色々なモノに囚われてます(前編)

 「言霊ことだまさきはふ国」

 

 言葉に宿る不思議な力が幸せをもたらす国。

 かつて、万葉びとは「大和やまとの国」をこう言い表したそうな。なんとも謎めいて美しい。

 「自らの言葉に想いを込めれば魂が宿り、現実の世界に何らかの影響を及ぼす」という思想が脈々と受け継がれている日本では、幼い頃から『良い言葉を発すれば良いことが起こり、不吉な言葉を発すれば不吉なことが起こる。だから、言葉には気をつけなさい』と教えられた方も多いかと思う。


 現在のアメリカは、さしずめ「言霊なんぞ、毛ほども恐れぬ不逞ふていやから跋扈ばっこする国」といったところか。

 そんな国に住んでいるおかげで、ここ数ヶ月の間、心も頭も大混乱だ。例えるなら、荒波のように押し寄せる得体の知れぬモノに呑み込まれ、ごぼごぼと底なしの深みに引きり込まれそうになりながら、溺れまいと必死にもがき続けるような……


『コロナウィルス騒動が収まるまでは気軽に病院にも行けないから、怪我しないように気をつけないと』


 ワイフの向うずねを蹴り上げた相方が、何の気なしに口にしたその言葉に、どうやら私は囚われてしまったらしい。



***



 日本のパンの美味しさに慣れきっている人間にとって、アメリカのパンは恐ろしくマズイ。美味しいパンを提供するベーカリーもあるにはあるが、アホほど高い。

 「手に入らないなら自力で作ってしまえ! それが無理なら代用品を探せっ!」を合言葉に、海外暮らしの日本人はせっせと手料理や手仕事に精を出す。

 そんなワケで、私も週に一度は自宅でパンを焼く。正確には、パンをねるのはホームベーカリーで、一次発酵からオーブンに入れて焼くまでが私のオシゴト。


 アメリカに来た頃は、パン作りの全ての工程を自力で行っていた。

 が、ある日、愛犬サスケの散歩中に突発的な事故で両肩を痛めてしまった。肘から下は自由に動くのに、肩を動かそうとすれば鋭い痛みが走り、腕の動きが制限される。服の脱ぎ着さえ困るようになったので、やむなくドクターの予約を取った。

 アメリカの超まどろっこしい医療制度のおかげで、肩を痛めてから数ヶ月を経て、ようやくMRI検査を受けることに。その結果、両肩共に「Rotator Cuff Tear(腱板けんばん断裂)」と判明。そう言われてもピンとこなかったので調べてみると、「肩のスジが切れちゃった状態」なのだとか。いわゆる野球肩だ。


「肩のスジって切れちゃうと、自然にはくっつかないんだよねえ」

 整形外科医のもとに辿たどり着くまでの数か月間、夜も眠れぬほどの痛みに苦しめられた揚げ句、担当医にそう告げられて、愕然となった。それでも、痛みを抑える治療(=ステロイド薬の注射と鎮痛剤の併用)と理学療法を続けることで、なんとか日常生活に差し支えないまでに回復した。

 とは言え、あくまで保存的療法なので、両肩に過度の負担を掛けないよう常に心掛ける必要がある。「手捏ねにかなりの力を要するパン作りは、もうムリか」と落ち込んでいたら、相方がホームベーカリーを買ってくれた。



 ……そして、現在に至る。


 3月末に外出禁止令が発令され、相方が自宅待機になって以来、自家製パンの消費量がハンパない。朝食のサンドイッチを持って出勤するのが常だった人が、毎日、自宅で朝食をるようになったからだ。おかげで、ほぼ一日おきに、パンや焼き菓子などのを焼いている。

 ちなみに、自宅であそこまで薄切りにするのは至難の業なので、サンドイッチ用パンだけは市販のものを購入している。


 アメリカ国民がパニック買いする商品は刻々と変化している。近頃では、小麦粉とドライ・イーストが標的となっているようだ。All purpose flour(アメリカで一般的な小麦粉。日本の中力粉に相当)は手に入るが、パン作りに欠かせないBread flour(強力粉)は軒並み在庫切れ。「自宅に引きこもってヒマを持て余したアメリカ人達が、手料理やマスク作りだけでは飽き足らず、パン作りまで始めたぞ!」というウワサは本当らしい。

