に期待を膨らませ、温かな幸福に包まれた。グラスを口にした後、愛美が言った。
「よくわかったね。」
「何が?」
「指輪のサイズ。」
「ああ、寝ているときにこっそりね。ばれているものだと思ったよ」
雄一は微笑みながら牛ほほ肉のソテーを口に運んだ。
一瞬、愛美が苦痛な表情をした。急に起きた偏頭痛に驚いたような、そんな表情だった。
「愛美、大丈夫?」
「ええ、大丈夫。急に瞼の奥がピキッときて……」
そこからはあっという間のことであった。まず、小さな火の粉が現れた。一つ、二つと出ていた火の粉はすぐに数十個にもなり、体から離れては消え、再び浮かび上がっては消えを繰り返した。鈴原はすぐに席を立ち、火の出処を探し愛美をそこから離そうとした。
「雄一、どうしたの慌てて。」
「どうしたのって、見ろよ!火だよ!」
「え?」
愛美は熱がりもせず、動揺もしていない。雄一はおかしなことに気がついた。愛美の周りに火の気はない。火の粉は愛美の体から浮かび上がってきている。異変に気づいた周りの客たちが椅子から立ち上がり、遠まきにし始めた。
「何、これ……怖い……」
愛美の目には涙が浮かんでいる。
「雄一、怖い!嫌、離れないで!」
鈴原は腰が抜け、半開きの口のまま後ずさりをした。愛美の体はかなりの熱をもっているようで近くにいるだけで熱かった。温かな幸福はとうに消え、命の危険から逃げる本能のみで動いていた。
瞬間、大きな音とともに愛美の全身から火柱が上がった。悲鳴と、炎が上がる轟音と、熱さで、人々はパニックになった。愛美の体は炎に包まれ,大きな火の玉のようになっている。先程まで二人が座っていた椅子,テーブルも焼け焦げ,肺を焼くような黒煙が広がった。人々は逃げ惑い,店の入口に殺到した。店員が裏口からの避難を大声で誘導している。愛美は声にならない声で叫び続けている。熱いのだろうか。苦しいのだろうか。思いとは裏腹に雄一の体は動かない。正確には,恐怖で動かないと自分に言い聞かせているようだった。
ふと,還暦を迎えたくらいの夫婦が床に倒れているのが目に入った。妻が意識を取り戻したようで体を起こした。炎に驚いた拍子に怪我をしたのか、足を引きずりながらも懸命に夫の腕を引っ張り炎から逃げようとしている。
愛美の周りの炎はますます強くなり、店中に燃え広がった。消火器を持った店員が現れ、愛美に向けて発射した。炎は消えるどころか、それをかき消そうとする意思が働いているかのように、より一層勢いを増し、店員の腕を焼いた。店員は転がり周り悲鳴をあげた。
「早く!こっちへ!」
客の一人だろうか。男が雄一の体を引っ張り上げ出口に連れ出そうとした。炎の塊となった愛美がそれを追うかのように雄一の方にゆっくりと、一歩一歩向かってきた。悲鳴はいつの間にか止まっていた。熱さと轟音と、黒煙のせいで朦朧とした意識の中、微かに声が聞こえた。雄一は炎の中で「行かないで」と呟く愛美の声を聞いた。その瞬間だけ時間が止まったようだった。なぜその声が届いたのかはわからないが、震えながらもはっきりとした声だった。
雄一は足を動かそうとした。本来、実直で勇敢な男だった。頭もよく回る男だった。それが災いしたのか、功を奏したのか。得体の知れない現象を目の当たりにして、少しでも自己の生存の可能性に近づくために、踏み出そうとした足は結局前に出ることはなかった。
愛美の足は一度止まり、別の方向へと向かった。そこには、何とか逃げようとしていたが、煙をすったせいか力尽きてしまった老夫婦が倒れていた。燃えた店の柱が倒れ始めていた。雄一の視界はぼやけ、意識も薄れてきていた。無意識のうちに熱さでかすれた喉で愛美の名前を呼んだ。炎に包まれわからないが、愛美の顔が向いた気がした。そして、感情までもが焼き尽くされたかのような落ち着いた声が聞こえた。
「忘れないから」
そうはっきりと聞こえた。雄一は自分の心を見透かされているような気がした。
狭まっていく視界の中で、愛美が老夫婦に接近し、炎が燃え移っているのが見えた。それを受け入れるかのように老夫婦は叫び声もあげずにただ静かに、焼け落ちていった。どこからか子どもの鳴き声が聞こえる。焼け焦げる匂いが頭を締め付ける。煙で前が見えなくなった頃に雄一の意識は途切れた。瞼の裏の暗闇は先程までとは違い不思議な安らぎを与えた。暗く、深い海にしずんでいくように、ただ身を任せた。
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