17-3.大人は臆病
夢もそうなのかな。目の前にぶら下げて楽しく見つめていられるうちはいいけれど、現実を知って絶望して、目に付くのがつらくなったら奥深くに仕舞い込んでしまう。捜そうと思って探ったところでなかなか見つからなくて、あるとき不意にはっきりと形を思い出すものなのかもしれない。
「あのさあ、既婚者の人にこういうこと言うのもなんだけど。他意はないから許してほしいのだけど」
「うん?」
「私たちって、彼氏彼女だったよね? 私はそのつもりなんだけど」
ちょっとびっくりした顔で黙った後、井口くんはにかっと笑ってくれた。
「もちろん。おれだってそのつもり」
ケーキが仕上がったみたいだったので店内に戻って支度をする。
私はチョコペンで丁寧に一歳の子どもの名前を書いた。
「ありがとうございました」
店の外まで出て、井口くんがクルマに乗り込むのを見送る。
「田島さ、ずっとここで働いてるの?」
「ううん。そのうち辞めると思う」
「そっか。じゃあな」
「バイバイ」
通りに走り出るクルマに手を振って、視界からそれが消えると、ようやくコトリと胸に落ち着くものがあった。
ようやく。初めから終わりまで、きちんと恋を終わらせることができた。納得できた。
本当は、しっくりできない点はまだたくさんあった。
井口くんがあんなふうに言ってくれるほど、私は彼を好きだったろうか。好きだったとしても、その重さが同じだったとは思えない。
好きって気持ちはいつでもそうだ。お互いを同じ分だけ愛し合えたら苦労はしない。そうじゃないから男女の揉め事は起きる。
その差異を金品で埋めたり、家事労働で賄ったり、体で尽くしたり。
そうやって埋め合わせてもらったことにして、不満を落ち着けてるのじゃないのかな。
だとしたらやっぱり大人の恋愛は打算でしかない。
ああ、気持ちの重さに差があることがわかってるから好きって口に出せなくなっちゃうのかな。算盤尽ならそんな勇気はいらないもんね。
大人は臆病だ。年をとるとカラダの傷が治りにくくなるように、大人になって負ったココロの傷は塞がらないのかもしれない。だから大人は傷つくことを極端に恐れる。素直な心をなくして図太い振りをする。
そうでなければ世の中を泳ぎ切れないから。傷つくとわかってる恋愛に心を砕く余裕なんてないのだ。
それでも、好きって気持ちは心のどこかにあるのかな。大好きって思える気持ちは、また湧き出てきてくれるのかな。
そのとき私は、その誰かに向かって大好きって言えるのかな。わからないな。今はまだ。
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