ツワモノの、夢のあと

 アメリカの地図には、無数の「Washingtonワシントン」が存在する。

 アメリカで、単に「ワシントン」と言うだけでは、「State or D.C.?」と聞き返されることになる。「ワシントン州(Washington State)なの? それとも首都(Washington D.C.)のこと?」と混乱するからだ。


  

 1783年、パリ条約によって「アメリカ独立戦争」が正式に終結した。

 本国からの政治的支配を拒否して立ち上がった北米イギリス植民地(=「13植民地」)が本国からの独立を勝ち取ったこの戦いは、アメリカでは「独立革命(American Revolution)」「革命戦争( Revolutionary War)」と呼ばれている。


 独立戦争時、英国軍の軍事的・政治的拠点が置かれ、大きな戦闘が繰り返し行われたニューヨーク市が、新国家『アメリカ合衆国』の最初の首都となった。アメリカ合衆国憲法が批准され、初代大統領ジョージ・ワシントンが就任式を迎えた歴史的な場所は、現在のマンハッタン・ウォール街の一角にあたる。

 その後、恒久的な新首都の創設地としてワシントンが選んだのが、メリーランド州とヴァージニア州に挟まれたポトマック川下流の河畔だった。これが後に「ワシントンD.C.」となるワケだが……そうなるのは、ワシントンがこの世を去ってからのこと。

 生涯、自分の名前がつけられた首都のホワイトハウスで政務を行うことがなかった唯一の大統領がワシントンその人だった、とは何とも皮肉な話だ。



 現代のアメリカ人は、首都を「D.C.」と呼ぶ。

「『D.C.』って、どういう意味?」と疑問に思う方も多いだろう。

 で、早速、相方に聞いてみた。


相方「『District of Columbia』の略だよ」

私 「じゃあ、その『District of Columbia』ってどういう意味?」

相方「……(PCを叩きはじめる)」

私 「あ、知らんのね。知らんのやったらええよ。私、自分で調べるから」

相方「いや、待て。今、調べてるところだから……」

 「知らない」なら「知らない」と素直に言えばエエのにねえ……いかにも自尊心の高いアメリカ人らしい反応は、ネタとしてはオイシイが、現実世界ではちょっと残念だ。


 相方が『District of Columbia』について調べている間、「アメリカ合衆国の首都が、当時、人口増加や経済の中心として発展途上にあった北部の州ではなく、奴隷制度に支えられた大農園プランテーションの利益で潤っていた南部の州に置かれたのはナゼ?」と素朴な疑問がわいたので、私も調べてみた。



 いつの世も、大規模な戦争を起こすためにはお金が掛かる。

 独立戦争で、植民地各州は「海外(特にフランス)からの支援」と「軍隊への物資供給」いう名の多額の「負債」を抱え込んだ。

 新首都の建設予定地が選定された1790年までに、南部州(=当時のメリーランド州以南)は大半の海外負債を償還済みだった。対して、北部州は未返済のまま。そこで、北部州は「イギリス本国の圧政からこの国を解放するために各州が負った負債は、合衆国連邦政府が引き受けるのが当然だよね」と都合の良い提案をした。南部の州に首都を置く見返りとして、首都が置かれた南部州に自分達の負債を負担させてしまおう、と言うワケだ。なんともちゃっかりしている。

 ちなみに、新首都が完成するまでの間、仮の首都として機能していたのは、北部州に属する当時の北米最大都市フィラデルフィアだった。

 

 さて、法律上の首都の正式名称「コロンビア特別区(District of Columbia)」には「いずれの州にも属さない、連邦政府の直轄地」という意味があるらしい。

 「コロンビア」はアメリカ大陸の発見者「コロンブスの地」を意味する。そして、擬人化したアメリカの雅称「コロンビア」は、自由を象徴する女神でもある。

 北部州の負債を強制的に負担させられる、という貧乏くじを引きながら、自由な精神を守護する女神に見守られ、ワシントンD.C.は政治・経済の中心としてだけでなく、世界最大の博物館/美術館の複合体であるスミソニアンの本拠地として、世界中から多くの観光客を誘致する大都市へと成長を遂げた。


 ついでに言えば、スミソニアン協会が運営する博物館/美術館は全て無料。

 ホワイトハウスはもちろん、歴史的価値のある政府機関の建造物やモニュメントなど、見どころも多いD.C.を観光する際、ハイヒールやオシャレな靴は禁物だ。便利な地下鉄とバスを利用しながら、とにかく歩いて、歩いて、歩き回るのを覚悟して、底がぺたんこの履き慣れた靴と余裕ある滞在日数を用意して頂きたい。

