花嵐の凪に

@saisakiyoi

春に謳う

今日も私の世界は真っ暗だ。

包帯に覆われた眼球で見る景色は夜で、静寂が耳に痛い。という痛さも実はもうわからないほど長い時間、私の耳は仕事を放棄して久しい。

それでも身体というのは随分と必死に生きることを選択するらしく、閉ざされた病室のドアが開いたことを嗅覚と触覚が脳に伝える。

そんなことをしたって、数年に渡りベッドに頼り続けた肉体は既に衰弱しきっているのだから、侵入者を拒めはしないものだというのに。

諦念にも似た緑色の粘っこい感情が性質の悪い細菌のように胸の中へと広がっていく。まるでこの古い病院から立ち込める複数の薬品と病原菌が混ざりあった空気に脳まで汚染されていくかのようだ。

そんな苦い心中を刺す針のような、春の香り。

いつもの消毒液の臭いがしないから、今部屋に来た来訪者は医師や看護婦ではないらしい。

花と、芽吹いた草木の瑞々しい匂いが鼻腔に広がり、見えない視界にも春の景観を映すかと思われた。

不意に手の甲に暖かいものが触れる。恐る恐るもう片方の手で触れてみると形からして人の手のようだ。

検温や点滴の時に触れる冷たい医師の手に比べてそれは幾分か温かく、匂いも相まって春という季節が遊びにやってきたかのように思った。

今まで無為に過ごしてきた時間の流れに突然節目が現れたのが嬉しくて、通じるかもわからない相手の手をトントンと指で叩く。

《あなたはだれ?》

すると驚くべきことに、相手から同じようにして返事が返ってきた。その内容もこれまた驚くべきもので、

《通りすがりの旅のものだ。》

という。

《どうして私の病室に来たの?》

と打ち返してみると、触れている手が微かに振動していたので私の打つ信号を言葉にしてわざわざ発声しているようだ。

変な人だなぁ、と失礼なことを思いつつも、この正体不明の相手を私は追い出す気にはなれなかった。

窓を開けて貰えない病室に訪れた春の空気を捨て去ってしまうようで、なんだかもったいなかったのだ。





《今日も来たの?》

滞在3日目、と勝手に心の中で数えてみる。実際は私の病室にこの人が訪れ出して3日目なので本当にここに滞在して3日目なのかどうかはわからないのだけど、なんとなくこうして数えてみるとこの人が自分だけの客人なのだと思えて嬉しいのでそういうことにしておこう。

実際にしたことはないのでわからないけど、昔から歌によく出てくる恋愛というものの先端はじっこ齧りましたよーというのはきっとこういう気分なんじゃないだろうか。

《生憎の雨だがね。こういう日は花が散ってしまって寂しいものだな。》

私がまだ耳が聞こえたことに四苦八苦して覚えた手信号を、この人はさらりと使いこなしていた。

化粧品の類の匂いがしないので勝手に脳内変換はかっこいい男性にしていたりするのだ、実は。

目が見えないのが勿体ないような、現実に打ちのめされなくて助かるような、何とも言えない心持ちだ。

やっぱりこういうのも、レンアイの醍醐味というやつなんだろうか。

こんな風に浮かれているのもきっとこの人が春を連れてきたせいなんだろう。

《花が好きなの?》

《花だけではないぞ。草木や土や、美しい景色は皆好きだ。》

《げに一刻も千金の、といった口振りだね。》

《ほう、詳しいな。春の歌が好きなのか?》

《春だけじゃないよ。歌はとても好き。もう新しい歌をこれ以上増やせないのが残念だけど。》

そういって耳と目を指差した後にお手上げ、といった姿勢をとってみせる。

《どちらかだけでも見えるか聞こえるかしてればなぁ。》

言ってもせんなきことかな、と我ながら泣けてくる。

叶わぬ望みを抱いた時から絶望は始まっているのだ、なんつって。どうにもこうにもならないとわかっていても心の端っこの、それでいて柔らかい部分が瓦解していく音が伽藍に響く。

《何か歌ってみてくれないか。》

精神が真っ逆さまに落ちていきそうな寸でのところで、この男(私の想像だけど)は驚くべきことを告げる。

いやいや、こちとら耳も目も使い物にならなくなってどれだけだと思っているんだろうか。

自分の声さえ聞こえないのに、どうやって歌えっていうのでしょうか全く。

《嫌だ。音外したりしたら格好つかないもの。》

感情を伝えるように、少しつっけんどんに掌を指で弾いたら、

《少しだけでいいから。》

と食い下がられてしまった。

なんというか、私の都合のいい妄想によりこの話し相手は私好みの美丈夫に仕上がっているので、その人物像が手を合わせて頭を下げる姿を想像してしまい、なんとなく心が痛くなる。

