分身

 私がそれを思いついたのは、彼を封印した後のことだった。

 封印の維持は予想以上に手間がかかった。獣への魔力供給を並行して行うと手一杯になり、身動きが取れなくなってしまう。

 生き残りの人類を滅ぼすためにはもうひと押しが必要だった。

 黒い獣に任せきりでは駄目だ。残された魔法使いたちがいる限り、人類はしぶとく生き残るだろう。

 手が足りないなら、増やせばいい。

 そんな単純な考えから、私はもう一人の私を生み出すことにした。

 私は自分の仕事だけに集中し、もう一人の私には人類が滅びへと向かうための手助けをしてもらう。

 我ながら妙案だと思った。

 確かにその瞬間まで、愚かな私はそう思っていたのだ。


 魂を分割し、分身わけみを作成した。そこまでは間違いない。

 しかし……ふと気が付いてみれば、

 酷く混乱した。何が起きたのか分からなかった。一瞬前まで私は確かに私自身だったはずなのに、いつの間にかこの体は違う肉体にすり替わっていた。

 現実を否定しようとする心とは裏腹に、己の身に流れる魔力の量が、扱える魔法の規模が、私は分身なのだと雄弁に物語っていた。

 何を間違えてしまったのだろう? どこで失敗した?

 目の前に佇む私そっくりの女は満足気に微笑むと、不意に姿を消してしまった。

 後に冷静になって考えてみれば当然のことだったのだが……私が持っている記憶は、分身を作る瞬間までは共有されていた。つまり記憶の上では、私は本体と全く同じ経験をしてきたのだ。なので分身として作られた私が自分のことを本体だと誤解してしまったのも無理もないこと……だったのだろう。


 きっと本体は分身の気持ちなど想像もできなかったに違いない。

 理屈の上では自分の立場を理解することはできても、感情はなかなか追いついてきてくれなかった。こんなはずじゃないのに。どうして私がこんな目に……そんな考えばかりが頭の中をぐるぐる回った。

 しかし、いくら現実を否定しても、胸に刻まれた使命は私を自由にしてくれない。

 しばらくの葛藤を経て、私は捨て鉢な気分で己の境遇を受け入れることにした。

 要は、人類を滅ぼせばいいのだ。そうすれば私は再び一つになれる。


 黒い獣――魔法使いたちからは害獣と呼ばれていた――によってめちゃくちゃになったこの世界にとどめを刺すことぐらい、簡単な仕事だと思っていた。

 しかし、彼が地上に残した魔法使いたちは、私が思っていたよりも優秀だった。彼らはお互いの足りない部分を連携で補い合い、実力以上の力を発揮していた。

 私の魔力は彼らと同程度の水準でしかなかったため、一人ずつ暗殺するというプランは早々に無謀だと悟った。うまいこと一人や二人を暗殺できたとしても、すぐにバレて追い詰められてしまうだろう。私が死んでしまえばそれで全てが終わるのだ。ここは慎重に行かなければならない。

 幸い、魔法使いたちの記憶は彼の情報を消去する際に曖昧なものとなっていた。見知らぬ魔法使いが一人くらい紛れ込んだ所で、誰も不審には思わなかった。

 私は彼らの仲間として、しばらく人類の復興を手助けすることにした。正確には協力するふりをして、隙を見つけてはこっそりと妨害してやろうと企んでいた……のだが……これがなかなかどうして難しい。

 というか、当時は害獣を見つけ次第殺すくらいしかできることがなかった。目の前で害獣を殺そうとしている魔法使いに対して、どうやってバレないように妨害しろと言うのか。少なくとも私には無理だった。


 ろくな成果も上げられないまま、あれよあれよと言う間に数年が過ぎてしまった。

 私のあからさまにやる気のない態度も、元々そういう性格なのだと他の魔法使いたちは認識したらしく、特に責められることはなかった。それどころか私が扱える魔法が有用だということで、やけに重宝されるようになってしまった。