 粉もん命の関西人にとって、小麦粉はキッチンの必需品。備蓄が心許こころもとないので、近隣のスーパーマーケットを数件ハシゴし、なんとか強力粉4袋を掻き集めた。が、ドライ・イーストはどこの店も完売。たまたまオンライン・ショップで業務用ドライ・イースト(2ポンド=約907グラム入り)を見つけ、「ちょっと量が多いなあ」と思いつつ、ひとまず購入。その数分後には在庫切れになっていた。今のアメリカは早い者勝ちの原則で成り立っている。

 一時期、スーパーの陳列棚から姿を消していたトイレットペーパーや消毒用アルコールジェルは、ようやく供給が追い付いてきたようだ。が、一家族当たりの購入制限が設けられている場合がほとんどだ。どこの店舗でも品薄な食料品や生活必需品には、驚くほど高額な値段がつけられていることが多い。ごく一般的で大して美味しくもないマヨネーズが7ドルで売られているのを目にした時には、さすがに戦慄した。


  

 現在、バージニア州では外出制限が第2フェーズ(=経済活動の限定的な再開)まで緩和されている。感染のピークを越えたとされ、既にバージニア州知事も7月1日付で第3フェーズ(=経済活動の全面的な再開)に移行すると宣言している。とは言え、日々更新される州内の感染者と死亡者数(6月29日現在、感染者62,189名、死亡者1,740名)を見るにつけ、以前のような日常が戻るのは程遠いと思い知らされる。

 ちまたでは「New Normal(新しい日常)」なる言葉が飛び交っているが、要は「パンデミック後は、今までと違う生活様式を強いられても仕方ないでしょ」ということだ。州内の規定では、外出時はソーシャル・ディスタンスを常に維持し、施設内ではマスクやフェイスカバーの着用が義務付けられている。マスクなしでは入店を断る店舗も多く、「口元を覆う」ことがアメリカのNew Normalとなりつつある。



***



 向う脛の青アザが少しずつ黄味を帯びてきた、4月半ばを少し過ぎた頃。

 「今朝はベーグル・サンドイッチの気分」という相方のリクエストに応えて、数日前に焼いて冷凍しておいたベーグルを冷凍庫から取り出した。凍ったままのベーグルをラップで包んでレンジで20秒ほど加熱し、柔らかくなったらナイフで半分に切ってトースターでカリッと焼き上げ、ハムとチーズを挟む。

 いつもの工程をいつもの通り行っていたはずが、手元が狂い、つるりとナイフが滑った。

 

 うげえっ、マジで!?


 そう思った瞬間、左手の薬指と小指の腹をざっくりと切っていた。


 人間、驚きのあまり声も出ない、というのは本当らしい。

 咄嗟にナイフを手離して蛇口をひねり、じわじわと血がにじみ出る傷口を洗い洗い流すべく流水の下に差し出した。「痛い」よりも「やっちゃった、どうしよう」という気持ちが先走り、相方の『コロナウィルス騒動が収まるまでは気軽に病院にも行けないから……』という言葉が、頭の中で、ぐるぐる、ぐるぐる、と回り始めた。


 ワイフの様子がおかしいことに気付いた相方がキッチンにやって来たのは、それからしばらく後のこと。

 流水の中に指を突っ込んだまま無言でシンクの前に立ち尽くす私と、キッチンカウンターの上に中途半端に投げ出されたベーグルとナイフを見比べて、状況を察したらしい。突然、私の左腕を掴むと、濡れたままの薬指と小指にペーパータオルをぐるりと巻きつけ、指の付け根から大きな手で覆うようにして、ぎゅうっと握りしめた。

「あいたたたっ! それ、マジで痛いっ!」

 傷口を圧迫してくれているのだと頭では分かっているが、痛いものは痛い。

 日本語で「痛い、痛い」と悲鳴を上げるワイフの指をぎゅうっと握りしめたまま、相方が「アージェント・ケア(Urgent Care)に行く?」と聞いてきた。

 

 外出禁止令が緩和された現在でも、アメリカ国内の医療施設は緊急性のない患者との対面診療を制限し、代わりに電話/オンライン診療で対応している。私と相方が利用している医療施設もしかり。なので、命に関わるほどの危険な状態であれば、エマージェンシー・ルーム(ER:Emergency Room=救急救命室)に駆け込むしかない。

