第1話 ファイナルコール

スマホに番号を打ち込み発信ボタンをタップしようとしたところで躊躇いが生じた。これから先なにが起こるのか全く予想できない不安と後戻りできないかもしれないという恐怖に苛まれる。

 逡巡ののち思い切って発信ボタンをタップした。二三度コール音が聞こえ、かすかに鼓動が跳ねる。

 カタッ。

「もしもし。永続的人類発展研究所の田中です」

 女性の声が耳に響く。聞きなれない単語に戸惑いながらもぼくは震える声を出す。

「あ、も、もしもし。湯山といいます。募集のチラシ見ました」

「湯山様ですね。ありがとうございます。私たちのプロジェクトに興味を持ってくださったのですね」

「はい。あの、少し話を聞いてみたいと思いまして。具体的に何をする仕事でしょうか」

 一瞬、沈黙の間が訪れる。不吉な予感がして身構える。

「すみませんが具体的な内容は今の段階ではお教えできません。ただ、ひとつお伝えしなければならないことがあります」

「はい」

 ゴクリ。

「私たちのプロジェクトに参加していただくことになれば、湯山様はそちらの世界に帰ることは出来ません。それでもよろしいでしょうか」

「こちらの世界ということは、本当に別の世界があるってことですか」

「はい、と私が答えるよりも実際にご自身の目で見ていただく方が確実かと思いますよ」

 試すような口調で言う。

 ここにきてぼくは田中さんが言っていることをほとんど疑っていないことに気づいた。望んでいるのだ。ここではない世界を。しかし、一方でこの世界に未練はないだろうかと考えている。そしてひとつだけ未練というか、大きな気がかりがあることに思い至る。それは父さんの存在である。片親で今までぼくのことを育ててくれた父さんを裏切って姿を消すのはあまりに心が痛む。

「なるほど、わかりました。ひとつ気になることがあるのですが、自分がいなくなったら家族が心配すると思うのですが」

 ぼくはこの時、「僕」と言おうとしたが、「自分」といったことをなぜかはっきり覚えている。しかし、そんなことは些細なことだ。なぜなら田中さんがとんでもないことをぼくに告げたから。

「その点は心配に及びません。あなたが私たちのプロジェクトに参加した暁には、あなたはそちらの世界にはそもそも存在しなかったことになります」

「は?」

 つい大きい声が出てしまった。非現実すぎる。

「自分が、最初から、この世界にいない、ということに?」

「ええ、そうです。それと確認といたしまして、私たちのプロジェクトは人類にとって価値のあるものであって、決してやましいものではありません。職務内容によりますが生活面においても可能な限りのサポートがつきます。ときとして身体に多少の危険が及ぶ場合もありますが、護衛のものが付きますのである程度は安全です」

「そうですか……。えーと、じゃあ、もし自分がプロジェクトに参加したら、世界の役に立てるかもしれないということですか」

 ぼくは話を聞くにしたがって、かなり怖気づき始めていた。まさしくこれからの人生を左右する決断のときだ。が、しかし今、頭の中を占めているのは父さんのことだ。今まで仕事と家事を両立しながら、ぼくを育ててくれた父さんには感謝してもしきれないほどの恩がある。それと同時に、受験に失敗したことへの申し訳なさ、面目なさが僕の心を押しつぶそうとしていた。

 本当にごめん。何も恩返しができない至らない息子で。

 ぼくは心の中で、できる限りの慚愧を表明した。長い沈黙をはさんで、田中さんが声のトーンを変えることなく、

「今すぐ決断する必要はありません。ご自身がよく考えたうえで、最適な答えを見つけてください」

 そう言ってくれた。だから僕はとりあえず決断を保留することにした。

「わかりました、そうします。では」

  電話を終えた後、脱力感から勉強椅子にへたりこんでしまう。小学校入学以来同じものをずっと使ってきた。かなりくたくたで今にも壊れそうだ。

 とりあえず、スマホを机の上において、これからのことを考えてみることにする。

 まず、田中さんのいうプロジェクトに参加するかどうかだ。今ならまだ後に引ける。もし参加する場合、二度とこの世界に戻って来られないらしい。とはいえ、この世界に未練はない。……父さんを除いて。 