 私に言わせればこんな魔法など、本物の魔法の劣化版でしかないというのに。


 ある時、普通の害獣とは明らかに異なる害獣が現れた。

 それは魔力の通った壁を食い荒らし、魔法使い数人がかりでようやくまともな戦いになるくらいの強力な個体だった。

 あんなものが存在するなんて、その時まで私も知らなかった。

 恐らくあれは、本体わたしからの魔力供給とは別に魔力を得る手段を獲得した、害獣の変異種だったのだろう。

 その時、私の頭の中に一つのひらめきが生まれた。

 あの変異種――魔法使いたちからは『壁喰い』と名付けられていた――は残念ながら撃破されてしまったが、もしもあれが東京に現れず、何年もかけて魔力を蓄え続けていたとしたら……?

 この日本中で変異した害獣がたった一体だけしか存在しない、などということはないだろう。恐らく一定の確率で変異は起こっているはずだ。

 ならばそれらをじっくりと時間をかけて育て上げ、複数の変異種を一斉にこの東京にぶつけたとしたらどうだろう? たった一体の変異種を相手にあれだけ苦戦したのだ。あれ以上に強力な個体が、しかも複数同時に襲ってくれば、魔法使いたちは為す術もなく蹂躙されるに違いない。


 実際に調査を進め、私の推測通りかなりの数の変異種を発見するにつれて、想像が現実味を帯びてきた。というか、現状全くと言っていいほど人類滅亡への手を進められていない私にとっては、これ以上ないほど魅力的な案に思えてきた。

 この計画を進めるに当たって、まず最も警戒すべきことは、各地に散らばる変異種を各個撃破されてしまうことだった。

 一度死んだ変異種は普通の害獣のように復活することはない。力を付ける前に叩かれることだけは避けなければならなかった。

 そこで私は、魔法使いたちに『大決戦』の提案をした。

 これが成功すれば、人類からしてみれば驚異となる可能性のある害獣を手の届かない場所に隔離することができる。私にとっては変異種が育つ前に魔法使いに狩られてしまわないように保護することができる。完璧に双方の利害が一致する作戦だった。

 ほぼ全員の魔法使いからの賛同を得て、この作戦は実行に移されることになった。

 誰も私の真意を見抜けない。私は内心でほくそ笑んでいた。

 予定にはなかったことだが、この作戦のおかげで、壁の魔法使いと誘引の魔法使いという人類の復興に多大な貢献をしてきた二人の魔法使いが姿を消すこととなった。これは思いがけず大きな収穫だった。

 一つの山場を乗り越えて、私はようやく一息つけたような気がした。後は適当に周りに合わせて働きながら、ゆっくりと変異種が育つのを待てばいい……。


 しかし、その頃から……正確には『壁喰い』が現れた後くらいから、私はある一人の魔法使いの存在が気になり始めていた。いや、この場合は"目に障るようになり始めた"と言った方が適切かも知れないが……。

 空手の魔法使いなどというふざけた二つ名のその少女は、どこを気に入ったのか知らないが、急に私に懐くようになっていた。

 私は子供があまり好きではない。

 話しかけられても素っ気なく突き返し、時にははっきり迷惑だから付きまとうなと言ってやる。それでも彼女は全くめげずに、何度も何度も私とコミュニケーションを取ろうとしてきた。

 逃げても、隠れても、無視しても、最終的には魔法で脅してみても、彼女は全く意に介さない。

 正直、なんなんだこいつは、と思った。

 意味が分からない。理解ができない。ちょっと恐怖すら感じてしまったくらいだ。

 彼女が追いかけ、私がそでにする。そんな関係が何年も続いた。

 時間というのは恐ろしいものだ。

 いや、あるいは人間の順応性こそ真に恐れるべきものなのか。

 いつの間にか私は彼女に付きまとわれることにすっかり慣れてしまっていた。

 彼女は私の態度が軟化し始めたのを目ざとく見つけたのか「自分たちはマブダチ」などと吹聴ふいちょうし始める始末だったが、不思議なことに、それに対してほとんど不快感を覚えていない自分がいた。