 緊急事態ではないものの、市販の薬だけで治すにはムリがある場合、予約なしで患者を受け入れてくれるのが「アージェント・ケア」だ。

 パンデミック以前も、かかりつけ医の予約がすぐに取れない場合、保険会社から「アージェント・ケアに行け」と指示されることが多々あった。我が家の場合、診療代は100%保険がカバーしてくれる。薬も(費用は自己負担だが)その場で受け取ることが出来るため、わざわざドラッグストアに行く手間も省ける。医療制度が複雑で、自分の意思だけでは病院を選ぶことさえ叶わないアメリカに居ながら、日本の医療制度に一番近い形で医療サービスを受けられる場所でもある。



 相方の「ぎゅうっ」が功を奏したのか、薬指の出血はすぐに止まった。が、小指の傷は思ったよりも深かったようで、圧迫するのをめると途端にじわりと血が滲み出る。

 「指先を心臓よりも高く上げておかないとダメだよ」と相方は簡単に言ってくれるが、左腕を上げたままの姿勢は私には、かなりツライ。なので、私の指を握り続けている相方に「ついでやし、腕も支えちゃってもらえへん?」と、できるだけ可愛らしくお願いしてみた。夫とハサミは使いよう。

 

 結局、小指からの出血がなんとか止まり、相方が自ら作ったベーグル・サンドイッチにありついたのは、それから数時間後のこと。

 アージェント・ケアには行かずに済んだものの、ドクドクと脈打つような小指の痛みで何も手につかない。手首から上を胸より高い位置にすれば痛みが和らぐので、ずーっとその姿勢を保ち続けた。肩に過度の負担を掛けないよう、立っている時は右手で左の肘を支えつつ。座っている時はソファや椅子の背に手を預けて。

 ついでに、全ての家事を相方に押し付けた。

「だって、傷口って水に濡らしたらアカンのよ!」と力説して。


 スクーバダイビングにハマって沖縄に入り浸っていた頃。

 サンゴ礁の岩場を散策中にコケて手のひらを切り、五針縫った。その翌日、ガーゼの上からサランラップをぐるぐる巻きにしてテーピングし、その上に使い捨てのビニール手袋をして、そのまた上に軍手をはめて海にもぐってみた。結果、手袋の中はあえなく水没。

 その後、「どうも傷口の治りが遅いな」と思いながら、抜糸のために病院に行ったら、担当医に「え? 縫ったばかりの傷口を濡らした? しかも海水って……そらあ、くっつかんよ」と呆れられ、抜糸直後、くっつきの悪い傷口を再度縫う羽目になった。だから、傷口は絶対に濡らしちゃダメなのだ。



 ベーグルの代わりに指を切ってから初めの2日間、とにかく、指先を水から死守しつつ、ずーっと左腕を上げていた。おかげで、小指の痛みがマシになった3日目の朝には、左腕が筋肉痛で動かせなくなった。

「どっちにしろ左手は使えないんだし、キミは右利きだから、日常生活に支障があるわけじゃないだろ?」

 私の二の腕にSalonpasサロンパス(アメリカでも買えるMade in Japan! 久光製薬さん、ありがとう)をぺたりと貼りながら、相方は「すぐに治るさ」と、こともなげに言う。


 確かに右利きではあるけれど……

 実は私、「隠れ左利き」だったりする。


 実際、どれくらい左利きなのか、例を挙げてみよう。


 ペンやおはしを持つのは右手だが、フォークやスプーンは右でも左でも問題なく使える。

 みかんやバナナの皮をくのは左手。ジャムの瓶や歯磨き粉チューブのフタを開けるのも左手。

 ソックスも靴も左足から履く。

 飲み物は左側に置いて欲しい。そして左手で飲みたい。『お菓子は左、お茶は右』のマナーに反しているのは分かっているが、どうしても気持ち悪い。 

 かばんは絶対、右肩にかける。定期入れや財布をさっと取り出せるのが左手なので、左肩にかばんをかけるワケにはいかない。

 駅の改札口が最大の難関。自動改札機は、乗車券投入口やICカードタッチ部が右側に設置されている。右利き仕様だ。が、私は左手に定期券を握っているので、通り抜ける際、上半身を右側にぐいっとひねりながら、左手を伸ばしてICカードをタッチする必要がある。急いでいる時に限ってタッチしそこない、閉まった扉に挟まれたことも数え切れず……