 勢いあまって電話をかけたはいいが肝心なことを忘れていた。ぼくはまだ後期の試験の結果を父に報告していなかった。前期、中期と二度も父さんを失望させてしまっている。三度目の正直は果たせなかった。ずいぶんランクを落としたのになあ。

 後期試験を落としたということは、浪人確定である。このことを報告したときの父の表情や言葉を想像しただけで、胃がきりきり痛み、心がはちきれそうだ。逃げたい。そう思ってしまったのだ。

 ――ぼくなんか別にいなくても構わない存在だったんだ。

 そう思うと、悲しくて虚しくて仕方がなかった。ぼくが最初からいなかったことになるならそれでいいのかもしれない。誰も苦しまない。誰も辛くない。

 プロジェクトに参加すれば、少なくともぼくは世界のためになにかできるらしい。それならぼくも、父さんも救われるよな。


 その時、スマホがぼくをコールした。着信だ。誰だろう。

 ――父さんだ。ぼくは電話に出ることにした。本当は出るつもりはなかった。しかし、最後になるかもしれない、そう反射的に考えた。

「もしもし」「もしもし」

 言葉が重なった。

「ああ、世司。試験の結果どうだった?」

「……落ちてたよ。まあ、なんとなくそんな気はしてたけど」

 ぼくは強がってそう言った。本当は心の底から受かっていてほしかったのに。だけど、ぼくは父さんに弱さを見せたくなかった。長い沈黙ののち。

「そうか……。よく……頑張っていたのになあ」

 泣いている。父さんは電話越しでもはっきりわかるくらいに嗚咽を漏らしている。

 ああ、だから。だから、言いたくなかったんだ。こんなのになってほしくなかったのに。心臓がはちきれそうだ。ぼくは最後に言葉を残して通話を切った。

「ごめん。ありがとう」

 スマホをベッドの上に放り投げると、大きなため息が出た。なんともままならないなあ。ぼくは今晩仕事から帰ってきた父さんとはもう顔を合わせることができないと思った。そして、同時に意志が固まった。ぼくは再びスマホを拾い上げて、リダイヤルからさっきの番号にコールをかけた。

 先ほどと同じ声の女性が電話に出た。おちついた心境で聴いてみると、彼女の声色は大人びているようで、実際はそれより若いのかもしれないと思わせるものがあった。高く綺麗で澄んだ声だ。

「もしもし、田中です」

「湯山です。決めました。あなたたちのプロジェクトに参加します」

「かなり早い決断ですね。なにか大きな心境の変化でもありましたか?」

 彼女は少しおもしろそうに言ったが、軽蔑のニュアンスは感じられない。

「ええ、まあ。この世界にはもういられなくなりました。些細な理由です」

「そうですか。では、最後にもう一度確認します。あなたはわたしたちの世界を救うプロジェクトに参加することになり、この世界からは最初からいなかったことになります。このことの意味を今はお教えできませんが、必ずそうなります。そして、多かれ少なかれ危険な目にも合うかもしれません。それでもあなたは、わたしたちのプロジェクトに参加しますか」

 彼女は一息に言った。ぼくは最初から答えを用意していたが、あえて焦らすように間を持たせて答えた。

「はい」

「ありがとうございます。それではあなたの位置座標を検索して、わたしたち研究所に移送します。しばらく時間がかかるので、そのままお待ちください」

 そう言うと彼女は電話を切った。ぼくは徐に部屋の様子を見回した。

 特に変化がないまま数十分が経ったころ、突如として猛烈な睡魔が襲ってきた。そして半ば意識を失うようにして、床に倒れこんだ。

 最後の最後に、霞む眼がとらえたのは父さんが小学校入学祝いに買ってくれた勉強机の像だった。

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