 こんなことは初めてだった。


 私は幼い頃、周りの同世代の子供たちが苦労して解くような問題を簡単に解くことができた。全員揃って同じ問題を解かなければならないのがまだるっこしくて、毎日の授業が退屈で仕方がなかった。

 どうしてこんな簡単なことが理解できないのだろう。どうして少しの努力もせずにテストの点が悪かったなどと嘆くのだろう。

 周りを見下すような気持ちや態度を一切隠さなかった私は、いつもクラスで浮いている存在だった。

 うとまれ、ねたまれることは仕方のないことだと思ったし、孤独であることは特に苦痛ではなかった。

 それは歳を重ね、大人になってからも変わらなかった。

 不条理を押し付けてくる上司や、非効率なやり方を強要する先輩。それらに物怖じせず言いたいことを言う私に対して、奇異なものでも見るかのように眉をひそめて距離を取ろうとする同僚たち。

 小さなことから始まり、やがてエスカレートしていく嫌がらせを、心底下らないと思った。

 ひょっとしてこの世界は、どうしようもなく馬鹿馬鹿しいことや、そういった人間たちが地層のように積み重なることによって成り立っているのではないか。そう考えるとめまいがするようだった。

 それでも、私は一人で生きていけると思っていた。こんな下らない世界に負けることはないと思っていた。

 ……私は、私自身のことを何も分かっていなかった。

 自分でも気が付かないうちに、私の体調はどんどん悪化していった。

 朝、目を覚ますことができない。

 職場に向かう度に頭痛や吐き気、動悸や倦怠感が波のように押し寄せてくる。

 遠くの病院を受診しても原因は不明。何の異常も見つからなかった。

 自分で自分の体が思い通りにならないことが歯がゆかった。

 やがて私は完全に職場に行くことができなくなり、長期の休暇を余儀なくされた。

 その時、私の中でかろうじて保たれていた何かが切れたような気がした。

 私は……認めたくないが、たぶんずっとつらかったのだ。そして寂しかった。

 両親は私が怠けていると思い込み、呆れていた。私はあの人たちに何を言っても無駄だと悟っていたから、ずっと何も言わなかった。

 でも、弟だけは違った。

 弟だけは……この世界でただ一人、私に優しくしてくれた。


 空手の魔法使いの存在は、どことなく弟を思い起こさせた。

 見た目も性格も全然違うはずなのに、あの頃感じていた安らぎのようなものを不意に思い出すことがあった。

 彼女が意味もなく私だけの空間に押しかけてきたり、厄介な頼み事をしてきたりすると、私は心底面倒くさいと思いながらも(そして直接そう言ってやりながらも)、心のどこかで浮き立つものを感じていた。