ええいままよと思いつつ腹を括って息を吸い込む。わー、なんて男らしいんだろ私。

喉を振動が通り、声が出ているのがわかる。まずはしばらく使われていなかったせいで鈍っている声帯をある程度戻さなくてはならない。

このリハビリもどきの予備動作だけで既に若干喉が痛い。

自分の衰えを感じて悲しみを覚えつつ、記憶にある歌を引っ張り出す。

折角だから季節に合わせた歌がいい。春と言えば花、薄桃色で見事に咲き誇った木の下で、大きく手を広げるイメージだ。

序盤は語るようにゆっくりと、サビは感情をうねらせて。

合っているかもわからない音程でおぼろげな歌詞を紡ぎ、自己満足的な旋律を歌いあげる。

そうして喉を震わせていたのは、気がつけば嗚咽に変わっていた。

頬を伝っていく熱い感触に、涙腺はまだ生きてるんだなぁと場違いな思考が生まれて消えた。

「私、昔の夢は歌手になりたかったの。」

《良い歌だった。》

聞こえない私の為に、彼は指で会話を紡いでくれる。

それでも思い出したこの気持ちを言葉にしたくて、必死に口を開き舌を動かす。

「でも、もう歌えない。自分の歌さえ聞こえないんだもの!」

《目が見えるようになりたいか?耳が聞こえるようになりたいか?》

「当たり前でしょう。叶わないと知っていても、この願いは永遠に残り続けて私を縛るの。取り上げられて、二度と戻らないんだってわかっていても。」

《昔は見えて、聞こえていたのだな。》

あぁそうだ。お父様とお母様、弟に囲まれてよくお庭で歌って踊った。小さな小さな私だけのコンサート会場に、拍手喝采アンコール。歌うことが好きで、きらきらと輝く未来を想像していた。

私が全てを取り上げられたのはいつからだっけ?

《思い出さないほうが、いいこともある。》

触れてきた指は優しく、そして同時に諦めろと告げているようでもあった。

そうだ、この鳥籠の中にいれば傷付くこともない。この薬臭い病室の中でまどろんでは覚醒し、こうしてこの人と時折季節や歌や色々なことを手信号で話す。そんな人生でもいいじゃないか。十分満たされている。

心の中の弱い私が縋りついてくる。もうこれ以上、傷を増やしてくれるなと泣き叫んでいる。

それでも、私は。

「もっと歌いたい。嬉しい歌も悲しい歌も全部自分のものにしたい!」

涙とその他諸々でくしゃくしゃになった私の顔に触れる両手。暖かくて、春の日なたみたいにぽかぽかとしているのがなんだかとても嬉しくてびっくりした止まった涙がまたほろりと落ちる。