 誰かと横並びで歩く時は、必ず左側に立たないと気持ちが悪い。横並びに座る場合も同様。なので、相方と出掛ける際は、私の定位置は左側。ただし、右側通行のアメリカで相方が運転する時は、必然的に右側の助手席に座ることになる。移住した頃は、これがものすごーく気持ち悪かった。


 ……等々、例を上げればキリがない。

 実は、右利きだと思っている人の約40%が「隠れ左利き」だという。

 「もしかして、自分も『隠れ左利き』?」と思ったら、試しにトランプを切ってみると良い。「トランプなんて手元にないよ」などと言わず、『エア・トランプでシャッフルする』つもりで手を動かしてみよう。右の手のひらにカードの束を置き、左手を動かしてシャッフルするなら、立派な「隠れ左利き」だ。

 

 相方の言葉どおり、左腕の筋肉痛は数日で治ったものの、薬指と小指の傷口を濡らさないように意識すると、左手が思うように洗えない。感染症予防の基本である「外出後は石鹸で手を洗う」のがままならないため、ケガが治るまでは「愛犬サスケの散歩(に乗じて自宅から脱出し、太陽の下でウキウキと羽を伸ばす)」も自粛を余儀なくされ、悶々とした日々を過ごすことになった。



 5月に入り、傷口も無事にくっついた。

 サスケとの散歩も解禁!

 自然豊かなバージニア州には、至る所にトレッキングにうってつけの自然公園がある。運動量の多い大型犬を飼うにはもってこいの環境だ。

 自宅から程近い、湖に面した公園が相方と私のお気に入りだ。公園内の森の中には、うねうねと曲がりくねった迷路のようなバイク・ルートが広がっている。進むほどに目の前の景色がどんどん変わっていく様を楽しみながらのトレッキングは、ちょっとした冒険気分が楽しめる。飽きっぽく気が散りやすいサスケの散歩にもピッタリ。


 その日も、森の中を歩きながら気持ちの良い汗をかき、たっぷりと森林浴を楽しんだ。帰宅後、相方が芝生と花壇の水やりをしている間に、先にシャワーを浴びようと浴室へ。

 身体を洗う際、私はタオルやスポンジを使わない。手のひらでボディーソープを泡立て、素肌をマッサージするように撫で回す。「ここ、乾燥してカサカサやわ」とか「こんなところに吹き出物が!」などとお肌の調子が分かるので、「手のひらで洗うって、とっても優秀」と信じて疑わないのだが、ボディスポンジでゴシゴシ身体を洗う相方には「そんなのじゃ洗った気がしない」と変な顔をされる。

 シャワーを浴びながら、先ずは両腕、首から胸元、両肩、そして背中……と手のひらを動かす。右肩から背中へと手のひらを動かした時、突起物のようなモノが手に触れた。「あれ?」と思いながら、もう一度触ってみる。ちょうどがれかけたカサブタのようにヒラヒラしていて、上下左右に動かしても引っ張っても特に痛みを感じない。なので、「取っちゃえ!」と指で摘まんで思い切り引っ張ってみた。

 ぶちっ、と音がしたような気がした。が、気にもせず、摘まんでいたモノに視線を落とすと……


 うげえっ! 


 私が摘まんでいたのは、どう見ても「虫」だった。5ミリに満たない小さなは、なんだか干からびているようにも見える。でも、確かに私の背中にくっついて(もとい、喰いついて)いた。ぶちっと言う音がした時、剥ぎ取ったような感覚があったから。

 驚きのあまり声も出ない。声を出したところで、相方は庭で水やり。私は真っ裸で全身ずぶ濡れ。どうしようもないので、ひとまずシャワーを止め、指で摘まんでいたをトイレットペーパーで包んで床の上に置き、手早く身体の水分を拭き取ってバスタオルを巻きつけると、浴室から飛び出した。

 キッチンから裏庭への入り口にあるガラス戸越しに、相方が芝生の水やりをしているのが見えたので、相方の気を引こうとしてガラス戸をドンドンと叩く。と、バスタオルを巻いただけのワイフが、悲壮な顔でガラス戸を叩く姿に相方もギョッとしたらしく、ホースを放り出して駆け寄って来た。