 


***



 首都に始まり、西海岸の州、そして多くの都市に、初代大統領ジョージ・ワシントンの名が刻まれている。「アメリカ合衆国建国の父」の一人であり、愛国者達の指導者としてアメリカ独立戦争に関わった人物の中でも、ワシントンは「自国が生んだ英雄」として人気が高い。

 実は彼、バージニア州生まれで大農園プランテーション育ちの、生粋の南部人だったりする。


 ワシントンと言えば、アメリカの1ドル紙幣に描かれた「モナリザの微笑みよりも微妙な微笑みを浮かべた」肖像画の人物として有名だ。桜好きの日本人ならば、「ワシントンと桜の木」のエピソードをご存知の方も多いと思う。

 そのエピソードの大元となった『ワシントンの斧 (George Washington's Axe)』という挿話を簡単に端折はしょってみよう。



『ワシントンは6歳の誕生日プレゼントに父親から斧をもらいました』

 そんな小さな子供に、刃物、しかも斧をあげる父親ってどうよ……というツッコミはなしで。


『どうしてもその切れ味を試してみたくなったワシントンは、父親が大事に育てていた桜の木を切り倒してしまいました』

 この桜、原文では「English cherry-tree」とある。ワシントンが切り倒した桜は17世紀にイギリスからアメリカ大陸に伝えられた、食用のサクランボの実をつけるセイヨウミザクラとするのが通説だ。日本からアメリカに桜が送られたのは1912年のことだから、ワシントンD.C.のポトマック河畔沿いに植えられている桜とワシントン少年の接点は、残念ながら皆無だ。間違っても、D.C.観光中に「この桜の木を切ってしまったワシントン少年は……」などと語ってはいけない。


 さて、『桜の木を切ってしまったワシントン少年は』と言えば……


『父親に怒られるのを恐れ、ワシントンは正直に話すべきか悩みました。けれど、父親の顔を見た瞬間、勇気をふるって叫びました。「僕は嘘がつけません。この斧で、僕が桜の木を切りました」』

 原文では『with the sweet face of youth brightened with the inexpressible charm of all-conquering truth』とある。勇気をふるって叫ぶ少年の『若く愛らしい顔は、真実を受け入れ、言葉で言い表すことが出来ぬほどの魅力で輝いていた』そうな。たった6歳の子供の表情を語るにしては、かなり胡散臭うさんくさい表現だ。

 ワシントン少年も、悪いことをしたと分かっているクセに「ごめんなさい」とは絶対に言わない。このあたりが、現代のアメリカ人に通じるような気がする。アメリカ人は、滅多なことでは「I'm sorry」とは絶対に言わないのだ。


『それを聞いた父親は「さあ、この腕の中に走っておいで! お前の英雄的な行為は、千本の桜の木より価値がある」と言って、ワシントンを許しました』

 いや、お父さん、6歳の子供に『英雄的な行為』って言っても、分からへんから。しかも、『さあ、この腕の中に……!』って、胡散臭すぎやし。


 これが「ウソをついてはいけない。正直でいることが何よりも大切だ」という教訓を伝える「ワシントンと桜の木」の逸話になったとさ。めでたし、めでたし……

 


 実はこのお話、ワシントンの死後、彼の伝記を書いて一儲けを企てた自称「牧師」の書籍販売業者メーソン・ロック・ウィームズの作り話で、全くのデタラメらしい。「正直でいることが何よりも大切だ」と教える「ウソのお話し」を作ったのが、「ウソをついてはいけない」はずの牧師(ウソ)だったとは、何ともお粗末だ。

 しかしながら、この「ウソのお話し」は、生前のワシントンの清廉せいれんで誠実な人柄とも相まって、「独立戦争の英雄であるワシントンは、幼少期もこうあるべきだ」という人々の想いと共に、現在まで語り継がれている。 


 ワシントンの逸話は知っていても、彼がどのようにして「独立戦争の英雄」になったかを知る日本人は、そう多くはないだろう。

 

 11歳の時に大農園主プランターだった父を亡くしたワシントンは、長兄が受け継いだプランテーションで農園主としての経験を積み、17歳で測量士として公的な役職に就いた。彼が19歳の時、父親代わりだった14歳年上の長兄が結核で亡くなった。これが、ワシントンの人生の転機となる。