その指が瞼に触れてそこからゆっくりと熱が広がる。指が滑って今度は耳に触れ、指の軌跡を辿るように熱が広がっていく。

なんだかくすぐったくて、身じろぎした拍子に目の上に巻かれた包帯が乾燥した音を立ててずり落ちる。

どうして包帯の衣擦れの音が聞こえるんだろうと考える間もなく、襲ってくるのは光の洪水。反射的に目を瞑ると涙がまた溢れ出た。

真っ白な世界に眼球が焼かれ溶け落ちてしまうんじゃないかとさえ感じる。

目の縁を拭い、ちかちか点滅する光が収まったのちにゆっくりと瞼を持ちあげる。

まず見えたのは自分の手。涙とその他諸々でくしゃくしゃになっている。

更にその下に見えるのは、もう何年も動かしていない自分の足。点滴と病院食のおかげでダイエットいらずなのが一目瞭然だ。

最後に視界を少し上に向ける。

施錠部分が埃まみれになった窓が大きく開け放たれ、そこに佇む人物を外からの日光が照らしていた。

肩口で束ねられた髪色は磨き上げた鋼で、縁取られた顔に収まるのは夜天をくり抜いたような瑠璃の眼球。

どこかの民族衣装だろうか、見慣れない衣服から覗く皮膚は白く傷一つなく、組まれた手足は無駄な筋肉も脂肪も削ぎ落とされたかのようにしなやかだった。

どのパーツを眺めても男か女か、大人か子供かすら判別がつかない。

瞳の中を流れていく星だけが、この生き物は人間ではないのだと明確に示していた。

そして同時に、きっとこの人はもうまもなく行ってしまうのだろうと察してしまう。

目が見えるようになったことよりも、耳が聞こえるようになったことよりも、折角出来た友人が去ってしまうことがただただ寂しかった。

「やっと新しい歌、いっぱい歌えるようになったのに、もう行っちゃうんですね。」

「我らはひとところに留まれんのだよ。渡りゆくことが性分なものでね。」

初めて聞いたはずのその声は私が自分で勝手に想像していた声音にそっくりで、本当は指を介さなくても会話が出来たのではないかとさえ思ってしまう。

話し方さえそのまんまだ。

「じゃあこれは、最後の置き土産ですか?」

と冗談半分に眼球を指し示すと、奇跡みたいに整った顔立ちが微かに歪む。歪んでも整っているなんていうのはずるいと思う。

「ただの気紛れだ。どうせもう会うこともあるまい。」

なんでもないことのように語った瞳は既に窓の外を見ている。

もとより引き止められるなんて思ってはいないので、最後に言いたいことだけを言ってしまおう。

きっとこれから私が語る事を、この人は全部知っているのだろう。それでも自分のことだから、自分の口から話したかった。

「この目を潰したのはね、私の両親なの。結婚なんかしない、歌手になってこの国を出て、世界中を回るんだっていったその日にね。まぁこんなご時世だし、今ならなんというか両親が発狂した理由もわかるんだけどね、18歳の頃なんて夢見るお年頃なわけじゃないですかー。それから病院に入れられて、毎日毎日両親が連れてくる男に犯されるって、もうわけがわからないでしょ。妊娠して子供まで生まれて、でもついぞ腕に抱くことすらなかったんだけど。今思えばあれって後継ぎ作りってやつだったのかなぁ。あんまりにも辛くて、紛らわそうと病室で歌ってたら今度は弟に耳を塞がれた。うるさいから黙れってそれだけの理由ですよ。まるで世界の全部に恨まれてるんじゃないかってぐらい、悲惨な目にあったんだと思わない?」

もう何年も使っていなかったくせにぺらぺらと良く動く口だな、と自分に関心していると話し相手はなんともいえない表情のままため息混じりに言葉を返してくる。

「思わないな。僕の見てきた世は、そのくらいの些末事で溢れかえっている。」

「人の半生を語ってるのに、些末事で片付けないでよね。」

「お前にとっては重要だろうが、僕にとっては世界の極小単位の一部分でしかない。」

それに、と付け加えた顔には穏やかな笑み。

「襲い来る後悔も足を引き摺る諦念も、全てを歌に変えてしまえるほどにお前は音楽に愛されている。先ほどの歌を聴いてそう感じた。どうせ残りの生も捧げるのなら過去などくれてやるがいい。」

そう言い残すと、高温に溶けるガラスのように人物像が溶解する。

みるみるうちに質量を増して、再び固まった時には彩り以外に面影を残さない獣の様な姿に変貌していた。

大きく枝分かれした鹿の角を冠のように頂くのは白狼の頭。瑠璃の眼には流星が絶えず落ち続けている。

白銀の毛並みが四肢へ向かう途中で鱗に変わり、発達した爪に被さっている。

大海原のような鬣が背骨に従って尾の先まで連なり、背中あたりのそれを覆い隠す鷹の翼が3対6枚。

複数の生き物を混ぜ合わせたような、それでいて原初から存在する種のような、こんな姿をとる獣を私は一つしか知らない。

有り余る寿命を持ち、知を習得しながら星海を渡る、すなわち竜である。

世界に満ち満ちた竜の因子と呼ばれる粒子を操って様々な奇跡を起こすとされているが、この目耳を癒したのがその力だとすれば説明がつく。

竜の四肢がたわみ、病室の床を蹴って跳躍する。風が巻き起こり、カーテンやベッドに掛けられたシーツ、部屋の調度品の一部が吹き飛んで落下する。

ぶつかる、と思いきや、なんと竜の巨体は天井をすり抜けていった。

あとに残されるのは嵐の後の残骸。

そうして老人の病室はまた空っぽの水槽のように静かになった。

自分の寿命が幾分もないことを理解していても、取り戻した世界は鮮やかな色彩を失わない。

心は跳ねて、初めて恋を知った少女のように浮かれている。

開け放たれた窓からは春に歌う竜の声。

翼を広げ空を切り、羽根も風も音も全てを置き去りにしてゆく。

そうしてまた、渡っていくのだろう。

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