Tickマダニだね」

 浴室の床の上に置きっぱなしだったトイレットペーパーの中身を見るなり、相方はそう言った。

 『マダニに咬まれた』というショックで「ひいいいっ!」と叫ぶしかない私をよそに、相方は私の背中を確認しながら「うーん、マダニに咬まれた痕には見えないなあ……ポツッと赤い点があるだけで、吹き出物にしか見えない」と首を傾げている。

 私の背中にくっついていたは、ぺらぺらのぺったんこ。通常、マダニは動物に咬みついたまま1週間程かけて吸血し、ぱんぱんに(黒タピオカ大から500円玉大まで)膨れ上がったところで自然落下し、産卵の準備を始めるのだとか。が、相方が見つめる先にある貧相な姿からは、マダニの「マ」の字も想像できない。しかも、既にご臨終のようだ。

「咬まれているのを無理やり剥ぎ取ったら、マダニの頭が皮膚に突き刺さったまま残ったりするんだけど……それもなさそうだしなあ」

 私の背中に消毒液を塗りながら、相方は色々と考えを巡らしているらしい。私はと言えば、『頭が皮膚に突き刺さった』という言葉に、頭の中でパニックが頂点に達した。

「病院! マダニに咬まれたら感染症にかかるって言うやん! すぐにアージェント・ケアに連れてってーっ!」

「ウィルスを持ったヤツに咬まれたら、の話だよ。確率的にはとっても低いし、感染したかどうかは症状が出ないことには分からない。それまでは検査も出来ないから、行くだけムダ」 

 

 ……なんですと? 

 症状が出るまで待て、と?


「もしかしたら、サスケに寄生しようとしたマダニが、フロントライン(=犬猫用ノミ・マダニ駆除の薬)に駆逐されて死ぬ寸前、最後の力を振り絞ってキミに咬みついたのかもね。とにかく、赤味が引くまで背中は毎日チェックしよう。それから、身体のどこかに発疹が出たり、ちょっとでも体調に変化があったら必ず教えてくれよ」

 基本、楽観主義者の相方は、「心配することはないと思うけどね」と付け足した。


 そう言われても不安は募るばかりで、その夜はほとんど眠れなかった。

 ベッドに横になったままiPhoneを握りしめ、『マダニ、感染症』で検索してヒットしたサイトを読み漁った。

 マダニの感染症は、ウィルスの種類によって潜伏期間が2日〜4週間と振れ幅が大きい。年間の感染報告数は、日本が数100人であるのに対して、アメリカは約4万人!

 私を震え上がらせたのは、『マダニの感染症に対する治療法やワクチンは、いまだ確立されていない』という一文だった。

 マダニの感染症の多くを占める「ライム病」は、死亡率は低いにしても、早期治療を行わなければ後遺症が残る可能性があるという。私が住んでいる南部州で発症例が多いのは「ロッキー山紅班熱」だ。感染すると、突然の頭痛や悪寒、筋肉痛に始まり、中枢神経や臓器の炎症、そして場合によっては心停止に至ることもあるというから、なんとも恐ろしい。



 これって、コロナと同じくらい危険なんとちゃうの?

 症状が出たら、きっと、むちゃくちゃ苦しむんやろうなあ……苦しいの、イヤやなあ……



 ここ数ヶ月の間、新型コロナウィルスの感染拡大で神経質になっているところに、マダニ感染症の恐怖まで抱え込んでしまった。

 止せばいいのに、PCの前に座り込んでマダニと感染症に関する情報を読み続けるうちに、ずぶずぶとネガティブ沼にハマり、「死ぬ時は、日本で死にたいなあ」などとアホなことを考えるようになった。

 人間、滅入っている時は、とことん滅入る。

 マダニに咬まれてから程なく、突然、38度近くの熱が出た。その後も37度を超える微熱が数日続いたことが、私のネガティブ思考に拍車を掛けた。結局、ただの風邪だったのだが、熱が出ている間は「やっぱりマダニ? それともコロナ?」と良からぬ思い込みに囚われて、食欲も気力もどんどん衰えていった。


(2020年6月29日 公開)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る