 いつもうるさいくらいに話しかけてくる彼女がたまたま私の元を訪れない日があると、心の奥底がざわつくような、妙に落ち着かないような気持ちになった。

 頼られることが嬉しかった。騒がしさをわずらわしいと思わなくなった。


 認めよう。

 私は、いつしか彼女のことを好きになっていた。


 彼女は私を対等な存在として扱い、遠慮せずに言いたいことを言う。

 私も一切の遠慮なく、彼女に思うがままの感情をぶつけられる。

 別に、彼女が見た目通りの無邪気な少女だなんて信じている訳じゃなかった。

 きっと何らかの打算や思惑があって、彼女は私に近付いているのだろう。私にもそれくらいのことは分かっていた。

 しかしそれでも時間というものは容赦なく過ぎ去っていく。

 同じ時間を過ごす。会話をする。二人で一つのことに取り組む。

 ただそれだけの繰り返しから、いくつもの思い出が生成されていく。

 それらの積み重ねから抽出される何かを、きっとじょうと呼ぶのだろう。


 私は、自分の心の変化に戸惑っていた。

 自分の中から人間に対する憎しみが薄れていくのを感じていた。

 それでも。

 それでも私が生まれた意味は、使命は、最初からはっきりと決まっていた。

 何か行動を起こさなければならないと思った。

 このまま変異種が育つまでゆっくり待つなどという悠長なことをしていたら、きっと私はどんどん変わっていってしまう。

 私はいつか、課せられた使命すら忘れてしまうかも知れない。

 それは、己の同一性を脅かす恐怖だった。

 恐怖に突き動かされるように、私は行動した。


 私が目をつけたのはシールの魔法使いだった。

 彼女はもう何年も前から自分の殻に閉じこもり、他人との接触を避けていた。

 それはどことなく、かつての私自身の姿と重なって見えた。

 空手の魔法使いの目を避けながら密かにシールの魔法使いに接触を繰り返し、徐々にその心を掌握していく。まるで自分自身がして欲しかったことを再現するかのようなその作業は、とても簡単なものだった。

 ある時、彼女が固有魔法を概念の高みまで磨き上げたことを知った。

 己にかけられた魔法をシールの中に封じ込めて取り出す。それによって彼女は忘れていた記憶を取り戻したのだという。

 私は平静を装いつつも、内心ではかなり焦っていた。

 記憶を取り戻したということは、私が途中から紛れ込んだ異分子であることがバレてしまったのだろうか。いや、それにしてはこちらに疑いの目を向けるでもなく、気付いたことを隠している風でもない。恐らく私に対する信頼から、自分の記憶を無意識に捻じ曲げているのだろう。しかし、このままではまずいことは確かだ。どうにかしてもう一段階深く彼女の心に干渉できるようにならなければ。

 私は彼女を口先で丸め込んで、壁の向こうの西の地へと遠ざけた。

 そしてその隙に……大森の街の壁に穴を開けた。

 これは賭けだった。

 もしもシールの魔法使いが私のことを他の魔法使いに告げたなら、私の立場は一気に危うくなる。最悪の場合、殺されるかも知れない。

 しかし、彼女はどこまでも従順だった。街が壊滅したことによるショックで己を信じられなくなった彼女は、私の目論見もくろみ通り、もはや人形よりも扱いやすい存在となっていた。

 大決戦に続き、二つ目の勝利を得たと思った。

 パズルのピースがはまるかのように、完璧に私の思惑に沿って事が運んだという全能感。そして人類を滅ぼすための一歩を刻めたことに対する自己肯定感は、これまで味わったことがないほどの快感をもたらしてくれた。

 それと同時に。

 自分でも理解できないほどの嫌悪感が心の中に広がっていった。

 お腹の中に腐った生ゴミを詰め込まれたかのような気持ち悪さがいつまでも治まらなくなった。

 息苦しくて、じっとしていられなくて、叫び出したくなる。

 汚い。

 気持ち悪い。

 汚い。気持ち悪い。気持ちわるい。

 汚い、気持ち悪い、きたない、汚い、汚い、汚い、きたない、気持ちわるい。

 ……わたしは、きたない。

 自分の顔や胸をむしりたいという衝動が断続的に襲ってきて、頭がどうにかなってしまいそうで、これを打ち消すにはきっともう一度あの快感が必要で……だから私はもっとたくさんの人を殺さなければならないと思った。

 憎い人間を殺して、もう一度あの快楽を得なければ頭がおかしくなってしまう。

 ……違う。憎いなんて嘘だ。

 本当はやりたくない。嫌だ。もう殺したくない。

 でも殺さなければ私の存在する意味がなくなってしまう。

 嫌でもやらなくてはならない。

 嫌だ。

 ああ、もうなにもかもが嫌だ。誰か助けて欲しい。誰か。


 ――そんな時、彼の封印が解けた。

 何の前触れも予兆もなく、百年の眠りから彼は目覚めてしまった。

 理由は分からない。双子同士のテレパシーなどというものが存在しないのと同じように、分身は本体と意思の疎通を図ることなどできないのだから。


 彼は記憶を失ったままだった。そして私の手の中には、シールの魔法使いがいた。

 それは私にとって一つの啓示のように思えた。

 彼を……災厄の魔法使いに仕立て上げる。

 やるしかない。

 きっとこのために私は地上に生み出されたのだ。

 私が救われるためにはもう、これしかないと思った。

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