 バージニアの民兵隊長だった兄の地位を引き継いだことで、ワシントンは否応なく戦争の渦中に身を置くことになる。

 己の手を血で汚し、何度もくじけそうになりながら、いつしか「歴戦の軍人で愛国者」と称賛され、南部州の支持を受けて「植民地軍総司令官」となり、アメリカ独立戦争を勝利に導く偉業を成し遂げた。

 軍人の教育を受けたわけでもなく、望んで軍人になったわけでもない青年が、幾度も死線をくぐり抜け、アメリカ植民地の正規軍総司令官となって本国イギリスを相手に勝利を治め、その後、新国家の初代大統領となった。まさにアメリカン・ドリームを地で行くような彼が、心から願って止まなかったことは……


 故郷の大農園に戻って、愛する妻と静かに暮らすこと。



 大農園主の息子として農業に情熱を注いでいたワシントンが、父と兄の死によって相続したプランテーション「マウント・バーノン」は、現在でも保存・公開されている。バージニア州アレクサンドリアにあるマウント・バーノンの邸宅の母屋は、ポトマック川を一望出来る高台に建てられている。その対岸はメリーランド州だ。

 新首都の創設地として初代大統領ジョージ・ワシントンが選んだのが、バージニア州とメリーランド州に挟まれたポトマック川下流の河畔の区域だったのは、自身の邸宅があるマウント・バーノンのプランテーションに少しでも近い場所、という私的な思惑があったからだろう。



 ワシントンD.C.から車で30分程の距離にあるマウント・バーノンは「古き良きアメリカ」を体現するプランテーション跡として、国内外から多くの観光客が訪れる。敬虔なキリスト教徒が多い南部州としては珍しく、祝日やクリスマスも関係なく年中無休だ。

 パーキングに車を止めて入り口に向かって歩いて行くと、遠くに白い建物が見えてくる。ワシントン夫妻が暮らした木造2階建ての母屋だ。「新古典主義ジョージア調建築様式」と呼ばれる素朴だが優雅な佇まいは、赤い屋根と白い壁が緑の高台に良く映えて、まるで絵本の1ページのよう。

 外から見るとこじんまりとして見えるが、実際は21もの寝室を持つ大豪邸だ。邸内を見学するガイド付きのツアーでは、ワシントン夫妻の当時の生活を垣間見ることが出来る。


 ツアーが終われば、受付で手渡された地図を手に、温室や、蒸留酒製造所、奴隷用宿舎、台所を自由見学し、広大な庭園を散策し、ワシントンの時代に飼育されていたと同じ種類の羊や馬などの動物たちとの触れ合いを楽しむのも良いだろう。

 ワシントンが新しい農作物の作付け実験・研究のために設置した「パイオニア農園」に足を運べば、そこに再建された16面の壁面を持つ不思議な形の納屋に目を奪われる。その近くに再建された粗末な奴隷小屋は、「建国の父」と慕われるワシントンが、実は300人以上の奴隷を所有する典型的な南部の大農園主だったことを暗にほのめかしている。


 バージニアの固有種が多く茂る森の小道を抜け、ワシントンと妻のマーサが共に眠る墓所へと向かう。ここでは毎日、献花代わりのリースを捧げる儀式が行われている。

 隣接する博物館では、独立戦争とワシントンの関わりや、ワシントン夫妻と奴隷達のエピソードなども語られ、南部の裕福な農園主の生活と、南部の闇である奴隷制度の両方に触れる貴重な時間を過ごすことが出来る。

 歯の問題に生涯悩まされ、大統領に就任するまでに、永久歯は残りわずか1本になっていたというワシントン。博物館には大統領就任式の際、彼が装着していたとされる義歯が展示されている。200年以上前に作られた物とは思えない程、精巧な作りに、思わず見入ってしまった。1ドル札の「微妙な微笑み」は、総義歯を装着している負い目と恒常的な痛みを常に抱えていたワシントンの「不屈にして最高の微笑み」なのだ。


 傑出した農業専門家になるべく、研究を重ね、労働力とその結果である生産高の関係を詳細に記録し続けたワシントン。その生真面目さと勤勉さで、父と兄から受け継いだ2000 エーカー(8km²)のプランテーションを、8000エーカー(32 km²)までに広げた。

 


  George Washington's Mount Vernon.


 そこは、戦争に身を投じることがなければ、一農園主として愛する妻のそばで平凡だが穏やかな日々を過ごすことが出来たかもしれないワシントンの、夢の名残りが鮮やかに揺蕩たゆたう場所だ。


(2018年4月27日 公開)

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